双影記 /序章
往古よりの伝えは語る。
双生なる王子の誕生は亡国の兆しなり――と。
その年。ニルデアの王、シイール・グラン・レハ・カイアードは積年の願いであった王妃の懐妊によりて大いなる喜びと恐れを知った。
月満ちて王妃は出産の時を迎える。
時至り、王にもたらされた報せは悲喜半ばするものだった。
双生なる男子の誕生――という。
王は恐れた。
王の恐れはまた、王妃の恐れでもあった。
だが、それに勝る母性の愛が王妃をして王に嘆願せしめた。いたいけなるわが子のために、異境における名もなき生を。
伝承に基づく密やかな習わしがあった。
双生の王子はその弟たるものをむつきのうちに殺すという――
王は。
深く愛する王妃のために、その願いを無下に退けることができなかった。股肱たる顧問官にしてニルデア屈指の大貴族たるカラフ・ドム・ラデールを王妃の枕辺に呼び、その腕に弟王子をゆだねた。王妃の前に、その願いを聞き入れる証として。
王妃は心震える。
王の、黒瞳に秘められた思いを知りえぬゆえに。まこと、王は、かの習わしを違えてくださるか――心の惑いをそのままに王妃の双眸は問いかける。
王の股肱は、ただ深々と一揖した。
その背に、王妃は視線を伏せる。連れ出されるわが子への思いを断ち切り、己が惑いを振り捨てよう――ように。
王は王妃の腕のなかに唯一となったわが子を抱かせた。そして、
「ソルスと。名付けよう。輝ける太陽の子と――」
王妃は。腕のなかのいたいけなるものを抱きしめた。ひとすじの、涙とともに。
夜は深く、重くのしかかる。
灯火は揺らぎ、人の命のはかなさを見せつけるかのように瞬く。
室内に控えるものたちにとっては始まったばかりのこの夜――
一人の男が臨終を迎えようとしていた。
二代にわたる王の顧問官として並ぶない権勢を我がものとしてきた大貴族カラフ・ドム・ラデールはその時、苦しい息の下から傍らに侍するものによびかけた。
「ルデス‥‥人払いを‥‥」
かすかな不審をその目元に刷いて、豪奢な寝台に横たわる男を見やったルデス・ドム・ラデールは静かに頭をめぐらし他の者等を見返った。
そこに控えるものたち、正室であり己が生母たるベルファを筆頭に二人の側室、五人の弟妹、そして自らの妻たるエディック――
彼等はルデスの淡い、それ故なおのことに鷹を思わせる鋭い双眸の、その無言の圧力に押しやられるように座を立ち室を後にした。
やがて。
「承りましょう――」
かすかな吐息とともにルデスは促す。臨終のこの時になって語られようとする秘め事に身内を震わすものを覚えながら――
「‥‥わたしは‥‥罪を、犯した‥‥」
カラフの言葉に、白晢の端正な面をかすかに翳らせる、ルデスは沈黙する。
「生涯に一度‥‥王の‥‥シイール・グラン様の依願に背いた‥‥裏切った」
絶え入るようなカラフの言葉だった。
「わたしは‥‥王妃の哀願に、負けた‥‥森で殺せよとの、王の言葉に背き、レカルの地に、お子を捨てた‥‥ソルス様の、双生の弟君を‥‥」
言葉は沈む。重く、沈黙の底に。
その余韻が絶え、一瞬朱を刷いたルデスの頬が青褪めた。
切れ上がった眦のままに、ルデスは硬直する。
ソルスの――双生の、弟‥‥
その言葉が幾重にも反響しルデスのうちに鳴りわたる。
「父上――」
やがて。
思いを絞る、ルデスに、返る声はなかった。言葉とともにその生命の炎も絶えたことをルデスは知った。
己が持てる全ての権勢、責務、そしてその積年の重荷を子の上に移譲し終えた、男の、かすかな安らぎさえ刷いたその面を、ルデスは食い入るように見入った。
何故――
今更に、それを我に明かしたッ――
それは。唇を漏れれば悲鳴であったかもしれない。
だが。
ルデスは自らの口を緘した。
内なる激情を語るはただ、揺らぐ炎を宿した淡い双眸だけであった。
自らが没した王都オーコールの公邸にカラフ・ドム・ラデールの葬儀が果てたのはそれより三日の後であった。
その夜。
オダン・ハザムはルデスに呼ばれ、その執務室を訪れた。
机を背に窓にむかって立つ長身が、鋼の強靭さを秘めてゆっくりと振り返る。
長年カラフの騎士として戦友として数多の戦いを共にし、その股肱とまでいわれたオダンは、言い知れぬ感懐を胸に、名実ともにラデール家の当主となった清冽なその姿を見やった。
肩に流れ落ちる白金の髪ゆえに、かつて、白の公子――と異名をとったその姿を。
当時。カラフの名代で戦場に立つルデスの傍らに侍し、さらに幼少の頃には、手をとって剣を教えもした。カラフの命を受け、自らが守役として手塩にかけ、育てたその人であった。
数年前、病をえたカラフに代わり二十代の半ばで先王シイールの顧問官となり、それを機に妻を迎え、城下の公邸に居を移すまで、領州ハソルシャの城館でともに過ごした時は短くない。
今、
「掛けてくれ」
と、かつては亡父の股肱でもあった老臣にねぎらいの笑みを見せる。
そうすれば優しいとさえいえる面差しだった。
常には対するものを、その内奥までを貫かずにはおかぬ淡い金の双眸も、つつみこまれるようにその鋭さをひそめる。いつに変わらぬ、やわらかな笑みだった。だが、
変わられた――
壁ぎわの椅子を引き寄せ腰を落とした、オダンのうちで、ふと、なにかがざわめく。
何が、どう――と、指摘できるわけではなかった。だが、そのオダンをしてさえ心騒がさずにはおかない何かが、今の、ルデスにはあった。
この、双眸の故か‥‥
笑みにおおいきれぬ昏い光を揺曳させる金の双眸――かきたてられた不安を、オダンは思いの外におしやる、
そのオダンに、ルデスは笑みを消し想いの知れぬ静かな面差しを向ける。
「二十年前、お前は三ヵ月ほどハソルシャから姿を消したことがあったな。あれは、王に世子が誕生して間もないころであった‥‥」
その言葉に、思わずオダンは息を詰めた。
人生の半ば以上を、戦場で、生死の間に生きてきたオダンだった。容易なことで動じるものではない。だが、これは――往年の武勇の名残りをいまだ色濃くとどめる褐色の逞しい顔に張りつめた思いを潜める、オダンは返す言葉を失う。
「もう、よいのだ。隠さずとも」
やがて。ルデスは言った。
「お前は父上の命で、レカルの地を訪れ、あるものを捨ててきた――」
「では――カラフ様は――」
絶句するオダンに、ルデスはわずかにうなずいた。
「お前に、頼みたい。レカルに行き、そのものを捜し出し、密かに、連れ戻すを――」
「何故、今更に――」
凝固したようにルデスを見つめる、オダンが苦しげに声を絞った。
「それと――わからねば、よいのだ。だが。もし、わかるようであれば――わかるほどに、似ているとあれば――」
あくまで静かなルデスの声に、オダンは、沈痛な響きを聞く。
「――他国のものにも、わかるということだ。そのものがレカルの地にとどまり続けるならよい。だが。このニルデアに境を接するいずれの国であれ、そのものを手にすることとなれば――」
そう――だった。
亡国の予兆とされる王子の存在は、それだけで、ニルデアの敵たる国にとり、得難い武器となる。そして、ニルデアをとりまく国々の間はけして、和ぎらかとはいえないのだった。
いずれの国も、自らの弱まりが他の侵攻を招くと知っている。それは、弱まった国を座視するなら、さらなる強者を身近く呼び寄せることを意味した。
国を強く持することだけが生き延びる道であるのだ、と――
己が理解にねじ伏せられるように、オダンは頭を下げ、諾った。
「すまぬ――」
しみいるように、ルデスが労う。だがそれでも、オダンは確かめずにおれなかった。
「カラフ様は――その命、救けるために、この手に委ねられた。それを、よもや御身の手で奪うようなことは――」
「――それを、奪うためなら、連れ戻す要はない――とは、思わぬか――」
オダンの危惧に答える、ルデスは窓外に視線を流した。つと顔をあげた、オダンは背を凍らせる。刹那、ルデスの面にとらえた昏い笑みに。
その笑み――その、己が胸を突いた衝撃に、
「いや――」
いや、と自らの思いを打ち消すように首を振り、半ば蹌踉と室を辞したオダンは、人気の絶えた廊下の薄闇に低く呻いていた。
同じ‥‥顔をなされた‥‥
それは、
少年の頃の、忌まわしい記憶だった。
現王ソルスの曾祖父、ローデンの治世の末年――王位継承をめぐる暗闘から、弟が兄を刑殺するにいたった、ニルデアを震撼させたその血塗られた記憶に、オダンの背を震えが這う。
よもや‥‥と、打ち消すより先にその面影が脳裡に鮮やかな影を落とす。
ローデンの長子であり、その英明勇武の資質ゆえに多くの信望を集めながら、庶出であったがために、正嫡の弟に一歩を譲っていた、その人に――髪の色さえ黒くあれば生写しよといわれたルデスだったが、だが、オダンの内でこれまで、面差しが重なることはなかった。
それがいま、
あの時の‥‥あの御方が‥‥
そこに立ち現われたかと一瞬、錯覚するほどの酷似を見たオダンだった。
ルデス様も、もう、三十におなりだ。あの時の、あの御方と御同年に‥‥
当時――老境にあったローデンの迷いは誰の目にも顕らかだった。正嫡である、それだけの理由で全てに劣る凡庸な弟に王位を譲ることへの逡巡は、だが、周囲に重苦しい波紋を広げていった。そんな中で、ローデンが横死した。そして、その人が捕縛された。弑逆――それが、その罪状だった。
真偽のほどは、わからなかった。
様々に、憶測が飛んだ。
我が子が廃嫡されることを恐れた、王妃と、それに与する一党の画策ではないか――と。
日ならずして行なわれた処刑には、なお数人の貴族が連座した。
オダンはその日、ルデスの祖父たる先々代のラデール侯に従い刑場にあった。
カラフとともに。
カラフ様は‥‥いかに思っておいでだったのか‥‥
しかし、ルデスがその人の面影を写したとして、なんの不思議はなかった。なんとなれば、王統八家の第八家たるラデール家はローデンの弟、先王の第二王子をその祖とする、同じ血の末流であったのだから。
そのラデール家にあって、カラフの父たる時のラデール侯は王妃の妹をその正室とした、この故に、王家との絆は他の王統八家をこえて強いものとなった。新王の即位を機に、その絶ちがたさを世に見せつけるように、その顧問官として傍近く仕え、さらにはその地位を世襲となしていった。
オダンは。
刑場に曳きだされたその人を、まざまざと脳裡に思いえがく。すでに、自らの足で立ちえぬほどに無残に苛まれたその姿を。環視の群衆の上に何を見たか――断頭台に擬せられながらその顔の上を過ぎった、笑いを。
己が死を目睫にしながら、何故の、あの笑みか――その笑みが、何故今、ルデス様に重なるのか――
それにより、その命運までもがルデスに重なるのではないか――その恐れに、オダンは呻いた。
そのような――妄想よッ――
打消す下から、頭をもたげるどす黒い不安に――その怖れに、オダンは戦慄する。いかなる想いが、ルデスをしてあのような笑みを浮かべさせたか――
もし――
その人が無実であったのであれば、
呪咀を呑み刑場に消えたのだとすれば――
王妃を指嗾して、そのように陥れさしめたのは――王妃の義弟としてその縁に連なることで利害を一にし、権勢をほしいままにすべく画策しえた、時のラデール侯以外の、何者でありえただろうか。
今。
王家に亡国の予兆とされる双生の男子が生まれ、
ラデール家にその人の面影を写す当主が立つ――
暗黙の兆しか‥‥かの人の呪いの成就か――
思いは旋回する。それ以外の何であるのか――畏怖に、うち震えるオダンの姿が公邸から消えたとき、だがまだに、ルデスはその懊悩を知らなかった。
ただ。
塑像のように闇にたたずみ、自らの暗い滾りを、噛み締めていた。
そして、時は、刻まれていく。
運命の予兆を孕み、静かに‥‥