双影記 /第1章−1
ラデール侯の領州ハソルシャ。その大半を埋めて東に、深い森が広がる。金目鹿の猟場として知られる森は、やがて、険しい山岳に連なる。
隣国との境界ともなるその山嶺を望んで森の端に近く、かつてはこの辺りが辺境であったことを示して、古びた砦があった。
廃されて久しい荒廃を見せるその砦に、今、人の影があった。
砦は唯一の塔からなっていた。
その塔の頂に人影は立つ。
遠く、森の上に視線を這わす、人影は、まだ若い。
二十歳ほどでもあろうか、少年から男へと移行する前のしなやかに引き締まった長身、艶やかな漆黒の髪を肩で切りそろえた、その姿には気品さえただよう。だが。
吹きなぶる風に乱れ落ちる前髪を、うるさげにかきあげる、その表情は険しく、心痛の陰を宿して歪められていた。
面立ち自体は、
高い額、くっきりと描かれた眉、漆黒の双眸。硬質の美貌、といってよかった。
今。渇望するように鋭い光をたたえた双眸に何をとらえたか、その光がふと和み、つぶやきが口にこぼれる。
ルデス――
視線の先に、樹間を縫って見え隠れする一つの騎影があった。
木漏れ日をはじいて輝く白金の髪を風になぶらせながら、ゆったりと馬を進める、騎影は、やがて塔の下に現われ、待ちかねていたように開いた扉のうちに迎え入れられた。
その、塔の基部は二、三十騎の騎馬がそのまま乗り入れられるほどに、広い。
広間であり、厩舎であり、厨ともなっていた。
それぞれに仕切られたその厩房に馬をつないで広間に戻ったオダンは、壁ぎわの長椅子にぐったりと身をあずけたルデスの姿に眉をひそめた。
「ルデス様――」
オダンのきづかわしげな声に、閉じていた目を開いたルデスは喉に絡む嗤いをあげた。
「手傷でも負われたか――いかなる戦況であったか、お聞かせいただけるか――」
「ゼオルドは伐った。おかげで、明日。王の来駕がある。あれにはよい機会だ」
「王の――ではその傷、王を守っての――」
オダンの声に咎めるような響きが加わる。
「たいした傷ではない。そんな顔はするな」
「――そうですかな。その様子を見るかぎり、よほどの――」
「それより――あれは――」
ルデスはオダンの懸念を振り切るように立ち上がった。
「わたしなら、ここにいる。二ヵ月近くも待たせたあげく、手傷を負っての帰還か!」
怒気を含んだ声だった。
オダンは振り返る。壁ぎわに階上に向かう階段がある。そこに。塔にいた若者だった。
「アルデ様‥‥」
オダンが口中に呟いた。
「これは――だがその様子では我らの話、聞いておられたのではないか――」
若者――アルデに向かって歩きだす、ルデスがきいた。その声に揶揄が響く。
「アルザロは手強かったらしいな。いい気味だ。陰で俺のことをあれ呼ばわりする――なぜ、アルデと呼ばない。俺はものか!」
返す、アルデの言葉は刺々しい。ゆっくりと、その前に歩み寄ったルデスは苦笑を浮かべて見下ろした。長身と見えたアルデよりさらに頭ひとつ高い。アルデは、思わず後退りしそうになる己れを叱咤するように、そのルデスを睨み上げた。
「王は――いかなることがあろうと、自らを俺呼ばわりはなさるまいな。ともあれ、上へまいられよ。ここは暗い。立話もなるまい」
やんわりと。ルデスは一揖した。
塔に窓は少ない。砦であれば当然のことであるが、内部を四層に区切られたその一層には高い天井に近く、いくつかの採光の小穴があるだけである。二層に至って初めて四方に窓を開く。
その二層、中央の細長い広間、その両側に並ぶ小房、塔の背面に向かって窓を開くその一房に、アルデはいた。
房には、中央を占領して大きな机が置いてある。
机の左右に数脚の椅子、その一つに腰を落とし、椅子ごと壁にもたれ、片足を机上に投げ上げた放恣な姿でルデスを迎える。机上には十冊近い書籍、紙、ペン、石板が乱雑に散らばっていた。
「ずいぶんと、ゆっくりなことだ。ここは二階ではなかったか」
無言で、ルデスはその対面に座した。きつい視線でその姿を追っていたアルデが息を呑む。それほどに、今、窓の光のなかに見るルデスの顔色が白かった。
それは。その緩慢な動作とあいまって、少なからぬ衝撃をアルデに与えた。
しなやかではあっても鞭のしなりにも似た強靭さと鋭さを秘める、常のルデスからは思いもつかぬ憔悴した姿に、アルデの喉が干上がる。
それは、恐怖、だった。
今にも絶え入るのではないか――
その、アルデの不安を見透かすように、ルデスは苦笑を浮かべる。
「案ずるには及ばぬ。わたしがいつ死のうと、御身の身の振り方――オダンに申しつけてある。彼がよいようにしてくれよう」
その言葉に、アルデの面が朱を刷く。口元が、ものいいたげにふるえた。
だが、何を。思いは形をなさぬまま、唇のうちに消えた。アルデは荒々しく立ち上がり窓に向かう。
違うッ――
何が、違うのか。ただ、その思いだけが滾り立つ、アルデは視線を宙にうつろわせた。
やがて、
思いをよそに、刺々しく吐く。
「ソルスが――来るそうだな。では‥‥いよいよか――」
アルデの背にルデスの笑声が低く響く。
カッ。と。アルデの全身で血が逆流した。
「それほどにおかしいかッ――」
全身で振り返ったアルデには見向きもせずに、ルデスは机に散った紙片を手に取り視線を落とす。だが、すぐに投げ出し、椅子に背をもたせて目を閉ざした。その顔に疲労の色が濃い。
「悔しいか。であるならなおのこと。よく見、よく聞かれるがよい。王が――どのように話し、動き、人に対するか――今の御身が。どれほどにかけ離れたものであるかを、知られるがよい。姿形が同じというだけで、すり変われるなどとは――いかに甘い夢想であるか――おわかりになろう。その為に作った機会――無駄になさらないで頂きたい」
淡々と語られるその言葉は、それ故により辛辣に、アルデを抉った。
アルデの体を瘧が走り抜ける。
「なぜだ‥‥」
アルデは声を絞りだす。
「お前は‥‥奴をかばって手傷まで負った。それほどまでして守った奴を――俺なんかとすり替えようという――何のためだ――」
「とっさに王を守ろうとしたは、臣下の性よ」
一瞬。ルデスの口元が自嘲に歪む。
「御身も、同じ資質を分け持つものだ。ただ、彼は、生まれ落ちたその時より、王たるべく育てられた。一年になるやならずで、同じものを身につけ得ると考えるは、虫が良過ぎよう」
「お前は‥‥本当に、俺が、できると思っているのか――」
どこか、すがりつくような、アルデの声音だった。ようやくに、目を開けたルデスは、無表情な顔を向ける。
「黙って立っていれば、御身はすでに王そのものだ。もっとも。王はそのような顔はせぬがな」
微かな揶揄に、語尾が歪む。アルデは聞き取った。その双眸が切れ上がる、
次の瞬間、むしゃぶりつくように、アルデはルデスの胸ぐらを取って叫んでいた。
「やめろッ。そうやって俺を嘲るのは――」
その時、
弾みで椅子が傾いた。
机に向かって伸ばされたルデスの腕が、むなしく宙を掻く。
大きな音を響かせて椅子が倒れた。
二人の体が、もつれるように床に投げ出され、衝撃に息を呑むルデスの喉が鋭く鳴る。
一瞬、アルデは呆然とする。ここまで、ルデスが無防備であることに。
ぐったりと、動く気配もないルデスの上に折り重なった体を起こし、アルデはその顔を覗き込んだ。眉根を寄せ、目を閉ざした蒼白な顔――
「ルデス‥‥」
不安も顕な声に、わずかに目を開く。
「オダンを‥‥呼べ‥‥」
「どうしたんだ‥‥いつまで寝ている‥‥」
肩をつかんで引き起こそうとするアルデに、ルデスの口から苦しげな息が漏れる。
「やめて‥‥くれ‥‥」
「あ‥‥」
戦慄が、アルデを貫く。強ばった指をルデスの肩から引き剥がし、震える足を踏みしめる、アルデは、階段に駆け向かおうとして、
「オダン――」
激しく椅子の倒れる音に不審を覚えて上がってきたオダンと向き合っていた。
「今、お前を呼びに――」
アルデの背後に鋭い一瞥をなげたオダンはそこに、床に散り敷いた銀糸の髪を認める。
「どういうことだ――御身は殿に、何をなされた――」
重く軋る声だった。
さして大柄とはいえぬオダンに気圧されるようにアルデは退った。
その、双眸のゆえだったか。
ルデスもそうだが、常にはほとんど感情を表わさない、オダンの双眸が、一瞬、醒めた怒りを滾らせる。
底冷えのする思いに耐えながら、アルデは呻くように告げた。
「彼は、倒れた‥‥起き上がろうとしない‥‥」
アルデを押し退けるように、ルデスの傍らに片膝ついたオダンは、その身体に視線を這わす。そして、つと、その脇腹に手を延ばした。
暗い色の衣服に隠されていた出血にオダンの手指が濡れる。
「ルデス様――」
「‥‥ざまはない。傷が開いた‥‥オキルを、呼んでくれ‥‥」
無言で首肯する、オダンは齢に似ぬ身ごなしで走り去った。
にわかに。塔のうちに風の音が満ちる。
その中に駆け去る馬蹄の響きが遠退き、消えていく。
沈み込むように、アルデは腰を落とした。
「たいした‥‥傷ではない――だと‥‥」
ルデスの傍らに。
壁に背をあずけ、その顔を見下ろす。
「死にかけているではないか‥‥そうまでして、救けた――なぜだ‥‥」
薄く目を開く、ルデスは嗤った。
「今‥‥王に死なれては‥‥元も子もあるまい‥‥」
「それで‥‥己れが死んでいたら、どう‥‥元がとれたのだ――」
「人は‥‥その時まで‥‥己れが死ぬなどとは‥‥思わぬ、ものよ‥‥」
「今でもか――」
「今でも‥‥な‥‥」
それは、どのような衝動だったのか、暗い滾りに突き上げられるままに、アルデはルデスの上に覆い被さり、血を流す脇腹を鷲づかみにした。激痛に、ルデスの四肢が強張る。
「今、この手を捻りこめばお前は確実に死ぬな。傷口が裂け、一気に血が噴き出す――」
宙をさまよっていた視線が初めてアルデの上に焦点を結ぶ。
「王には‥‥なりたく‥‥ないか‥‥」
アルデの口を笑声がつく。
「王だと? 笑わせるな! 王という名の木偶に過ぎまい! 誰が! 俺は、こんな国は嫌いだ! 俺を捨てた――王も、貴様も、この国の奴らは――みな、滅びてしまえばよいのだ! そうだ! 貴様を殺して、アルザロへいくというのはどうだ――」
勝ち誇った嗤いに毒々しく唇を歪めるアルデに、しかし、ルデスは冴々と笑む。
アルデは息を呑む。
「己れを知っている‥‥まんざら馬鹿でもないか‥‥では、木偶になるもならぬも、御身しだいだ‥‥」
そして。アルデは不意に、胸元にヒヤリと触れるものに、体を強ばらせた。
「御身が‥‥わたしの息の根を止めるか‥‥わたしが‥‥この短剣を突き上げるか‥‥どちらが速いか‥‥試されるか‥‥」
「いつ‥‥のまに‥‥」
アルデの喉が干上がる。
「御身は‥‥オダンも‥‥嫌いか‥‥」
「彼は――俺に、剣を教えてくれた――文字も、乗馬も、作法も――だが、結局は――お前の犬だ――」
「御身は‥‥消されるべき‥‥存在だった。それは、今でも変わってはいない。だが‥‥王妃が御身の存命を願い‥‥わが父が‥‥オダンに命じて、捨てさせた。御身を‥‥連れ戻すにあたり‥‥オダンは、わたしに求めた。御身の‥‥命の、保障を‥‥」
アルデの胸に短剣を擬していた手が、落ちた。苦笑を浮かべたままルデスは疲れたように目を閉ざした。
「殺したければ‥‥殺すがよい‥‥」
呆然と、アルデはルデスを見る。これは――あってはならない結末だった。
何故――哀願しない。救けてくれと――
何故。俺を突き殺して、助かろうとしない。
何故‥‥自ら、死を‥‥求める‥‥
「お前は‥‥命が、惜しくはないのか‥‥」
アルデは指先に力をこめる。
「まだ。遅くはないぞ。どうする――」
たまらず。ルデスの口から苦痛の呻きが漏れた。その手が、アルデの手首をつかみ爪を立てる。
「わたしに‥‥ひざまづかせたいか‥‥」
ルデスは睨み上げた。鮮やかなほどの侮蔑に口の端を吊り上げて――
「では‥‥お願いしよう、いっそ、ひとおもいに‥‥殺して頂きたいと――」
悲鳴は、アルデの口から迸った。
「やめろ――」
ルデスの手が、手首を締め上げる。引き離すためではなく。さらに深く、己が身を抉らせるために――
「やめて、くれ――」
アルデは今、もう一方の手でそのルデスの手を押さえ、必死で引き戻そうとしていた。
不意に、ルデスの手から力が抜けた。勢い余って床にのめりこむ、眼前にルデスの顔がある。瞼を閉ざし、苦渋を含んで背けられた、険しい蒼白の顔――
「馬鹿め――」
ルデスは低く吐き捨てた。
「殺す覚悟もなく‥‥殺すなどと、口走るな‥‥」
アルデは蹌踉と立ち上がった。そのまま、定まらない足取りで房を出て階段に向かう。そして、一段、また一段と下りていく、闇の込めた階段の中程に、脚は、止まった。
両手で顔を覆い。アルデは蹲る。
「殺して‥‥やりたい‥‥」
惨めだった。
――何故、
これほどまでに蔑まれねば、ならない。
嘲られねば、ならない――
乳飲み子のうちに捨てられ、育ったのは農奴小屋だった。
文字さえ教えられず、物心つく頃にはすでに農奴として鞭で追い使われていた。そして――
‥‥ああ、そして‥‥
楽ではない、だが、それなりに平穏だった日々、それが終わったのは、
十三の年だった‥‥
手足が伸びだす頃から人目にたつほどに際立ってきた生来の麗質、それ故に――
突然、館に呼び出されたのは‥‥
体の深部からせり上がってくる灼けつくような痛みに、アルデはひずんだ呻きを漏らしていた。