双影記 /第8章 -5
カルセンの地に初霜の下りた朝、ソルスは旅立った。
その数日前、麓に下りたソルスはシリンによって、かつてハソルシャを越えてスオミルドに行ったという猟師に引き合わされた。
荘園の北の森は深い。小暗い森の中にぽかりと開けた一握りの耕地の際にその小屋は建っていた。三人が訪れたとき、小屋の前では少年が薪を割っていた。
「トール、ウードは中か」
シリンの声に顔を上げた少年は好奇心に目をきらめかせた。
「シリンさま、では、そのお人たちがそうなのか」
幼さを残す顔に大人びた表情を浮かべる、トールは斧を置き、傍らでうなりを上げる犬の頭に手を置いてなだめながら小屋に向かって大声を上げた。
「朝からずっと、待っていたです。――じいさま、シリンさまが見えなさったよ」
その声に答えるように小屋の戸が開く。やせた老人が姿を現し、無言のまま、招き入れるように戸の横に立った。
小屋の中は思うより広かった。奥の壁の暖炉には火が燃えている。その手前には作業台にもなるのだろう長い食卓と、腰掛けが置かれていた。招かれるままにソルスとリファンが腰を下ろし、壁際に置かれた台に腰を下ろしたウードと向かい合った。
「暇をとらせた、これは礼だ」
シリンが担いできた小樽を置く。葡萄酒の樽だった。ウードが困ったように眉を寄せる。
「そんな‥‥申し訳ねえです」
「いや、私からも礼を言う。得難い話だ。スオミルドへの旅、その子細を聞かせてもらうのだ」
ソルスに頭を下げられ、見つめられて、ウードはまぶしげに目をしばたいた。
「わしが、スオミルドに発ったのは、夏の初めだった。クライルの川沿いに峰を登り、ナタンの峰の南で最初の尾根を越えた――」
訥々として語るウードはそこに遙かな山並みを見るように視線を窓の外に流した。
「尾根の向こうは谷があり、また尾根がある。谷底は夏でも凍った雪で埋もれていた――ナタンの麓の村で雪の上は危ないと聞いた。隠れた割れ目が人を呑み込むという。わしは尾根伝いに谷をまわり次の尾根に進んだ――
――ナタンの麓の村までは五日、尾根から尾根へ五つの谷を渡った。初めの峰を越えてから五日目だった。深い谷の向こうにスオミルドの野が見えた
――次の日、峰を下った。二日目に、最初の村に着いた――」
記憶をたぐりながら語られる言葉は、途切れては、続く。ときにソルスの問いかけに答えながら、語り終えたときには昼近くなっていた。
ようやく言葉が絶えて、沈黙が下りる。
「なぜ、このようなことを、聞きなさる」
ふと、ウードが聞いた。
「私も、ハルツァを越えようと思う。この季節に、それは無謀と思うか」
ソルスの答えに、ウードは言葉を呑む。やがて、
「死にに行くようなものだ」
ウードの言葉は重々しいものだった。
「夏でも天気が崩れればみぞれが降った。この季節なら吹雪になる。草も木もない岩山だ。燃やして温まることもできねえ。悪いことは言わねえ。止めなさるのだ」
その言葉に、リファンの顔が強張る。
ソルスは、薄く、笑いを含んだ。
「やはり、無謀か。そうか――ウード、改めて礼を言う。その言葉。救われた」
そして、ソルスらは小屋を出た。
森の中をしばらく行ったとき、リファンが足を止めた。訝しげに見返るソルスに思い詰めた視線を向ける。
「お聞かせいただきたい。ハルツァ越え、まことに、思いとどまっていただけたのか――」
「案ずるな。私はそれ程無謀ではない。道は他にもある。冬には越えられぬ、それがわかっただけでも無駄ではなかった」
言ってソルスは晴々と笑った。
ソルスとリファンがとった道は、かつてハソルシャから逃れてきた道だった。
ソルスの旅装と馬はアデラタによって用意された。
その前夜、山を下りた二人は荘園の館に一夜を明かし、シリンらに見送られて旅立った。街道を外れた森の間道を、カルセンからハソルシャへ。そしてアルザロとの国境へ。
アルザロの地を踏んだのは六日目、東へ、スオミルドへと向かう街道に入って七日、ソルスらはアルザロの東の国境を越えた。それはハルツァ大山脈の南の支脈とアピネーラ大山脈の北の支脈にはさまれたゆるやかな起伏を見せる丘陵地帯、ゆくてにはヨレイルの小暗い森と遙かな草原とが混じり合う野が広がっていた。
野を進むに連れて森の木々は低くまばらとなり広々とした草原に移り変わっていった。
やがて丘陵地帯が終わり、森が尽きたところにその町はあった。
丘陵から草原へ白く横たわる街道の、途中にできた結び目のような町だった。
高い城壁に囲まれた町に入れば、突き固めた日干し煉瓦の低く四角い家々が立ち並ぶ。町の中心には大きな広場があり、市が立っていた。広場を囲んで軒を連ねる商店の店先に、各地から集まってきた商人が広げる露店に、所狭しと品物が積み上げられ、途切れもせずに行き交う人波を待ち受けている。
街の名をケナブと言った。
かつてアルザロの領土であったが、スオミルドの侵攻で奪われ、いまだその支配の下にある、それを証すかのように、徒歩で行き交う人波の上を傲然と騎馬で押し切っていく姿は草原の支配者達の鮮やかな色をまとっている。街の中ではその色をまとうものだけが騎乗することを許されていた。
野宿を続けてきた二人が久方ぶりの宿をとったのはその街の外れ、城壁の下に並ぶ隊商宿のひとつだった。大きな門を入れば中央に井戸のある広い中庭がある。周囲の壁の下にはその中庭に向かって開かれた、左右の壁だけのしきりが並んでいる。旅人はそのしきりの中で、市で買った食料を自らの手で炊ぎ食べ、土間に干し草を敷いただけの寝床に馬と供に眠る。
「何故このような宿に」
リファンが嘆いた。
「我らはここで主を見つけるのだ」
「何を、言われる――」
絶句するリファンにソルスは笑った。
「道も知らぬ。慣習もわからぬ。いずれ路用も底をつく。知らねばならぬが我らだけで旅をしていては知ることも限られる。傭兵として雇われればその機会も増えよう」
「では、先ほど市の商人と話していたのは、そのこと――」
「そうだ。この宿にはケルセックから来た商人がよく泊まるという。宿の主は口入れもするという。これ以上はない機会だ」
「あなたが、そのような――」
不意にリファンの頬を涙が伝い落ちた。驚きあわてたのはリファンだった。顔を逸らし手で頬をぬぐうリファンに、ソルスは困ったように笑った。
「私を痛ましく思う必要はない。これでも楽しんでいる」
「さようか――」
「そうだ、長い間の夢がかなったのだ。この地にいたり、この国を知る――無駄と思いつつも言葉まで習い覚えた。――わかろう」
ヨレイルにおいては元は一つの言語であったことを証してどの国の言葉も隔たりなく大意は通じた。スオミルドは違った。かつてアルザロを降しその桎梏の下につないだ国を、知りたいと思ったのはいくつの時か、城に交易商を招き師としたのは――
かつてはアルザロの領土であったケナブが、スオミルドの支配の下に母なる言葉を失って久しい。いま、この町でアルザロの言葉は通じなかった。
市の商人と不自由なく語り合うソルスをリファンは畏敬をこめて眺める。そして思い至る。ニルデアの王家とは、往古、遙か東方より訪れた者達であったことを。ヨレイルには奇しいその黒髪、黒瞳がこの地においてはありふれていた。ただ、抜けるように白い肌が、総じて浅黒いこの地のものとは異なっていた。そのような土地においてリファンの容貌は逆に人目を引くものだったが、アルザロの血が半ばする土地であれば金髪白皙のゆえばかりとも言えなかった。
ともかくも、ソルスの言葉にリファンがうなずいたとき、声が掛けられた。
『取り込み中かね』
『いや、主どの、何かよい口がかかったか』
顔を上げ答えるソルスに、リファンが振り返る。中庭の闇を背に宿の主が立っていた。
『よいかどうかは分からぬが、お前さま方にあって見ようという方がいなさる。来てもらえるか』
主が案内したのは中庭の向こうのしきりの客だった。そこは上客用のしきりか、幅も広く、奥には階上に続く階段もある。
交易商マカルティはその階上に、召使いに傅かれて二人を迎えた。
『お若いな。それに、このような生業、まだ慣れておらぬようだ』
大きなクッションに埋もれた身体は小作りだったが、しわ深い顔の緑の双眸に宿る光は鋭かった。それゆえか威圧されるような思いのリファンに、ソルスのくつろいだ声が響く。
『商人殿にはおわかりか。だが戦うことはできる』
『確かに。ただどれほどにかはわからぬ。腕前の程、確かめさせていただきたいが、よろしいかな』
『かまわぬよ』
『そちらのお方もかな』
『そうだ』
マカルティは面白そうに笑い、立ち上がった。
「どうなったのです」
階下に戻りながら、様子を訝ったリファンがきいた。
「我らの腕を試したいそうだ」
「――よろしいのか」
「やむを得まい」
階下に降りた一同が中庭に出ると数人の男が近寄ってきた。
『コルザート、用意はいいかね』
うなずいたのはソルスと並ぶほどに長身の壮年の男だった。手で合図するのに答えて別の一人が進み出る。両手に練習用の木剣をさげていた。腰の剣を外しリファンに預けたソルスが進みでて木剣を受けとる。井戸の横の空間に対峙する二人に、他の泊まり客が集まってきた。
とりかこむ視線の中で、勝負はあっけなかった。ソルスの剣は速かった。打ち合った刹那からむように伸びた剣尖がひるがえり、相手の剣をたたき落としていた。しびれた腕を抱え唖然として見上げる相手に邪気のない笑みを見せソルスはマカルティを振り返る。
『これでよいだろうか』
『充分だ』
リファンの相手はコルザート自身がした。けれんみのない戦い方でリファンを追いつめたが、勝負をつけようとはしなかった。充分に打ち合った後で剣を引いた。わずかに息を荒げたリファンがソルスの元に戻ると、マカルティが言った。
『二人とも雇わせてもらおう。出立は三日後だ。細かいことはコルザートにきいてもらおう。彼が隊を采配する。ところで名前がまだだったな』
『私はカイ、彼はリフだ』
商人が階上に去り、物見高い人並みも散ると、コルザートがきいた。
『これまでに、何人くらい殺した』
一瞬、眉を寄せたソルスが、薄く笑みを含み、強い視線を向けた。
『覚えては、いないな』
『そうか。――そうだろうな』
コルザートが初めて笑いを見せた。
そのコルザートも中に去り、ソルスはリファンを促した。
「いまからお前はリフだ」
『カイか、あんた――』
自分達のしきりに戻りかけた背に声がかかる。さきほど、ソルスの相手をした男だった。
『おれァ、レウキーという。これでも隊じゃコルザートの次だった。明日からはどうなるかわからないが、まあよろしくな』
ソルスより年長の人のよげな顔をしかめた。
『私がとってかわると?無理だろう。私は新入りだ。何ごともこれから教えてもらわねばならぬ身だ』
『そうか?そう思うか?』
『むろんだ。私こそ、よろしく頼む』
『そうか、あんた、若いがいい奴だな。わかった。明日から何でもきいてくれ。教えてやろう』
『助かる』
レウキーが去るとリファンがわずかに気色ばんだ声を上げた。
「いまのものと、何を話しておられた」
「どうしたのだ」
「あのもの、あなたの肩に手をかけた」
「リファン、私は一介の傭兵だ。仲間内ではそのように振る舞うものだ。お前はそれに慣れなくてはならぬ。そして一日も早く言葉を覚えることだ。今宵から私が教えよう」
「ソルス様――」
「それも、改めねばならぬ。これからは、カイと、呼び捨てよ。私もお前をリフと呼ぶ」
「リフ――ですか」
情けなげなリファンに、ソルスがのどかな笑声をあげた。
三日後、荷駄を整えたマカルティの隊商はスオミルドの王都ケルセックに向けてケナブの街を出立した。
ニルデアの王都オーコールにアルザロよりの秘かな訪客があった翌日、アルデはルデスを書庫の塔の五層に誘った。
ルデスのハソルシャ帰還以来、初めてのことであった。
その日も、いつに変わりなく登城し、側らにありながら、なぜか、アルデには心ここにないように思われた。
何を思い煩うか――それを問いたいだけだと、心に唱えながら。だが、それがおのれを欺く嘘であることを、アルデは知っていた。
ただ、二人になりたいだけなのだ。
ただ二人、塔にこもって、ルデスがおのれを満たしてくれるとは思わなかったが、それでもアルデは二人になりたかった。
その、塔の五層の間は柔らかな昼の光に満たされていた。
何故とも問わず従うルデスは、ただ無言で佇む。その静かな顔は思い知れなかった。
「何を、思い煩う」
吐息を噛み殺し、アルデは問う。
「わたしが、思い煩っていると?」
「一日、上の空だった、理由が他にあるのか」
「御身にはこの身が上の空に、思われたか」
「違うと、いうのか」
「――いや、その通りだ。御身に話すべきか、思い煩っていた」
「わたしに?何を――」
眉を寄せるアルデに、ルデスは不思議な笑みを含んだ。
――わたしは、嘲られているのだろうか‥‥ふと思い惑うアルデにルデスは告げた。
「けして、他言はなさらないで頂きたいが、昨夜、邸にアルザロより訪客があったこと、お知らせする」
「アルザロよりの訪客?――まさか‥‥」
「ゼオルドの遺子、ローグ・グレッセン、その人と思われる」
「では――」
「期待はなさるな。これは大きな陥穽ともなりうること。いまはまだ、いずれとも知れぬ」
「お前は、これが罠だというのか」
「あるいは。彼我の宿怨は深い。それが、たとえスオミルドを退けるためといえ、忘れうるものなのか――」
それは、知らず、深く吐息するような述懐だった。
それゆえだったか、
何かを思うより先に、アルデは一歩を踏み出し、おのが両腕にルデスを抱きしめていた。
抱きしめ、その胸元に顔を埋めた。刹那、腕の中でルデスは身を強張らせる。
一瞬、突き放されるかと思ったが、ルデスは腕の中でただ身を固くするだけだった。そのことに胸を噛まれながらも、アルデは驚きに身をひたす。
何故――ルデスを、痛ましいなどと思ったのか、
そうだった。述懐にも似た言葉を聞いたとき、アルザロの真意を疑わずにはおれぬルデスが、痛ましく思われたことは紛れなかった。
痛ましく思い、ただ抱きしめずにはおれなかったおのれに驚く、アルデは、なおも身を固くするルデスのそれさえが痛ましく、涙を流した。
――なぜか
なぜなのか、痛ましく、胸が痛む、それでも、その痛みに陶酔するおのれがいる――
アルデは涙を流しながら、笑った。
かつて、塔で、虜囚たるルデスに抱かれることを願い手酷く拒絶されたアルデは、おのが思いを断ち切るために、ルデスを城から逐った。
抱きたくなるまで――それは、二度とは会わぬ、その決意のはずだった。
決意はだが、長くは続かなかった。一月とたたぬうちに、自ら出向き登城を命じた。その時でさえ、ルデスを抱こうなどとは思いもしなかった。ただ、抱かれたい、かつて夢見たように、抱き温めて欲しいだけだった。
それが、
いったい何が変わったというのか、
いまのアルデには、心ないままのルデスに抱かれることはできなかった。
痛ましいとの思いのままにルデスを抱きしめ、そのことに陶酔するおのれがいた。
わたしは、いったいどうしたというのか――
泣き、笑い、いまは涙を噛みしめるアルデはそれでもルデスを放そうとは思わなかった。
布を通して伝わってくるその暖かみが心地よかった。微かに響いてくる鼓動が心地よかった。いつまでも抱きしめていたかった。放したく、なかった。
だが、
それだけのことに、身を固くするルデスの心を思った。
――それほどに、いとわしいか‥‥
その思いに、アルデは、ようやく抱きしめていた腕を解き、身を離した。
――いったい、どのような顔でいる。どのような思いで、この身を見ている。
見たかった。知りたかったが、顔を上げることはできなかった。
「すまなかった」
呟き漏らす声に、返るこたえはなかった。無言で身を退き、踵を返す、ルデスは扉を開き、思わず顔を上げたアルデの視線は閉まる扉に断ち切られた。
――ああ‥‥
無言のまま、ルデスは立ち去った。
喪然と、アルデは立ち尽くした。