双影記 /第8章 -4



 熱く、苦しげな声に、抱いて――と迫られて、ソルスは凝固した。
 胸に押しつけられた額が、背に回された腕が、細やかな震えを伝えてくる。リファンは泣いていた。どれほどの時をそうして移ろわせたか、
 抱き寄せもしない、突き放すわけでもない、ただ、凝として身を強張らせるソルスに、やがて、リファンはおのが身を圧し離す。
「お許し下さい」
 自嘲に歪む声を残し戸口に向かう、背を、ソルスの声が追った。
「何処へ行く」
「お案じなさるな、朝には戻ります」
「待て――」
 扉にかけた手を止める、リファンは息を詰めた。
「私は。かつて女人をも抱いたことがない。お前を抱けると、思うか――」
 その、ただ直向きな問いかけに、リファンは唖然とする。
「あなたは――あなたほどのお方が、思い寄せるものがなかったと、言われるか――」
「王妃となるものは定められていた。だが、まだそれを公にするわけにはいかなかった。他国と交渉するに際し、ニルデア王妃の座はこよない対価となる。スオミルドの脅威が除かれぬかぎり、安易に失うわけにはいかなかった」
「――だが、それは政略だ」
「他に何があると――」
「貴人ならずとも、婚姻によらぬ情を交わすものは少なくない。あなたには愛しいと思うものはおられなかったか――」
「婚外子は国を乱す元ともなりかねぬ――」
「あなたという、お方は――」
 その口に吐息を這わせ、リファンはうつむけた顔を両手で覆った。
「だれが、そのように教えられた」
「史書を読めば、自ずと知れる。王とは、人であって人ではないとはルデスも言ったことだ」
「――それで、納得されていたか」
「不満を感じたことはない。だが、実のところ、よくわからぬ。――不能なのかも知れぬ。かつて、欲情したことがないのだ」
 何という、運命の見せる諧謔であろうか――リファンは咽ぶように笑った。この方は王となるために自らの情を切り捨ててこられたのだ。そして、暗黙のうちにそう導いたのが、ルデスの手であろうことを、リファンは疑わなかった。
「リファン――」
 その笑いをどうとったか、わずかに不安をにじませてソルスが呼ぶ。
「あなたは――この身を抱いてみたいとは、思われぬか」
 唐突な問いに、ソルスは言葉を呑む。
「殿が、この身をどう抱いたか、お知りになりたくはないか」
 重ね聞くリファンに、やがて、困惑と自嘲を綯い交ぜたような声が返った。
「知りたくないと言えば嘘になる。だが――思いは鈍い。いや、鈍いのは私か――」
「あなたは王であられたが、年は私の方が上だ」
「そうであったか」
「二十三になります。このような姿ゆえ年下に見られがちだが」
「すまぬ」
「何を謝られる」
「けして侮っていたわけではない。年上と思わぬことは習慣なのだ。おのれが畏縮せぬ為の」
「わかりました。ただ、今宵は、私があなたにお教えする」
 言うとリファンは着ているものを脱ぎ落とした。そして闇の中に腕を伸ばし、灯の消えた灯架の壺から油をすくい取り、自らのうちに塗り込めていった。
「あなたも、お脱ぎいただきたい」
 言われて我に返ったように、脱ぎ始める、ソルスの上にリファンの気配が重なる。冷ややかな手が肌を滑り、その肩から衣を払い落とした。
「私がするように、この身に、していただきたい――」
 その耳元に熱くささやき唇を重ねたリファンは、ソルスの大腿を跨ぎ、ゆっくりと腰を落とした。そして片腕を背に回し後首を捉える。一瞬の途惑いの後に開かれる口の中に舌を差し入れ、その舌を絡め取り、激しく貪るように吸い嬲った。
 そのなすままに、ソルスもリファンの背に腕を回し自らに引き寄せる。
 胸と胸が、下腹が擦れ合う、リファンの肌は熱かった。炉にくべられた熾火だけでは温まりきらない寒気の中にその熱さが心地よい。貪るようにソルスはリファンを抱きしめた。
 それは不器用な抱擁だった。だがそれでもリファンの中でそこだけがさらに熱く息づいていく。リファンはもう片方の手を密着させた腰の間に差し入れ、項垂れたままのソルスを捉え、互いの身体の間に引き入れるように扱き上げた、刹那、リファンの背を抱きしめていた腕が強張る。仰向いた喉が震え、舌さえが戦く。
 さらに強く吸い舐りながらリファンは指でソルスを煽り立てていく。二人の身体の狭間で揉み立てられ、擦り嬲られ、見る間に硬く漲り立っていくおのれに、ソルスは身を震わせた。そこから疼き上がってくる熱い痺れはかつて知らぬものではなかった。
 かつて――ハソルシャのあの忌まわしい一夜に、ルデスによって教えられた、それはだがもっと峻烈に、背骨に絡み上がった‥‥
 ソルスの思いを余所に、リファンは貪りついていた口を離した。
「リファン――」
「待って――これからです――」
 言って腰を浮かせる。ゆっくり息を吐きながら、硬く漲り立ちその先端を濡らし始めたソルスを自らの手でささえ、誘い入れるように、腰を沈めた。
「ああ‥‥」
‥‥熱い‥‥、
 その熱さを、さらに貪るようにリファンは腰を揺さぶった。ソルスの肩をつかみしめ、激しく、身悶えするように髪を振り立てる。熱い楔に抉られるたびに湧き起こるしびれるような快感に眩む意識の中で、リファンはいま、ようやくに登りつめようとしていた。
「あア‥‥はァ‥‥はゥ‥‥」
 最後に‥‥ルデスに抱かれて以来、どれほどの時が過ぎたというのか、だが、いまやっとその渇えが癒されるのだ‥‥
「リファン――もう、堪えられない――」
 不意に、圧し潜めたソルスの声に耳を打たれ、リファンの動きが凍った。
「だめ――まだ、だめです――」
 戦き口走る。動きを止めたリファンは、震える手で、おのが昂ぶりをつかみ締めた。懸命に自らを追い上げながら、じわりとソルスの上に身を沈めていく。その最奥に、収めた熱がドクリと、さらに熱く脈打った。
「ああ‥‥」
 じりじりと燻り続けるおのれを残し、おのれの内に満ちあふれていくものに、リファンの口から嘆声がもれ落ちた。せわしない手で自ら放ち果てたリファンはせぐり上げる吐息を押し殺すこともなく、両手で顔を覆った。
「‥‥なぜだ‥‥なぜ私ではだめなのです‥‥殿‥‥」
 身を離すことも忘れ、むせび泣くリファンに、ソルスの声が返る。
「お前が、私ではだめなのと同じような思いがあるのであろうな‥‥」
「陛下――」
「すまなかったな、リファン――」
 愕然と身をしさらせ、その足元に踞る。
「おやめ‥‥いただきたい‥‥お教えするなどと、この身の勝手を押しつけた、私こそ、許しを‥‥請わねばならぬものを‥‥」
「いや、せめて人並みに、なせればよかったのだろうが‥‥」
「――初めてとあっては、やむなきこと――」
「そうだな、思えば誰もが、私が、私自身ですらが、ただの人、ただの男であること、忘れていた」
 言って、ソルスは軽やかに笑った。
「だが、いまは、ただの男だ」
 闇の中に気配が動き、つり下げられた灯架に火が点される。リファンはあわて目の前に立つしなやかな裸身を見上げ、腰を浮かす。
「あ――私が――」
「互いに、情けない格好だな。明日は早いというのに」
 さっさと身をぬぐい身仕舞いをするソルスに、気を取り直したように服をとりリファンは小屋を出た。
 肌を刺す寒気のなか、湧き水まで行き身を清め、戻ったときには、ソルスは健やかな寝息を立てていた。
 灯を消し、乾し草の中に横たわったリファンは自らに念じ続けた。
――ルデス様は、忘れるのだ――と。



 早朝、薄明の中、二人は小屋を出た。
 いつか肌を刺すようになった冷気の中、丘を下る、ソルスの足取りは軽くその表情は明るい。リファンは傍らを行くソルスの双眸に宿る強い光に畏怖を新たにする。
――この方は、ものに怖じると言うことがないのだろうか。この一歩が、遙かな国へと続く一歩であるかも知れぬと言うのに――
 今はむしろ諦めに似た気持ちで従うリファンだった。
 その二人が、麓の森のはずれに待つシリンと落ち合ったとき、日が峰の頂に上った。





ソルスとリファンがカルセンの森でスオミルドを知るという猟師に会うこととなった日より旬日前――
 王都オーコールを秘かに訪なう者等があった。

 ルデスがふたたび登城するようになって十日、ラデール家公邸にはかつての日常が立ち返っていた。ダルディはリクセルに帰り、前に変わらぬルデスが森の館から戻った。
 否、まことに変わってはおられぬか――そう胸に問う者のあらぬか、その双眸に宿る思い知れぬ光も、静謐の中に浮かべる微笑もいつに変わらぬといえた。
 ただ、王都にあって常にその側らに侍していたリファン・レン・ドーレの姿が消えた。
 問われれば、いずれ戻る――と微笑を含むルデスにそれ以上のことを問いつめることができる者はいない。だれもが、そのことに慣れ、それが日常となった一日の夕刻、ルデスが城から戻るのを待っていたように公邸を訪ったものは自らを交易商ベール・ノジャンと名乗った。供の一人に小さからぬ包みを持たせ、ルデスへの目通りを願い出た。
 交易商ノジャンと三人の従者は格式張った応対に待たされることもなく、邸内の一間に通された。
 王家の血を引く権家でありながら、ことラデール家にあって、それは珍しいことではなかった。
 所領のリクセル、ハソルシャにおいては手厚く商人を保護し交易をさかんにする施策は先々代セイカーの頃からのものであったが、ルデスは王の顧問官としての立場を利用してそれをニルデア全域に押し進めた。街道を整備し、税を下げ、治安を守ることで、ヨレイルばかりか、遠くテシャの交易商までが集う地になさしめ、今の王都の豊かさを招いた。
 商人達に門戸を開くも、その一端であったが、それによってもたらされる知見の多くが王を補弼する基となったことは否めない。
 ともかくも、
 邸内にはその為の一間が設けられ、心おきなく語り合えるよう訪れるものを迎え入れる。一介の商人でありながらベール・ノジャンを迎えたその一間に、待つ間をおかず現れたルデスはうやうやしく礼する者達に親しげな笑みを見せた。
「久しいな、よい商いはできたか」
「はい。ルデス様にもご全快の由、お喜び申し上げます」
「噂を、聞いたか」
「はい」
 広い室内には暖かく暖炉が燃え、その前には大卓が置かれていた。大卓のまわりには数脚の椅子が置かれている。すでに掛けたルデスに招かれ大卓によったベールは供の者から受け取った包みを解き、子どもの背丈ほどもある長い木箱を取り出す。卓上に置き、ルデスの前に押し進めた。
「これは――剣か」
「はい、ぜひともお目に掛けたく、彼の地より」
「そうか――」
 ルデスは薄く笑みを含むと、立ち上がり引き寄せた木箱の蓋を開けた。中には一振りの長剣が収められていた。それを見るルデスの顔から笑みが消えた。
 それは見事な作りの剣だった。黄金で飾られた漆黒の鞘と柄、その双方に刻印された紋章、咆哮する獅子を象ったそれは、紛れもない、アルザロ王家の紋章であり、その剣が、王が帯びる剣に外ならぬことを明かしていた。
 ルデスはその剣を手に取らぬまま蓋を閉ざす。
「確かに、見せてもらった。この上はこの品が何故ここにあるか、問わねばならぬな」
 静かに問いかけた相手はベールではなかった。視線の先に立つのは三人の従者、その中の一人、木箱を携えてきた若者がその顔に緊張を孕み、前に出た。そうして正面に向き合えば、精気に満ちたその眼差しはただなる従者のものではなかった。他の二人、一人は壮年、一人は初老の、従者に身をやつしたものたちも一礼し進み出た。アルザロにおいては名のある騎士であろう、二人は年若い主を守るようにその左右に並び立つ。
「御身は」
「我はゼオルドの一子、ローグ・グレッセン、ニルデア国王の顧問官たる御身に、話したきことがあった」
「亡き王の遺子と申されるか。では、御身には、この身は敵、なれどこの身を討ちに参られたのではないと?」
「我が父は戦い斃れた。それは戦場の習い、だれを恨みに思うものではない。その上、父の死に際し、貴国には礼を尽くしてもらった。これはあの時、亡骸とともに送り届けられた剣だ」
「それは、望外のお言葉だ。だが、まず掛けてはいかがか」
 ふたたび腰を下ろすルデスに従い、自らも椅子にかけた、ゼオルドの遺子ローグはわずかに頬をゆるめた。明るい褐色の髪に縁取られた顔は初々しい、そのしなやかな肢体と供に、かれがまだ十代に過ぎぬことを物語る。それにしても、魁偉とさえ言えた厚く引き締まった体躯、燃えるような赤髪で獅子王と異名をとった父親の面影をほとんどとどめぬ、際だつ所のないその容姿だった。しいて言うなら歳に似ぬその双眸の強さが、わずかにその血の来たる所を彷彿させた。
「ベール。すまぬが、酒を注いでくれぬか」
 部屋の隅に身を退いていた交易商が、ルデスの言葉に、弾かれたように前に出る。大卓には酒瓶と杯が用意されていた。交易商によって満たされた杯がルデスと、ローグの前に置かれる。
「ラデール侯はすでに知っていようか。我が叔父ランベート、新王即位のいきさつを」
「いや」
「父ゼオルドはスオミルドの容喙により末子でありながら王となったものだ。本来なら直系たるランベートが玉座にあるべきだった。ゆえに、父亡き後、王位を返すに異存はなかった。それを異とするものらを押さえたのは我でもある。だが――」
「――だが?」
「新王が即位の後、一番に為したこととは、スオミルドに使者を送ることだった」
「――」
「使者はいまだに往還している。この後、その往還が使者にとどまらぬとしたら――」
「――御身は、スオミルドがいずれ兵を動かすとお考えか」
「言いにくいことだが、我が王はスオミルドの力による、ニルデアにおける失地の回復を策しているのではないかと思われる」
「――失地は、我が国によるものばかりでは無かったはずだが」
「そう――いまなおイルバシェルに倍する土地が彼の国の領有に帰している」
 ローグの声が沈む。
「――それに目を閉ざし、スオミルドを呼び入れるは、ふたたびその足下に屈することを意味する――我が父の半生を無とするに等しい、看過はできぬものだ。ゆえに――我はニルデアに来た」
 ルデスは思い知れぬ視線を据えて沈黙する。
「アルザロ一国では抗しきれぬスオミルドもニルデアと手を携えることができるなら、退けることができよう。アルザロが下れば脅威はニルデアに迫ることを思えば、これは貴国にとっても益ないものではないと思われるが、いかがか」
 気負う所のないその言葉だった。対峙する双眸は臆することのない光を湛えている。
 無言の対峙に時が止まったか、身動ぐものさえなかった。
 そうしてどれほどの時が流れたか、ふと、ルデスの張りつめていた表情が緩む。
「御身が、王として使者を遣わし、正式に申し入れたのであったら、我が王はそれを受けられたであろうな。何故、そうなさらなかった」
「我が王となるために、その言葉が必要だった。これで、心おきなく、王となれる」
 言ってローグはふわりと笑った。あどけないとさえ言える邪気のない笑いを、ルデスはまぶしげに見つめた。
「我が言葉だけで得心なされたと? もし、返る答えが異なるものであったら、御身はどうなさるおつもりだったか」
「その時は、身一つでアルザロを捨てたであろうな。父にはすまぬことながら」
 軽々と言ってのけたローグに、呑まれたように沈黙したルデスが不意に高々と笑いをはじけさせた。
「まことに、面白きお方よ」
「そうか、面白いか」
「まことに。では、その時を、楽しみに待たせていただく」
「待って、いてくれ」

 宵のうち訪れていた交易商ベール・ノジャンが公邸を辞したとき、ルデス自ら門まで送り出し、衛士達を驚かせた。
 四個の人影が闇に呑まれてなおしばらくを門の前に佇むルデスを衛士たちは訝しんだ。だが、ふと漏らした呟きを耳にしたら何と思ったか、声は風に散り、聞くものはなかった。
「まことに、恐ろしき、お方よ――」
 と。




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