VOL1−1




 少年は孤児だった。
 もうずっと、名さえ呼ばれたことがなかった。
 気がついたときには、自分の名が思い出せなかった。まして、親の顔も、どこで生まれたのかさえ、わからなかった。
 ずっと。ずっと一人で旅をしていた。
 村から、村へ。人里へ。
 なぜ孤児になったのか――
 それだけは、微かな記憶があった。
 恐ろしい記憶だった。
 火が、何もかも焼き尽くす勢いで燃えていた。たくさんの人が血に塗れて倒れていた。
 血の臭いがたちこめ、
 無数の剣が白く光り、叫び声がまわりを充たしていた。
 怖い‥‥
 物陰で一人眠る夜に、記憶は少年を脅かした。
 恐怖に身を竦め、自らの腕で身体を抱きしめながら、ずっと前に、そうして抱いて温めてくれた腕があったことを思い出し、もうどこにもないその腕を思って、泣いた。
 人が恋しかった。抱きしめてくれる腕が、胸が、恋しかった。
 それを求めて人里に出ても、それを与えてくれるものはなかった。
 飢え、汚れ、襤褸に包まれた少年に与えられるのは、追い立てる叫びと、投げつけられる無数の石だった。
 でも、それも仕方のないことだったかもしれない。
 少年が生きていくためには盗む以外、術はなかったのだから。飢えを満たすために、着るものを得るために。
 だから――
 見つかればひどい目にあったから、人が恋しかったけれど人中に出ることはできなかった。
 盗みをするから、一つの村に居つづけることもできなかった。
 だから、村から村へ、あてのない旅を続けていた。
 その冬まで。
 例年になく厳しい冬だった。
 その村を追われて、森へ逃れたとき、もう食べるものはなかった。
 わずかばかりの木の実を拾い草の根を掘り、つかのま飢えをしのぎながら次の村へとさまよう間に、寒さが、少年をとらえてしまった。
 枯草の茂みにわずかばかりの温もりを求めて身を横たえたとき、また起きる力は失われていた。
 震えながら眠りに落ちたとき、夢さえ、訪れなかった。
 枯草の陰で小さな獣のように身をまるめて、
 少年は、深い、深い眠りのなかに落ちていった。


 彼はいつも一人だった。
 かつては、地を満たしていた彼の一族も、一人、また一人と姿を消し、いまでは身近く棲むものは一人としてなかった。
 彼は孤独だったが、自分が孤独だと感じることも忘れるほど、長い間、一人だった。
 それでも、ときどき、人々のさざめきに触れたくて人里近く下りることがあった。
 しかし、彼は人の前に立つことはなかった。
 なぜなら、彼は人ではなかったから。
 いや。人ではあったけれど、いま、この地の上を満たしている人とは、種を異にしていたから。
 それらの人々は、彼を、竜と呼び――畏れた。
 畏れながら、また、彼を、彼の身体を手に入れることを渇望した。
 なぜなら――
 いつの頃からか増え、彼の一族に取って代わるように地を満たしたそれらの人とは、少し、異なる姿をしていたから。少し異なる、力をもっていたから。
 さまざまな色合の髪をした柔らかな肌の、熱い血を持つ人等にとり、彼の銀砂の鱗に被われた肌や、黒銀のゆるやかに波うつ髪、尖って長い耳、額の上、頭頂に近く屹立する鋭い銀灰色の角はたとえようもなく美しいものであったし、そして何より、その青く冷たい血はその不思議な力ゆえに垂涎の的となるものだったから。
 竜の血――それは熱い血を持つ人にとり、どのような傷をも、病をも癒す不死の霊薬であった。
 かつては、新たに地に満ち始めた人々と交流をもっていた、彼の一族がそれを断ち、人里離れた地に隠れ棲むようになった故であった。
 その以前、一族の多くのものが、この新しい人等の手に狩られ、命を落したことを彼は知っている。
 古い昔のことである。
 いまでは、自分がなかば伝説のなかに生きていることも――彼は、知っていた。
 竜人の彼と、少年がであったのは、だから、ほんの偶然だった。


 すがれた草群れの傍らを行き過ぎようとして、彼は枯草のなかに仄明るく光るものを認め、脚を止めた。
 それが何か、彼は知っていた。
 竜人の彼には熱い血を持つ人等がそのように見える。わからないのは、なぜ、このような季節に、このようなところに、いるのかということだった。
 光は、見る間にも弱り、消え尽きようとしていた。
 彼は近寄り、草を掻き分け、そして、見下ろしていた。
 彼の目にも、それは痛々しいまでにやつれ細った姿だった。しかもまだ、とても幼い。
 彼等、竜人にとって熱い血を持つ人は驚くまでに短命なはかない人等であったけれど、これほどに若いうちに絶えようとしているのは哀れだった。
 そう思ったとき、彼は、少年を、その痩せ細った体を抱き上げていた。
 そして、
 彼は行き倒れた少年を自分の住処に、
 ともない去ったのだった。


 もし、見るものがあったら、その一瞬、少年を抱いた彼の姿が仄青い光に包まれ、そして空気のなかに溶け去ったと思ったかもしれない。
 その瞬間、彼ははるかな道を一瞬にして天翔け、住処に帰りついていた。


 竜の巣――と人はいう。
 それは、
 聖なる峰アズロイのなだらかな稜線の麓、
 厚く絡みあう木々の枝に妨げられ踏み込むものもない樹海の底に、ひっそりと口をひらく、深い洞窟だった。
 洞窟の前にひらける小さな谷には、名も知れぬ無数の花が咲き乱れ、洞窟のなかにまで咲きこぼれていた。
 闇に白い花の褥に被われた短い隧道は、仄青い光をたたえた広大な空洞に続く。
 そこでは、壁は遥かな高みに消え、白々と生い茂る木々が幹を列ねる。
 竜人の洞窟は地中に広がる常闇の森だった。
 しかしこの森の木々には一葉もなかった。
 かわりに無数に分かれ絡みあう蔓状の細枝がなめらかな幹の頂に天蓋をなしていた。枝は仄青く光る岩肌を伝い、床までを被っている、その全てが白く艶やかな、象牙のようであった。

 その、常闇の森に、
 瞬きの間に姿を現わした竜人は、細枝の天蓋の下に口を開く小さな洞窟のひとつに、少年を抱き運ぶ。
 そこにも小さな木が生え、こんもりと盛り上がる細枝が丸く床を被い、やわらかそうな褥を形づくっていた。
 彼は、少年を、その褥の上に横たえる。
 少年の光は弱々しくまたたき、いまにも燃え尽きようとしていた。
 彼は少年の顔のうえに片手をかざし、指でその手首を掻いた。するとそこに一本の線が生じ、青い血が湧きだし、少年の口のうえにしたたり落ちていった。
 無意識のうちにその血をすすり込む少年の青褪めた顔にしだいに赤みが戻っていく、それと同時に、絶えようとしていた光がまた、強く脈打ちだすのを認めて、ようやくに、彼は手を下ろした。
 そして、少年がゆっくりと目を開けるのを見守った。






VOL1−1
− to be continued −

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