VOL1−2





 ふと気がついた少年は、自分が仄青い光に包まれて横たわっているのを知った。
 目の前に顔があり、自分を見つめている。
 見たこともないほど青白い顔は、しかし、とても穏やかで、黒く見えるほど深い紫の双眸は優しげで、だから、恐いとは思わなかった。そして、ああ――と、胸のうちに呟く。これは夢なんだ――と。自分は眠っていて夢を見ているのだと。
 だって、目の前にいるのは、ずっと昔、母さんが見せてくれた、大きくてきれいな本のなかにあった絵と同じ姿の人だ。
 角だってある‥‥
 少年は急に楽しくなってくすくす笑った。
 それは、少年が独りぼっちになってから初めて口にした、小さな笑い声だった。
 あの時、母さんは言ったね‥‥リュール、これは竜の人、エリエンという名前なの。ずっと昔、北の森に棲んでいたの‥‥
 そして、少年は小さな驚きに包まれて、あ‥‥と、小さな声を上げた。そうだ‥‥ぼくはリュールと呼ばれていた‥‥リュールという名前だったんだ‥‥
「あなたを知っている‥‥」
 少年は、さわれるとは思わなかったけど、急にすがりつきたくなって手をのばしながら言った。
「‥‥あなた‥‥エリエンと、いうんだ‥‥ぼく、リュールだよ‥‥」
「‥‥エリエン‥‥」
 青白い人は低く呟くと、少し哀しげに微笑んだ。そして長く優美な手でそっと少年、リュールを胸元に抱きよせた。
「お休み‥‥リュール‥‥」
 リュールはその人の全身を被っている白い衣の胸にしがみついた。
 その人の手は、かつて抱かれた手のように暖かくはなくて、ひんやりと冷たかったけれど、同じようにしっかりと抱きしめてくれて、だから、リュールはとても切なくなって、ほろほろ涙をこぼしながら、さらにきつくしがみついていた。
 彼は、
 思わず、抱きよせた少年の髪を優しく撫でさすっていた。
 そのことに少しとまどったけれど、もうずっと昔に忘れていた暖かい潮が胸の底からひたひたと湧き上がってくるのを感じ、その心地よさに、うっとりと目を閉ざした。そして、
 ほっそりとした面差しの形のよい唇にやわらかな笑みを刻んだ。
 エリエン‥‥
 それは、もちろん彼の名前ではなかった。
 ずっと昔、三百年以上も昔、彼の前から姿を消した一族の一人の名前だった。
 あの頃も、もう、彼の一族は数えるほどになってしまっていたから、何年も、何十年も、
互いに顔をあわせることさえまれになってしまっていた。
 エリエンはそんな孤独に耐えられなかったのかもしれない。
 最後にあったとき、熱い血の人等のなかで神のように崇められていた。そして、いつか姿を消してしまった。
 あのエリエンはどうしたのだろう‥‥
 殺されてしまったのか‥‥。それとも、人との交わりに絶望し、自らその存在を断ってしまったのだろうか‥‥
 熱い血の人等――その貪欲さのゆえに、そのはかなさのゆえに、彼の一族を傷つけずにはおかぬ、ものたち‥‥
 彼は、切れの長い目を開いて、腕のなかのいたいけなものを見やった。
 わたしも‥‥
 このものにかかわれば、あのエリエンのようになってしまうのかもしれない‥‥このまま、あの草叢に返してしまうのが、よいのかもしれない‥‥
「エリエン‥‥」
 その彼の思いを感じ取ったように、その時、腕のなかで少年が身じろぎ、不安げに呼びかけた。
「リュール‥‥」
 彼は、小さく吐息して、抱きしめた腕に力をこめた。
「安心おし‥‥わたしはどこにも去きはしない。お前も、いたいだけ‥‥ここにいて、いいのだ‥‥」
 深く豊かな声はふしぎな韻律を響かせて少年を包み込み、その、おののく心を鎮めていった。
 やがて、少年の体から力が抜けた。
 その口元に安らかな寝息をただよわせ、少年は眠っていた。

 こうして、少年リュールと、エリエンと呼ばれるようになった竜人は、ともに暮らすようになった。
 リュールには、それは夢見るような心安らぐ日々だった。
 エリエンは優しかった。初めの日、リュールのために新しい衣を作り、森からさまざまな木の実や草の実をとってきてくれた。
 衣はエリエンのものと同じ、織目も縫目もない白くやわらかな布でできた寛衣で、とてもあたたかかった。エリエンは色とりどりの草で編んだ帯を結び、リュールが動きやすいようにしてくれた。
 一人にされるとリュールはとても怯えたから、次の日からエリエンはリュールを森につれていくようになった。
 そして、リュールはとても不思議な光景を見ることになった。
 冬枯れた森の木々が、エリエンの手の下で見る間に若葉を茂らせ、花を咲かせ、実を結ぶのだった。たわわにみのった実をもいで、手にわたしてくれるエリエンを、リュールは畏怖に満ちた眼差しで見上げた。
 それというのも、エリエンはとても背が高かったから。エリエンの衣にしがみつくように立つリュールはその胸にも届かないのだった。
 明るい光のなかで見るエリエンの肌はほんとうに白く、ときどき、光を弾いてさざ波のようにきらきらと輝いた。
 背に波うち流れて腰まで届く黒髪も、磨きあげた銀の糸のように輝いた。そして、その角――優美な銀灰色の角。
 それは、見飽きぬ姿だったけれど、リュールはなぜか悲しくなった。
 つと、沈んだ顔をうつむけるリュールに、エリエンは心配そうに声をかけた。
「どうしたのだ‥‥リュール‥‥」
「エリエン‥‥とても、きれいだから‥‥髪の色も、体の色も‥‥角だってある‥‥」
 ああ‥‥と、エリエンは安心したように笑った。
「リュールには見えないのだね‥‥自分がどれほど輝かしい光に包まれているか‥‥だが、わたしには見える。リュールはこの、陽の光のような金色の光に包まれている‥‥リュールの髪は、いまはやわらかな枯葉色だが‥‥大人になるころには、輝くような金色になるだろう‥‥そして、その体のいろは‥‥それは、暖かな血の色なのだ‥‥わたしには、ないものだ‥‥リュールは、とてもきれいだ‥‥」
 リュールの前に膝をつき、片手で、そのもつれた枯葉色の髪をくしけずるように額からかきあげながら、エリエンは言った。
 その言葉に、リュールは目を見張って、いまは目の前にあるエリエンの深い紫色の双眸を見つめた。明るい光のしたにその瞳は閉じて、一本の細い線になっている。
 エリエンの目は、猫の目と同じ縦に切れた瞳をもっているのだと、ぼんやり考えながら、リュールはぽろぽろ涙をこぼした。
「どうしたのだ‥‥リュール‥‥」
 驚いて、戸惑って、エリエンは指にリュールの涙をすくいとりながら、その優しい菫色の目をのぞきこんだ。
「エリエン‥‥エリエン‥‥」
 リュールはエリエンの首に抱きついて、そのかぐわしい髪に顔を埋めて泣きじゃくった。
 悲しいのではなかった。優しく語りかけてくれるものがいる、抱きついてよい相手がいる。そのことにただ、わけもわからず心をゆさぶられて、リュールはだから、さらに強く、しがみついていたのだった。
 離れようとしないリュールに、エリエンはとても心地よい、暖かなものに満たされていく己れを感じた。
 言葉は、いらなかった。
 ただ、痩せた体を抱き上げ、静かに歩き続けた。


 エリエンの洞窟は仄青い闇の宮殿ともいえた。
 無数の広間、小房、それ等を結んで地の底深く下りる歩廊。広間にはかならず白い柱が立っていた。柱から伸び広がった細枝は網の目のようにからみあい、洞窟のすべての壁を被っていた。
 仄青い光にみたされたこの洞窟にリュールがともに暮らすようになってから、エリエンは外界にもっとも近い小房に起き伏しするようになっていた。
 表の広間に続く、最初の小房。その小房に、エリエンと暮らしながら、リュールは決して、それより奥には行こうとしなかった。
 初めの日、エリエンが森から木の実をとって帰ったとき、リュールは小房の隅に小さく蹲り、震えながら目ばかり大きく見開いて入口を見つめていた。エリエンが傍にくるまでリュールは動こうとはしなかった。そして、確かめるようにおずおずとのばした手でその衣の裾をつかんだリュールは、見開いたままの目からぽろぽろ涙をこぼした。
 エリエンが抱き上げてもしがみついた小さな体の震えはおさまらなかった。おののく背中をさすりながらエリエンは陽の光の下に出た。陽の光に、怯え凍えた体がぬくまるまで、
 その震えがおさまるまで、小さな背をさすり続けた。
 何日かして。
 森の下草を踏み歩きながらエリエンは少し困ったように言った。
「わたしは‥‥泉に、いかねばならない‥‥髪が、伸びようとしている‥‥」
「‥‥泉?‥‥」
 片手でしっかりとその衣を握りしめ傍らを歩いていたリュールは脚を止めてエリエンの背をのぞき込んだ。
 腰にまで届く黒銀の髪は、風もないのにさわさわとざわめいていた。
 それは一筋一筋がそれぞれに生きて、競って地に向って進もうとしている細い、細い蛇のように見え、小さく喘いだリュールはエリエンの体の陰に隠れるように、前に回ってしがみついた白い衣のなかに顔を埋めた。
「リュール?」
 山盛りに抱えた果実や木の実に手をふさがれたエリエンが心配そうに呼びかける。
「どこに‥‥あるの?‥‥」
 くぐもった声がきく。
「ついて、いっては‥‥いけないの?‥‥」
「泉は‥‥洞窟の底‥‥いちばん深いところにあるのだ‥‥」
 リュールは震えた。しかし、
「つれて‥‥いって‥‥」
 小さな、消え入りそうな声で、リュールは呟いていた。






VOL1−2
− to be continued −

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