VOL8-epilogue





 闇はあくまで深く、視界を閉ざす。その闇の底にあえかに光るものが蠢く。
 細く、太く弧を描いて絡み合う骨白の蔓、こんもりと茂った蔓のただ中にさざめく光をまとったものが捕らえられていた。口からこぼれる声は艶めいて熱く空をふるわす。
――イリオン‥‥と。
 腕を、脚を宙に縫い止めた蔓には蒼く血が滴る。大の字に広げられた五体、細かく枝分かれした蔓は無数の触手となって銀沙の肌にからみつき、貫き、うごめき続ける。
「もっと‥‥」
 かつてエリエンと呼ばれたものは大きくのけぞる。股間のものにからみつき、秘肛を割って入り込んだ触手にその奥処を苛まれ身をよじる。
「イリオン‥‥もっと‥‥」
その、吐息にも似た言葉、その言葉に煽られるように激しさを増す触手の動きに、たまらず、腰を振り息を荒げる。
「いかせて‥‥イリオン‥‥いかせて‥‥」
「哀れよな」
 ぼっと闇に光が点り、白い人影が浮かび上がる。
「それほどに、この身が恋しいか――」
 かつて、王と呼ばれた姿のものは慈しむような笑みを浮かべ中空から見下ろしていた。長い黒銀の髪を乱し、広げた四肢を骨白の触手にとらえられたものは苦しげに見上げる。
「イリオン――」
 思いは言葉にはならなかった。だがその紫黒の双眸は語る。
――その手が、欲しいッ
「だが、この手はもはや、お前を慰めてやることはできぬ」
 今は眼前に、少し悲しげに頭をかしげた。
「イリオン――」
「お前のその執着が、この身をここにつなぎ止める。哀れなものよ、何故、もっと己に素直になれぬ――」
 声にもならぬ言葉は闇の風洞を吹き抜ける風のようであった。ざわりと蔓の群がゆらぎ、ほどけはじめる。腕から、脚から、その狭間から解けほどけたものはゆらゆらとゆらぎ闇の中に消えていった。
「幾たび、そのように己を慰めてきた」
 血塗れた手で足元から白い衣を拾い上げ、苦しげな双眸をむける。
「お前が、わたしをこのような身体にした――」
「怨めばよい。憎めばよい。愛しいものよ」
「イリオン――」
 自らを傷つけ嬲り尽くす、その様を目の当たりにされた羞恥に視線を背ける。
「――それでも、己は怨みもせず、憎みもしない、愛することも、できぬものよ――」
 蒼然とたつ眼前から、仄白い姿は消え失せた。





森は黄金に輝く。
 きらきらさらさら、舞い散る木の葉の中に一つの人影。小さな切り株に腰を下ろし片膝を抱いたほっそりした姿は少女とも見まがう、腰までも届く長い豪奢な金の髪のゆえだった。優しい菫色の瞳は見るともなく金沙の舞い狂うような中空に向けられている。そこは、色づいた立木に囲まれた小さな空き地、
「リュー――」
 どこかで呼ぶ声がする。
「リュール」
 少年はゆっくりと頭を廻らせた。
 ぼんやりとした視線を向ける少年の前に、茂みを鳴らして、やがて一人の婦人が姿を現す。
 長い黒髪を優雅に結い上げた、婦人は慈母の姿そのままに片腕に幼児を抱き、片手に十ほどの少女の手を引いていた。少年の顔の上に柔らかな笑みが広がる。
「テッサ、ミシャナ――」
 切り株から立ち、広げた少年の腕の中に駆け込んだ少女が、伸び上がるように抱きつきその顔を振り仰いだ。
「また、大きくなったのね、リュー、もう母様と同じ位――」
 大人びた口調で言う少女に、黒髪の婦人は少し悲しげに笑んだ。
「そうね、ミシャナ、でもリューは母様の弟なのだから、ミシャナよりはずっとずっと大きいの」
「でも、この前までは同じ位だったのに‥‥」
 それを理由に、一人森の狩り小屋で暮らしてきたリュールだった。

 テッサには遙かに昔のことにも思える。
 グリエムランの城が落ち、捕らえられていた竜人が閃光の中にその姿を消し去り、新たな王が立ってより、もう十数年の月日が流れたのか――かつて小さな少年だったリュールはいない。ほっそりとしなやかな青年がそこにいると同じに、みすぼらしい旅芸人の娘はしっとりとおとなしやかな貴婦人に変わった。
 シェラムに伴われてオーヴの館に身を寄せ、心をどこかに置き忘れたようなリュールの世話をして暮らすようになって、だがテッサは知った。リュールはその心だけでなく、時までもどこかに置き忘れてきたのだと。その姿は変わらなかった。一年たち、二年たち、その年頃の少年がすくすくと育っていく中で、リュールだけがその時に留まっていた。背も伸びることなくほっそりと華奢な姿は、いつまでも少年とも少女ともつかないままだった。
 その様は、生きた人形のようであった。置かれたままに、身じろぎさえせず日を送る、そんなリュールにはじめて変化の兆しが現れたのはミシャナが生まれた時だった。
 それより少し前、求められてシェラムの妻となっていたテッサには二重の喜びとなった。
 その双眸に意志の光を取り戻したリュールの腕に抱かれた我が子――
――夢のようだ
「テッサ――」
 何年、その声を、言葉を聞きたいと願ってきただろう。
 それでもリュールの背が伸びることはなかった。次々と生まれたテッサの子供が年ごとに成長していくのと比べ、それは人の目に立った。
 やがて、リュールは森で暮らすようになった。オーヴの当主が代々狩りに使ってきた小屋に手を加え、食料を運び込み、年月は緩やかに流れていった。
 小屋を訪れるとき、テッサには昔の時が立ち返る。一人ならい覚えたレベックを弾くリュールの曲に合わせて踊ってみたりもした。
 ある時不意に気づく。その背と並ぶほどに伸びていた一番上の娘ミシャナを越して伸びているリュールに。
 それとともにやわらかな枯れ草色だった髪に輝きが増していく。そして一年が過ぎた今、
――これが、あの、小さかったリュールだろうか
 背はテッサと並ぶほどに伸び、幼く弱々しかった面立ちも強靱さを潜めた青年のものに変わりつつある。
「――もう館に戻ってはどうかとシェラム様も言っておいでだ。館に戻れば身の立つようにもして下されようと――」
 テッサの言葉にリュールはほんのりと笑った。こんな所は昔のままだ‥‥
「テッサ‥‥このままで‥‥いい‥‥」
「リュー‥‥」
 ふと、テッサは思う。やはり、まだ、待っているのだろうか――
あの時、激しい閃光とともに城の一画まで消し去った竜人は、自らをも消し去ったかの如く、その後、姿を現すことはなかった。リューを連れ戻しに来るのではないか‥‥心秘かに恐れたテッサも過ぎゆく年月の中にいつしかそれを忘れた。
 それでも、心を取り戻してからのリュールを見守るテッサに、それは痛いほどに伝わった。
――来て‥‥
 寂しげな笑顔の中に、テッサはそれを聞く。
――ぼくを‥‥迎えに来て‥‥
――エリエン――
 互いに口にする事はなかったが、悲しみを潜めた微笑みがそれを物語っていた。

 テッサと子供達が去るとあたりにはふたたび静寂が込めた。ただ、サラサラカラカラと枯れ葉が舞い落ちる。リュールは飽かず、それを眺め続けた。

 その日も、空き地のはずれの切り株に腰を下ろし、くるくると舞い狂う枯れ葉につつまれ、思いのうちに埋没するリュールの姿があった。
――あの時も、こんなふうに秋がいこうとしていた。
 もう、何年も昔、人知れぬ森で、その人の視線を背に感じながら、リュールは歩み去った。
――止めて‥‥
――ぼくを‥‥呼び止めて――
 思いは空しく、呼び止める声はなく、人知れぬ森は遠く去った。そして、時も去っていった。
 すべて‥‥呼び返すことは、できない‥‥
 あの森を探そうと思ったこともあった。古い記憶をたどり幾日も森の中をさまよった。不思議な力で隠されているのだろうか、あの空き地にも、洞窟にも、行き着くことはできなかった。
 両手で顔を覆う。
――エリエン
 そして、何かがかそけき音を立てた。
 ゆっくりと、リュールは顔を上げる。
 カラカラ、サラサラ、金の葉が散る。明るい午後の日差しを浴びて舞い狂う。
 舞い狂う――朱金の枯れ葉の中に、ひっそりと佇む姿が――ある‥‥リュールの両手が脇に落ちた。
「リュールには‥‥わたしの本当の名さえ、教えていなかった‥‥‥」
 静かな声だった。しみいるようにその言葉の意味するものがリュールの中に充ちわたったとき、見開かれた目を細めて、リュールはひっそりと微笑んだ。
「そうだったの‥‥エリエンでは‥‥なかったの‥‥」
 それでも、溢れでた涙が頬を伝い、きらきらと流れ落ちた。
「リュール‥‥」
「‥‥どうして‥‥」
 うれしいのだろうか、悲しいのだろうか、リュールにはわからなかった。ただ、涙だけが止めどなく流れ落ちていった。
「あまりに‥‥長い間、わたしを名前で呼んでくれるものはいなかった。リュールに、はじめてエリエンと呼ばれた時、それでよいと、思った‥‥古い、なつかしい名だった‥‥」
 リュールは無言だった。何かを恐れるように身動ぎさえせずに、二人は立ち尽くしていた。
「今では、エリエンと呼ばれたい。リュールに、エリエンと‥‥」
 微かに息を呑み、リュールは身を震わせた。
「リュール――」
「エリ‥エン‥‥」
 おずおずと一歩を踏み出すリュールに、エリエンは静かに歩み寄る。
「わたしの、リュール――」
「エリエン‥‥」
 銀沙を散らす腕の中に抱きしめられて、耳元に降り落ちる声に、陶然とリュールは目を閉ざした。
「ずっと、ともにいて欲しい、エリエンと、呼んで欲しい――」
「エリエン――」
――ああ、エリエン‥‥エリエン――


 午後の日差しが朱金の輝きを帯びる頃、屋敷の横手の香草園で、ふと、葉を摘む手を休め、テッサは耳を澄ます。表から響いてくる子供達の声に微笑する。今日もまた、何ごともなく穏やかな日がくれようとしていた。その幸福感にしばらく身を浸していたテッサが、また香草を摘む作業に戻ろうとして何かの気配に視線を上げ、息を詰めた。輝かしい日差しが不意に寄り集まり、人の姿となったかのように、人影があった。
「テッサ――」
 人影は二人、その一人が歩み寄り、テッサを抱きしめた。その肩越しに、白い衣をまとった銀沙の姿を見て、テッサはその時が来たのを知った。
「行くのね、リュー」
 テッサの手から香草の籠が落ちる。力を込めて抱き返す、テッサの頬をきらきらと濡らして涙が流れ落ちた。
「テッサ‥‥元気で‥‥」
 リュールの唇が羽のようにテッサの額に触れ離れていく。
「リューも――」
 こみ上げるものに言葉をとぎらせる。
「――この子を、幸せにしてあげて――」
 その言葉に銀沙の面が微かにゆらぎ、まばゆい日差しの中に溶けるように消えた。
――リュー‥‥
 晩秋を告げる朱金の光の中に一人、テッサはいつまでも立ち続けた。





− end −

VOL8-epilogue
2006,4,29

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