VOL7-5
時さえが凝固したか―― 永遠とも思える一瞬が過ぎ、喉輪を抉ろうとした短剣が引かれる。猿臂の主は喪然と見上げるシェラムに背を向け、王の傍らに膝を折った。 石壇に腰を下ろすその姿を瞋恚の眼差しで見上げる、シェラムの口に声が軋った。 「お前は――終わりだ!」 片手で傷を押さえ上体を起したシェラムに微かに揶揄を含む横顔を見せたまま、王は床の上のものを凝視する。 「人は――いずれ終わる」 ゆるやかに脈打つ燐光の繭に魅入られたような視線を据えたまま王は薄く吐息する。 「惜しむべき何があろう」 やがて王の視線が上がる。 「まだ、名を聞いていなかったな」 「シェラム・オーヴ、お前に、妹を奪われたものだ」 呪詛に満ちたその声に、王は冴え冴えと笑った。 「そうか、お前がな――」 再び、床の燐光の繭に視線を戻した王の顔の上で笑いが深まった。 「どうやら時が満ちたらしい。お前達は去るがいい」 シェラムの顔の上で驚愕が凍った。 「何故――」 「じきに、この塔は落ちる、ともに、死にたくはあるまい、――ムゴル」 声に促され立った猿人が流れるような動きで床から抱き上げた小さな身体を凍り付いたように凝固していたテッサの前に差し出した。 「リュー――」 すがりつくようにその身体をかき抱く、テッサは泣きじゃくる。その姿から振り切るように王に視線を戻すシェラムの顔に懊悩が深まる。 「剣さえ、折れねば――」 今は笑みを消しけぶるような視線を向ける、王の声に始めて威迫の響きがこもる。 「おのれ故にこの城は落ち、私は逝くことになる。それで満足しておくことだ。今は煩わされたくない。消えよ」 その言葉を受けるように、つと前に出たムゴルの手に白刃が閃く。シェラムの肩が落ちた。よろめく脚を踏みしめ、立ち上がったシェラムは背に意識のないリュールを負い半ばテッサに支えられ背を向ける。 寄り添う三人の姿が闇の階段に消えた、それを確かめ閉ざした扉に錠を下ろしたムゴルが闇の広間に戻った時、それは始まっていた。 さわさわとうねる黒銀の髪に無数の燐光が弾け散る、それは今、別の生き物のようにゆらぎ騒ぐ。その身を包む燐光の繭は消え、仄青い肌が灯火に煌めいた。胎児のように身を丸めていた竜人は、今、その身を起こそうとしていた。 足を竦ませる、ムゴルの全身を戦慄が貫く。 「ここへこい――」 王の声がその呪縛を解く。怪異な影は奔り、そして、自らが楯になるように膝下に踞った。王の白く優美な手がその肩に置かれる。 「ムゴル――」 降り落ちた、声の染みるような優しさにムゴルの目が見開かれる。それはかつて、あれほどに渇仰し、渇仰し、渇仰し抜いたものではなかったか、それが今、不意に与えられた―― 「お前は、この手で、送ってやろう」 その言葉に、ムゴルの見開かれた目が閉ざされる。わずかにうつむけた頬の上を不意の涙が伝い落ちた時、その頸を白刃が貫いた。 力感に溢れた巨?が弛緩し、怪異な頭が胸の上に落ちる。その身体から命の炎が消えていくさまを思いの知れぬ笑みを湛えて見据えていた王の口に吐息が這う。 「哀れな、ものよ――」 やがて、自らの思いを振り捨てるように王は頭を上げた。 「なすべきは、なした。好きにせよ」 その王に視線を据える、竜人は立ち、既に宙空にあった。燐光に濡れ強風に煽られたかのように逆巻きうねる髪は広間を満たし、あえかな煌めきを残して闇に溶ける。その顔に表情はなかった。闇を湛えた紫黒の双瞳で王を見下ろす、エリエンは無言だった。 見上げる王も今は沈黙にこもる。ただ、時だけが移ろうていた。 無限に続くかと思われた闇の階段が尽きて、二層の回廊にでたとき、シェラムの全身は脂汗に濡れていた。背に負ったリュールの身体が重い。 「シェラム様――」 不安そうに見上げてくるテッサの手が血濡れた肩に触れる。ムゴルの剣に断ち割られた肩はいまだに血を吹き続けている。 「早く、手当をしなくては――」 うなずく、シェラムの足元に点々と血が散っていた。 「この先に小部屋がある、そこで――」 その、刹那――だった。激しい衝撃が足下を突き上げ、彼等は床に叩きつけられていた。うねるような白光が周囲を満たし遠雷に似たとどろきとともに消えていく。 驚愕が去った時、人々は知った。主塔の北面がかつてそこにあった闇の塔ともども、巨大な爪にえぐり取られたかのように失われたのを。 かつては厚い壁におおわれていたそこに、銀沙を散らす夜空を見出しシェラムは畏怖に震える。その身体にそっと寄り添ってくる温かなものを夢中になって抱きしめていた。 その夜の出来事を人々はこう語り継ぐ。 ――悪逆なる王が竜の雷火にうちほろぼされた、と。 その夜、城の北面に天地を貫いて奔る白光を見た数多のものがそれを語り広めた。ともかくも、一夜が明けて世界は変わった。城下の人々は城に新たな王を見出した。その城の内にあって、勝者も敗者もそそけだった顔を向け合う。主塔の北面とともに、王も、その頤使するかの猿人も消え失せた。これは天与の裁きなのか、と。 やがて、新王サイートが即位し、城の修復が始まった。 所領への帰還を許されたシェラム・オーヴが王都を発ったのはそれからじきのことだった。傷ついた肩をかばって胸に腕を吊ったその姿はやつれ、わずかにうつむけた頬はそげ立っている。だが、その傍らには寄り添うものがいた。どこかに心を置き忘れたような少年を鞍の前に乗せ、気遣わしげな視線を向ける黒髪の娘―― 轡を並べた二騎は未だ雪に覆われた野に旅立っていった。 遠ざかる影は遙かな城壁の高みから見送るもののあることに気づいたか、蒼穹に燃え立つような赤毛を波打たせたエゴウ・シヴォーだった。赦されて旧の地位に復したエゴウは再び赤の胴衣をまとっている、その胸を飾る紋章は誇らしげだったが、口元は自嘲に歪む。 やがてエゴウは寒風の中にきびすを返す。塔の闇に一瞬すがめた目を開き足を速めた。 自室に戻ったエゴウは控えの間に顔をのぞかせる。一時は生死の間をさまよったノルドルが未だ衰弱しきった身体を横たえていた。 「殿‥‥見送ってこられたか‥‥」 「まあ――そういうことになるか、それにしても、俺のいない間に顔を出すとは――」 「たまたまのことでしょうよ。律儀な娘です」 「そうか――」 薄く嗤い、背を向けようとしたエゴウに、 「殿は――」 「何だ」 「このままずっと、お仕えなされるおつもりか――」 「領地を空けすぎたか、そろそろ帰る潮時かも知れぬな」 「奥方も、お子たちも喜ばれよう」 VOL7-5 − to be continued − |