水天は上を見上げていた。
彼方まで続く水を。そしてその果ての、光を映した鏡を。
足下に広がる氷床。
ここは水府。水天の居所。
氷肌珠のごとく、水のうねりに任せて揺れる髪は天井からの光に輝く銀。
水清の煌めきを湛えた双眸は、何の為にか憂いを帯びている。
時折、天上が緋く染まる。
外は戦乱。
幾多の血がこの水府の上に零れた事だろう。
血は振り落ちて、そのまま氷床に積もっていく。
水天はそれを幾つもの壷に入れて保存していた。
何年も何年も、人の血は変わらない。壷の数は数億にも余る。
それでも、相も変わらず人の血は降ってきた。
深い水の底。
水府は氷の輝きを以て、この世の流れを冷たく眺めていた。
それに倣う事が出来ぬは水天。
穢れを受け入れられぬ侭、時は過ぎる。
水天も元は人であった。
人を愛さずに入られない、人であった。
ある折、天神が水府を訪れた。そして、陳列された壷に目を遣り、呟いた。
「人とは愚かなもの。それでもそなたは、人を庇うか?」
水天は天神の前に跪き、口を開いた。
「いずれ……いずれ気付くときが参りましょう。早まった事だけはなさいますな」
「そなたは……優し過ぎる」
顔を上げさせ優しげに見詰めて、その日、天神はそれ以上何も言わずに去った。
人は愚か。
けれど私は人を愛す。人を信じる。
血の雨がこの水府を穢そうと。
壷の数が、やがて、ここに並べ切れぬ程になろうと。
いつか気付く。
天神が思われる程、人は愚かではない。
水府が紅に染まりきれば、どのみち生きては行けぬ身なれば。
最期まで人を信じる。
それが、人であることを捨てた水天の務め。
水天は呟き、天を仰いだ。
それから後も、緋い雨は降り続けた。
水天は信じ続けた。願い続けた。
ある日、常ならぬ大量の血の雨が降った。
氷床は見る間に紅く染まっていった。
水天は必死で掻き集めた。
だが、止む事のないそれを集めきることは、もはや不可能であった。
水天には祈る力も残されていなかった。
人の血で穢れた床に蹲り、動く事すら出来ない。
人が人である限り、決して起こる筈がないと信じていた程の虐殺が成されている事は必定だった。
何故に人は殺し合う。
何故に人は憎み合う。
人が人である限り、逃れられない宿命なれど、
水天は信じていたかった。
そうして数刻後。
人の運命を憂えた水天が一人、雪白の姿を緋に染めて、
氷の床へ沈んでいく。
──終──
作 水鏡透瀏