「ん……」
 ルシェラは寝返りを打ちながら、意識が浮上するのを感じていた。
 まだまだ微睡みの中にあるのが心地いい。
 直ぐ隣にある温もりに頬を寄せながら、もう一眠りを決め込んだ。

「あ……やべ……」
 男は白髪の交じった頭を軽く振り、身体を起こした。
「ぅ……ん……」
 ずるり、と滑り落ちた身体にぎょっとする。
 慌てて、縋っていた華奢な肢体を横たえ直した。
「おはよ、ルシェラ」
 髪を軽く掻き分け、額に口付けを落とす。
 ルシェラはうっすらと目を開けた。
「……おはようございます」
「飯作ってくるな。何がいい?」
「……貴方」
 男に腕を伸ばすが、軽くいなされる。
「………………それは後でな」
「……では…………飲み込みやすいもので……」
「了解」
 額と頬にもう一度口付け、男は寝台を降りた。

 いそいそと側の椅子にかけてあった服を羽織り部屋から出て行く。
 ルシェラはそこに太陽でもあるかの様に目を細めてその背を見詰め、見送った。

 極端に血圧が低く、寝起きはかなり悪い。
 まだぼんやりとしながら、寝台から足を下ろす。
 すらりとした華奢な足が伸びた。
 掛け布を引っ張り肩に羽織る。
 半分しか開いていない目が、部屋の中を彷徨っていた。
 窓の外からは爽やかな朝の光が差し込んで来ている。庇は長く作ってあり直射日光は入ってこないが、それでも充分に明るい。
 暫くして床に目を移せば、昨夜の痴態が思い出される有様だった。
 何処か几帳面なところのある男の衣類は椅子にかけられていたが、自分の着ていたものは脱皮後の様に床一面に広がっている。
 無理に脱がせられ捨てられたものではない。
 自分が奔放に脱ぎ捨て、そのままだっただけだ。
 痴態を思い出しても、赤面する程子供でもない。
 ただ愛された記憶が肌を優しく包んでいく様で、自然に顔が綻んだ。

 国を離れ、リーンディル神殿で穏やかに余生を過ごしている。
 こうして、愛してくれる者の側にあり全てを任せられる。
 それがどれ程幸福なことか……ルシェラは熟知していた。
 これ程恵まれる生もそうあるものではない。

 ふと廊下からいい匂いが流れて来る。ルシェラは一層顔を綻ばせ立ち上がろうとした。
「っ、く……」
 身体の芯に重く軋む様な痛みが走る。
 苦笑しながら、ゆっくりと両足に体重を乗せる。
 痛みに襲われながらも、ルシェラは幸せそうだった。
 男の与えてくれるもの全てが……例えそれが痛みを伴うものであったとしても、いとおしくて仕方がない。
 身体を起こすのがやっとであっても構わなかった。

 蹌踉めきながら立ち上がる。しかし姿勢は定まらず、直ぐに床に膝を付いてしまった。
「……ぁ、っ…………」
 腕も身体を支えきれず倒れ伏す。頬に絨毯が触れた。
 長い髪が身体に絡む。
 何か手繰り寄せて身体を起こそうとしたが、頼れそうなものは何もなかった。
 降りたばかりの寝台も位置が高く、ルシェラの助けにはならない。
 伸ばそうとした腕を力なく床に置き、人が来るのを待つ。
 食事が出来れば男も戻って来てくれる。
 絨毯の毛を掴み、寝返りを打つ。
 身に纏っていた掛け布を身体に掛け直し蹲る様な姿勢になった。

 男より先に、弟が来るかもしれない。
 全裸は晒せない。
 弟の夢を壊したくなかった。
 弟のセファンはルシェラに対して夢と憧れを抱いている様だ。
 それは兄弟以上の想いなのではないかと感じる事も少なくなかった。
 兄弟という柵などはどうでも構わないが、ルシェラには五歳年下の弟を、弟を見る目以外では見られない。
 あまり多くの時間を共に過ごせはしなかったが、一緒にいられなくても、弟を弟として愛しく思っていた。
 セファンは、そうは思ってくれないらしい。
 傍らにいる男に憎悪の籠もった視線を送っている事に、セファンは気付いているのだろうか。

 僅かな行動にすっかり上がってしまった呼吸を整えながら、ルシェラは身を屈めて苦しみに堪えていた。
 その時、ふと扉が叩かれる音を聞く。
「……は……い…………」
 息が足りず大きな返事は返せない。
 聞こえたのか聞こえず不審に思ったのか、扉が開いた。
「兄上、おはようございます」
 セファン、だ。
「兄上……?」
 寝台の上にいない事を不審に思ってか、部屋に入り扉を閉める気配が分かる。
「兄上!!」
 床に脱ぎ散らかした服と掛け布の端を見つけ、慌てて駆け寄って来られる。
「いかがなさいました」
「…………立て……なくて……」
「おじ様は」
「朝餉の……用意を……」
「兄上を放って置いて、何を暢気な」
 弟の唇に触れ、言葉を遮る。
 男に対する罵り言葉を聞きたくはなかった。

 抱き起こされる。弾みで布が肌蹴た。
 セファンが息を呑むのが分かる。
「……寝台の上へ、お願いします」
「はい……」
 十三歳とはいえ比較的大柄で筋肉質なセファンに出来ない事ではなかった。
 抱き上げられ、そっと寝台に戻される。
「ありがとう……」
「兄上……」
 セファンは覆い被さる様に寝台に手を付き、横たわるルシェラを見下ろす。
「……セファン?」
「…………何故、あの男でなくてはならないのです」
「セファン……」
「何故私ではならないのですか」
 真っ直ぐな瞳。身体はそれなりに育ってはいても、セファンはまだ子供だった。
 ルシェラは手を伸ばし、その頬に触れた。
「……貴方では、いけないわけでは……ありません。ただ……私は、あの方の他を……選べない。まして、貴方は……弟ではありませんか。あの方と……同じ意味で、貴方を選ぶ……事が出来る筈がない。……その理屈が……分からない程、貴方は子供では……ないでしょう……?」
「私は貴方と、半分しか血の繋がりはない。なら……ただの弟ではないのです。私を選んでください。……ルシェラ……」
 頬に触れていた手を取り、寝台にそれを繋ぎ止める。体重を掛けてしまえば、ルシェラは身動きが取れない。
「………………わたくしを、犯すのですか」
 ルシェラは睨むでもなく、悲しむでもなく、真っ直ぐにセファンを見上げた。
「…………好きになさい。早くしなくては……あの方が、戻って来て……しまいますよ」
「兄上! 構わないと仰るのですか」
 拒む言葉を先程言われた筈だ。それなのに。
「貴方を……選べない事に変わりはない。……貴方が、わたくしに……何をなさろうと、この心はあの方一人のもの。……さぁ、したいなら……なさい」
「……兄上は、私を侮辱なさるのか」
「……貴方はあの方を……蔑んでいる。それは、わたくしに……対しての、侮辱も同じ事……」
「その様な事、二度と言えない様にして差し上げますよ」

 子供だと侮っていた。
 思えば、ルシェラ亡き後唯一の嫡子となるべき王子だ。十三にもなれば、世継ぎ作りの為の教育くらいなされている。
 本気で抵抗すればこんな子供一人捻じ伏せられないでもないが、傷つけたくなかった。
 父親とセファン以外の血縁を知らない。拒みきれなかった。
 昨晩男に抱かれた身体は、今雄を受け入れるには適さない。身体に未だ燻る痛みに、ルシェラは身を竦ませた。

「いた……っ……」
 相手を思いやる事を知らない性交は、ただルシェラに苦痛だけを齎す。
 身体に散らされる紅斑は、浮かんでは消え、消えてはまた刻まれる。
 平手打ちをしそうになる度、ルシェラは敷布を掴んでそれを堪えた。
「きつい、ですね」
「わたくしは……女では……ありません、から……」
 指が妖しく出入りしている。
 けれど、身体が昂ぶる事はない。ただ、苦痛が負担となり呼吸が酷く乱れる。
「ええ、存じ上げています」
「…………可愛らしく、ありませんこと」
「私は貴方が思っていらっしゃる程子供ではありません」
「……子供です。まだ…………っ」
 一際深く指に抉られ、華奢な頤が仰け反る。抜ける様に皓い喉が晒され、セファンは引き寄せられる様にそこへ貪り付く。
「っぁ、あ……は……っ……」
 男にしては甲高い嬌声が上がる。セファンの背筋をぞくぞくとした震えが駆け抜けた。

 組み敷いた兄の身体は甘やかだった。
 男を惑わせる魔力とでも言うべきものが立ち昇っているかの様にすら感じる。
 歪む顔すら艶かしい。
 ルシェラに比べれば、セファンに初めての手解きをした女など地を這う虫も同じだった。
 この氷肌の何処にでも、口付ける度に唇に甘い余韻が残される。
 これをあの男が独り占めしていたのかと思うと苛立たしくて仕方がない。

「……ルシェラ……」
 兄とは呼べない。
 ただの血縁者として見る事は、最早セファンには出来そうにもなかった。
「私を受け入れてください」
「……愚かな…………」
 吐き捨てる。瞳が冷気を孕み、セファンを睨み付けた。
「今なら……まだ、引き返せる……セファン…………いい加減に……」
「諦めるのは貴方です、ルシェラ」
 セファンは聞く耳を持たない。
 ルシェラは小さく溜息を吐いた。
 手が、セファンのそれと重なる。
 許す様なその仕草に、セファンはにやりと笑った。

 …………が。

 ふと眩暈がした。
 手足から力が抜ける。
 次の瞬間、セファンの身体は宙を舞い、そして、寝台の上に叩きつけられていた。
 手が捻られ、押さえつけられている。
 何が起こったのか理解できず、セファンは目を白黒させた。

「……いい加減に、なさい……と……」
 セファンの上に馬乗りになり、ルシェラが押さえつけている。
 激しく胸を喘がせ、呼吸を貪っていた。
 顔は蒼白で、唇は震え、苦痛を示す呻き声を堪えようとしてか、時折顔が歪んだ。

「あ、兄上!!」
「…………もう…………あの方が……………………」
 ふらり、と身体が大きく傾いだ。
 セファンの上に、どさりと落ちてくる。体勢として、その背で受け止める他、セファンには出来なかった。
「……はっ…………ぁ……」
 荒い息がセファンの首筋に掛かり、思わず身を竦ませる。
「兄上、兄上っっ!!」
 狼狽える。
 命に関わる事態になるのは想定外だし、全く望んでもいない事だ。
 大慌てでルシェラの身体の下から這い出し、様子を伺う。
 片手を胸にもう片手を喉に当て爪を立て、じっと蹲っていた。肩が上下しているが、思う様に呼吸が出来ていないらしく、安定していない引き攣る様な嫌な喘ぎが洩れている。
 このままでは危険な事はよく分かった。廊下に飛び出す。

 男がいるのは厨房だろう。その方へ向けて全力で駆け出す。
 と…………。
「うわぁっ!!」
「っ、ととと……」
 曲がり角で誰かにぶつかりかける。相手が避けなければ、そのまま素直にぶつかっていただろう。
「危ねぇなぁ……セファン、せめて曲がり角では走るなよ」
「おじ様!!」
 捜していた男に早々に出会え、セファンは僅かに安堵した。
「急いでください、兄上が、」
「ルシェラがどうした」
 男の立ち直りは早かった。
「具合を悪くされて」
「お前はこれを持って後から来い」
 手にしていた朝食の載った盆をセファンに押し付け、男は走り出した。
 老年とは思えない身のこなしだった。

 駆け込んだ部屋で、男は直ぐ様ルシェラを抱き起こした。
 背から頭に掛けてなだらかに隆起する様に枕を重ねて仰向けに寝かせ、側の机の引き出しから注射器と薬剤を取り出す。
 細い腕を消毒し薬を注射する。
 冷静な手つきで的確に処置をしていく。
 やっと追いついて食事を台に置いたセファンは、向かいからじっとその様を見詰めた。
 この男は何故、これ程に冷静沈着でいられるのだろう。何故……。

 塗り薬を喉から胸に掛けて塗布し、とりあえずの処置が終わる。
 男は手を拭うと、寝台の傍らに椅子を寄せてルシェラの手を握った。
「………………セファン」
「……はい」
 ルシェラを挟んで向かい合わせに座る。
「これで、分かっただろ。お前の想いは成就できない」
「っ!!?」
 全てを見透かされている。
 セファンは身が竦む思いがした。
 男は怒ってはいない様だったが、感情の読み取れない目でルシェラとセファンを交互に見ていた。
 だが、それを全て飲み込み、セファンは真っ直ぐに男を睨み返した。
「何の話です」
 可愛げがない。
 男は窘める様な苦笑を浮かべた。

「…………ん、分かってるよ」
 ふと男が優しい声を洩らす。セファンから視線は反れ、ルシェラを見詰めてその髪を撫でた。
「…………兄上が、何か」
「お前を許してやれってさ」
「何故……いえ、……何を」
「こいつはちゃんとした血縁がいる事が嬉しいんだよ。その期待を裏切ってくれるな」

 セファンには分からなかった。
 生まれた時から兄は兄で、美しく聡明で敬愛すべき対象だった。
 ただその想いが昂じ、変質しただけ。それだけの事。
 何故兄弟で愛し合ってはならないのか、セファンには明確には分からない。
 そんな感情を持つこと自体がおかしいのだと言っても、近くて遠い距離感がそれを曖昧にしてしまう。
 血縁者として受ける期待とはなんなのだろう。

「ルシェラはお前の性欲を晴らす道具じゃない。お前が表向きの感情でどう想っていようが、無理矢理押し倒すなら、それは何ら変わりがないんだよ。お前ほど聡明なら、分かる筈だ」
「けれど、愛するなら……いとおしく想うなら、抱きたいと思うのもまた正常な思考ではありませんか」
「それが駄目なんだよ。愛しているなら、ルシェラの意思が最優先だ」
 ルシェラの髪を撫でる手を止める。男は、顔を上げ、じっとセファンを見詰め返した。
 悲しげな空気がセファンを圧する。
 それに呑まれた様に、セファンは身動ぎすら出来なかった。

 睨む視線すら若木の枝の様に柔らかく受け流される。
 男の年齢を感じさせるのは顔に刻まれる皺と白髪だけで、それですら、同年の輩よりずっと若々しく見える。
 頭の中もそれは同じ事で、老人にありがちな固さというものをまるで感じさせなかった。
 ルシェラとは四十以上も離れているだろうに、あまり違和感を感じさせない。
 この様な時と場合と関係性でさえなければ、セファンの憧れの対象はこの男だったかもしれない。

「貴方は何でもご存知なんですね」
「お前の何倍も生きてるからさ。歳を取れば分かってくる。それは、俺達の義務だから」
「義務?」
「ああ。ルシェラの代わりに大人の世界を知ること。それが義務だ。だから、今はせめて……大人の世界に飲まれるな。ルシェラには純粋な想いで接してやってくれ。大人がするように下世話な感情じゃなくて、身体なんか関係ない、そんな……」
 男の表情がふと歪む。
 涙を堪えている様だった。
 ルシェラの手が動く。男の手を握り返していた。

 セファンには分からない。
 この男は大人だ。しかし、男が言うように下世話な感情など持ち合わせていない様にしか見えない。
「貴方は、何なんです」
「…………分からない。ただ…………お前なら、俺の存在がなんなのか、知る事が出来るのかもしれないな」
「何です、それは」
「俺はきっと、知る事を許されていない存在だから」
 不可思議な問答に苛々する。
 けれど男はそれきり口を噤み、顔を伏せてしまった。
 それ以上責められなくなる。

 それから。
 結局、ルシェラはさした回復も出来ないまま、臥せってしまった。
 男に手を握られたまま、ただ死ぬ時を待っている…………。


作 水鏡透瀏

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