「ここが先生の作業場かぁ……」
 リファスは幼い瞳を煌めかせ、煩雑な室内を見回した。
 所狭しと種々の楽器が並べられている。
「どれですか、ロレットのシータって」
「奥に仕舞ってありますから、持ってきましょう。それまで、その辺りの楽器なら触っていても構いませんよ」
「はいっ」

 ロレットのシータ。
 この世界の吟遊詩人なら、知らぬ者はない。
 千年程前に世を席捲した楽器製作者ロレットの手によって作られたシータという楽器である。
 現存するのは、リーンディル神殿と、ロレットの出身地アーサラの国立博物館、そして、民間の何処かに一、二本あるだけだと言われている。
 シータは卵を縦に割った様な形の胴に幅広の棹が付いた六弦の楽器で、まだ十歳の子供のリファスには一抱えにもなる。
 リファスはまだ子供だが、その楽器に魅せられる程には熟練したシータ弾きだった。

 王立学院の教師宿舎はそれなりの設備は整っていたし部屋も広く取ってはあるものの一部屋と水場、広めの納戸しかなく、楽器と楽譜で散らかった室内には立ち尽くすだけの隙間しかない。
 仕方なく、辛うじて寝る場所を開けられた寝台の上に上がり、教師を待つ。
 彼は王立学院で音楽と詩作の授業を受け持つ、世界でも屈指の吟遊詩人だった。
 ラーセルムの王立学院は、アーサラ、リルディアの王立学院と並ぶ世界でも屈指の教育機関だった。その範囲は勉学のみに留まらず多岐に渡り、高度の職業訓練校としての役割も果たしている。
 倍率五十倍を越える入試を掻い潜った一学年五十人から始まり、卒業時にはその半数が消えているという厳しい場所でもある。
 十年在籍して教育を受けるのだが、リファスは既に4年を過ごした上に飛び級を繰り返しており、卒業も近いと目されている程の英才だった。

 枕元に飾ってあった小さな小さな明らかに玩具の竪琴を手に取って軽く弦を弾く。
 触ってよいと言われても、教師の部屋のものなど早々弄れはしない。
 爪弾きながら教師を待つ。
 玩具の竪琴は、硬くて甲高く、面白い音を立てていた。本物しか触った事のないリファスには物珍しく、面白く思える。陳腐な音といえばそれまでだが、物の音というものはそれぞれに特徴があり興味深いものだ。
 子供ならではの独創性に富み、即興で音に合う旋律を弾き出し始める。

「美しいですね」
「あ、すみません」
「いいんですよ。触っていいと言いましたし。でも、そんなおもちゃで良いのですか? もっと君に似つかわしいものはあるのに」
「珍しくって。面白い音がしますね」
「そうですかねぇ……。ああ、これですよ、件のシータは」
 一つの箱が大切そうに寝台に置かれた。
 リファスは玩具を元の場所に戻すと身を乗り出し、蓋が開けられるのを待った。

 素朴な、とても簡素なシータが横たえられていた。
 古びて、胴の側面に塗られていた仮漆は殆ど剥げている。多くの人が使ってきたのだろう。棹の部分は黒ずんで艶々としていた。
「これが……」
「ええ、弾いて御覧なさい。私は飲み物でも用意してきましょう」
 教師が離れる。
 リファスは恐る恐る手を伸ばし、シータを手に取った。
 抱き起こす……という表現が適当な程丁寧に取り出し、膝に乗せる。
 構えてみると、案外にしっくりと来る。大人用の大きさの筈だが、少しばかり華奢に作られている様だった。
 古いものの、姿はとても美しい。彫刻などで凝っているわけではないのに、目を離せなくなる様な魅力があった。湖面を漂う白鳥の様な優美さがある。
 ただ、何処かで見た様な、よく知っている様な気のするものでもあった。
 幾ら天才と称せられてはいても、これ程著名な名器を手にした事はない筈なのだが。
 世界でも指折りの逸品だ。ただの一教師が持てるものでもなかろうが、世界中で名声を博している人物を選りすぐりで集めている学院の教師ともなれば、違うものなのだろう。
 指の背で軽く弦を撫でる。
 澄んだ音が弾き出された。
 市販されているものとはまるきり音が違う。

 指馴染みのいい楽器だった。
 リファスにこれ程しっくりくるならば、大抵の所持者であっただろう大人達にはとても合うものではなかっただろう。
 軽く簡単な曲を奏でてみる。
 理想的な音がした。リファスの中の「こう奏でたい」という音そのままのものが流れ出てくる。
 その事に驚きはしたが、それ以上は思ったほどの感慨もない。
 ただ、あまりの馴染みの良さが懐かしささえ呼び起こす。
 音は当然のものだった。こう奏で出るべきだと思う。その理想は、記憶の片隅に引っ掛かり、疼く。
 知っている音色だった。
 手を止める。
 少し楽器を放し、じっくりと眺めた。
 これは、自分の楽器だ。そう錯覚すら覚える。

 ふと温かい香りが漂って来、我に返る。
「どうしました?」
「いいえ、なんでもないです。いい香りですね」
 シータを寝台の上にそっと横たえる。
 盆の上に不揃いな取っ手付き湯のみが二つ。まあ、男の一人暮らしなどそんなものだろう。
 教師は盆を側の机兼食卓に置き、一つをリファスに手渡した。
「いただきまぁす」
「はい、どうぞ」
 不思議な香りがする。馴染みのない飲み物だった。
 口をつけ、飲み込む。乾燥させた植物を煮出したものだろうが、中に花でも混じってるのだろう。鼻から抜けていく香りが心地よい。
 心地よく……そして、湯気で視界が霞む。
「好きなだけお飲みなさい。好きなだけ……」
 教師の声が少し遠ざかる。
 睡魔が……訪れていた。
 学校が終わってからのこのひと時、思いのほか疲れていたのかもしれない。
「ふぁ……ぁ……」
 噛み殺しきれなかった欠伸が出てくる。
 教師はくすりと笑い、零しそうな湯のみを取り上げた。
「少し休んでいきなさい。そんな状態で家路については、事故に遭ってしまいそうですから」
「…………はぁい……そう……します……」
 もう一度大きな欠伸をする。
 心地よい飲み物がいけないのだ。勧められた事を断る必要もないだろう。
 促されるまま、リファスは腰掛けていた寝台に上体を倒した。
「…………よくお休みなさい。リファス…………」
 優しく髪を撫でられるのを感じながら、リファスは素直に眠りに落ちた。

 音が聞こえていた。
 美しく、何処か物悲しい。
 起き上がろうとしたが、身体が動かなかった。
 聞こえるのはシータ……ロレットのシータの音だった。しかし、リファス自身が奏でるのとはまるきり異なる音がする。あまり馴染んでいないらしく、音が硬い。
 リファスはゆっくりと目を開けた。首は辛うじて動かせたが、起き上がる事はやはり出来なかった。
「……せ……んせ…………」
「ああ、起きましたか……」
 辺りはすっかり暗くなり、部屋の明かりが灯されている。
 幾つかの洋燈と蝋燭に照らされた顔はこれまでどおり、優しく微笑んでいた。
 しかし、リファスは本能的に危険を悟る。教育を受けているお陰か、余人よりも僅かばかりの気配の変化には鋭い。

「気分はいかがです?」
「…………動け……ないです……」
 喉も麻痺している様で、声が良く出せない。
 教師は微笑んだままリファスの横たわる寝台に座り、リファスの濡れ輝く黒髪を優しく指先で弄び始めた。
「……すみませんね。君が、どうしても欲しくなってしまったのです」
 指の背が頬を撫でた。爪の硬い感触が気持ち悪く、リファスの顔が歪む。
「そんな顔をしないで下さい。傷つけたくなる」
「っ!!」
 頬に軽い痛みが走る。紅い筋が引いていた。
 その血を指の腹で掬い、ちろりと舌を出して舐める。教師の目は蝋燭の明かりにか、薄赤い光を帯びていた。
 狂気の色だ。
 そう、悟る。

 リファスは来るべき恐怖に身構えた。


「っ……や、せんせ……」
 音が流れていた。
「ぁ……ぃ……っいた、い……」
 音が流れていた。
「ひっ……ぅ……」

 黒く大きな瞳からは止め処なく涙が溢れている。
 大きすぎる衝撃を受けた時、人は案外にも目を閉じられないものなのかもしれない。
 まだ、縋る様に教師を見詰めていた。
 香が焚かれ、立ち昇る紫色をした煙が薄く室内を曇らせている。
 その煙は幾つもの紅い筋の浮いた幼い肌に染みていった。
 ふわふわとして意識に現実味はない。ただ、傷つけられた身体がじくじくと痛む。
 リファスの身体には、多くの傷がつけられていた。鬱血などではなく、爪や短刀で傷つけられた、しかしまだ浅い傷だ。
 紅い舌が更に紅い血液を繰り返し舐め取る。
 痛みの中に潜む、リファスには分からない感覚が恐ろしく思えた。

「ふ、ぅぇ……」
 慕っていた筈だった。
 器楽や詩作に関して、これまでリファスに何かを教授できるものはいなかった。初めて師と呼べる存在だった。
 それが……。
 部屋には自動演奏の鍵盤楽器の音が流れていた。その音が脳内で弾け、リファスの動きを奪っている。
 音は暗示をかけるもの。
 吟遊詩人を目指すものとして仕組みは理解しているが、聞く前に対処しなくてはとても抗えるものではない。
 教師は先に、自分には類が及ばない様に対処していたのだろう。耳栓もしていないが、平然としてリファスを弄んでいる。
 リファスはただ怯えて泣きじゃくっていた。
 成績が良かろうが、天才児と騒がれようが、見た目心ももまだただの子供だった。

「せんせぇ…………うぇぇっ……」
 ろれつも怪しい。
 泣き喚くリファスに、教師は困った様に微笑んだ。
 何故? と瞳で問いかけるリファスに応えることはない。
「っぁ……ひ、ぃっ……」
 ねろりと腕につけられた切り傷に舌が這う。気持ちが悪い。
「や、せんせ……ぃや……」
 弱々しい制止の声は教師を煽るものでしかない。
「ぃ、あ、っ!!」
 腕にそのまま痛みが走る。
 歯が腕の肉に食い込んでいた。まだ柔らかい子供の腕だった。教師はうっとりと目を細める。
 口の中に広がる血液の味を甘やかに感じた。
「ぁ……あ、ぃ…………」
 痛みにリファスの身体が震え、強張る。過ぎた痛みに、見開いた瞳から溢れる涙の量がただ増える。

「なんっ……で……ぇ……せ、せい……」
「君が愛らし過ぎるからですよ。そして、」
「っ、ぅ!!」
 より深く歯が食い込む。
「余りに罪深いからです」
「……俺、な、にっ……」
 教師の言葉は何もかもが分からない。
 リファスは懇願する瞳でただ教師を見詰める事しか出来ない。
 教師はやはり、ただ微笑んでいるだけだ。
 その張り付いた表情が本当には何も表していない事を悟り、リファスの背筋が凍る。
 狂気に支配された人間に何を言っても通じない。対処法が全く分からず、困惑する。

「君は他人が君をどんな眼で見ているか、興味がないのでしょうね」
 血に濡れた手でリファスの頬を撫でる。
「君の特質は、君を愛する理由にも、君を傷つける理由にもなりうる。そのどちらも成り立ってしまう。私は…………君を愛するが故に傷つけたくなる。ほら、君には……こんなにもよく血が似合う。……美しいですよ、リファス…………」
 皓い肌に刻まれる紅き印。濡れた様に輝く黒髪とも相俟って、見事な対照を見せている。
 くっきりと秀麗な顔立ちに、それらはひどく映えていた。
 痛みと恐怖に苦悶する幼い顔ですら、確かにその手の嗜好を持つものにはただの甘美な誘引剤に過ぎないだろう。
 教師は、ちろりと血にまみれた口元を舌で舐めた。
「安心してください。全てが終われば、傷は綺麗に直してあげますから。君ほどではなくても、私だってそれなりの腕を持っていますからね」
「ぎっ!! ひぎぃぃ……」
 噛み跡に爪を立てられリファスの身体が跳ねる。
 痛みに眩暈すら起こし、一瞬視界が黒く落ちる。

「もっと泣いて怯えて下さいね。君の容貌はそれでこそ輝く」
 視界が狭いのは痛苦に眩んでいるだけではなく、出血の所為もあるのだろう。
 リファスは何か、冷たい世界に触れた気がした。
 冷たく、暗く、深い世界。
 これが死と呼べるものなのなら、そう恐ろしいとは思わなかった。
 今はただ、死より人の狂気が怖い。
「まだですよ、気を失うのは。…………ああ、君はまだ子供でしたね。大人より少しの出血でも命が危うい。……私に全てを委ねると誓うなら、癒してあげても良いのですが」
 悲しげに言う。リファスの耳には遠く微かで届かない。
 自身の乱行を棚に上げているという様子でもなく、心底悲しんでいる様だった。
 並み居る冒険者達の中でもとりわけ繊細で狂いが出るのが、魔道士と吟遊詩人だといわれている。その最たる存在である様だった。
「リファス? 分かりますか? 眠ってしまわないで下さいね」
 自動演奏器に手を伸ばし、音を変える。
「ひっぁ、や……っぁ……」
 流れる曲が変わる。
 旋律は違ったが、同じ様に何処か悲しげな曲だった。
 とくり、と脈が一時波打ち、それから僅かに痛みが薄れていく。
 乱れた脈が不快で、リファスは身動ぎをしようとするがやはり動けない。

「君を殺したいわけではありませんからね……」
 癒しの曲、なのだろう。曲がかける暗示が、治癒力を高める。しかし、変わらず手足の自由は利かない。
 動物がする様に傷口をぴちゃぴちゃと音を立てて舐められても、振り払う事も出来なかった。
「……ぅ……ふ…………」
 痛みとは別の、身体が震える様な感覚にリファスは微かな声を洩らした。
 教師はそれを聞き逃さず、すかさず舐めていた腕に歯を立てる。
「ぐっ、ぁ……っ……」
「子供でも、感じるものなのですね。その顔、本当に美しいですよ。君に捧げる歌を作りたい程に」
 再び、腕の傷を舐め始める。
 食い千切った訳ではない。ある程度の出血が収まったところで、教師は口を離し、リファスの唇を塞いだ。
「んっ……ぅ、う……ふ……」
 口の中へ流し込まれるのは自らの流した生きる証と教師の唾液。
 吐き出す事は許されず、リファスの喉が微かに上下する。
 舌が、思う様口腔を弄った。
 鉄錆びた様な嫌な臭いが鼻に抜けたが、抵抗も出来ない。

 初めての口付け。
 しかし、微かに覚えのある感覚でもあった。
 ただ、それが故に例え様もない嫌悪感を感じる。この唇に触れてよい人間は限られている。そう、自尊心が軋む。
「ぅ……ん……」
 押しのけようと藻掻くが、何の意味も成さない。
 力の入らない身体は、教師の成すがままに委ねられる。
「はっ……っぁ……」
 紅いものの入り混じった唾液が頤を伝う。
 涙が零れ落ちた。
「……泣かないで下さい。もっと……傷つけてしまいたくなる」
 顎から喉元へと伝う唾液を舐め取り、教師はリファスのまだ細い首筋に吸い付く。
「っぁ、やっ……ぁ……せ、ん……い……や……」
「あぁ…………君は本当に甘い……」
 肌をぞろりと舐め上げる。リファスの身体は素直に震えを返した。
「ひっ、ぁ……あ……」
 敷布をただ指先が掻く。それ以上の抵抗を見せる事も出来ない。

「君が悪いのですよ。君が……私を掻き乱すから」
 指先が子供らしい首を撫でる。
「っ、ぐっっ!!」
 息が詰まる。
 喉を強く圧迫されていた。
「君のその声が失われたら……私は少しは救われるのでしょうか。それとも……」
 片手が離れ、リファスの手を取る。
 指が絡み合った。まだ小さな手が、寝台に押さえつけられる。
「この手指が失われたら……私はもっと幸福になれるでしょうか……」
「っ、ぃ、ぅ、ぐっ、ぁ!!」
 悲鳴すら引き攣る。
 細く小さな指が、あらぬ方向に曲がっていた。
「かっ……はっ……は……っ……」
 鈍い痛みが心臓の鼓動に合わせて神経を巡って行く。

「君がいけないのですよ。君が……」
 折れた指に口付けを送る。
 リファスは痛みに目を見開いたまま、何の反応も返せなかった。
「……私は到底君には敵わない。君はその歳にして、既に世界でも指折りの腕を持っている。私にはそれが妬ましい。……こんな、負の感情など持ちたくないのに…………君が私を醜くする」
 指が口に含まれ、舌を這わせられる。だが、今のリファスにはただ痛みが勝るだけだった。
「く、っぅ……」
 喉を押さえられている所為で呻き声じみた悲鳴しか上げられもしない。
「君を妬ましく思います。けれど、それと同じくらい……私は君を愛しているのですよ」
 手を握り頬に押し付ける。
 教師は、やはり酷く悲しそうだった。
「ああ……この手では奏でられませんね……今だけは……私に優位を譲って下さいね。必ず……直してあげます……。私だって、君の音が聞けなくなるのは悲しいですから」
 手の甲に口付け、紅い印を刻む。
「私に……君を奏でさせてください。君の声は素晴らしい。ただ、まだ艶が足りない。私なら、君に素晴らしい音を奏でさせることが出来ると思うのですよ」
 痛みが脳髄にまで響き、人の声など認識できない。全神経を痛苦が侵している。
 教師は、リファスの歪む顔を見詰めてにっこりと微笑んだ。

 血が敷布を思う様穢して行く。
「……っ、ぐ、……ぅ……」
 色気のある声の一つも出せない。
 身体を二つに引き裂かれる様だった。
「……お願いですから、私に君の美しい声を聞かせてください」
 教師の楽器弾き故に皮の固くなった指が唇を辿る。しかし、快楽などと呼べるものは一切齎されておらず、ただリファスは痛みのみに支配されていた。
 教師の舌がそろりと喉を舐め上げる。
 反射でリファスの身体が震えたのを、教師はいいように解釈した。
 だが、やはり大した声が出ない。
「君を奏でることは私には出来ないというのですか。私は……私には……」
 教師の腰が動く。
 締りが良いというよりは子供故にひどく狭い蕾が、雄を食んで目一杯に引き伸ばされていた。
「は、かはぁっ……」
「どうか……お願いです、リファス……」
 はらはらと教師の目から涙が零れる。

 慣らされもせず雄を受け入れさせられた蕾は傷つき、酷い出血を起こしている。
 血の止まっていた身体の傷からも、再び血が流れ出していた。
「ああ……君は素晴らしい名器なのに……何故私に聞かせてくれないのですか……」
 リファスには既に意識と呼べる程の意識はない。
 教師の膝上に向かい合わせに抱き上げられ、上体を支える為縋る様に腕を絡めているものの、腕に力もなかった。
 僅かに動かれるだけでも酷い痛みが駆け抜ける。
 まだ幼いリファスには、この行為の本来の意味もあるべき形も分からない。ただひたすらの恐怖だった。
「ひっ……ぎ……っ……」
 ただ苦痛だけを示すリファスに、教師はまた涙した。
「痛いのですか……? 可哀想に……」
 悲鳴を吸い取ろうとでもするかの様にリファスと唇を合わせる。
「あまり喉に負担をかけてはいけませんよ。君のその神の声を潰しては大変ですから」
 下唇を軽く噛む。
 リファスは無意識にその歯へ舌を伸ばした。
「あ……ひっ……ぁ……」
「そう……美しい音色を聞かせて下さい」
 リファスが微かに洩らした艶めいた声を逃しはせず、教師は喩え様もなく嬉しそうに微笑んだ。
 邪気など微塵も感じない事が却ってそら寒く、恐ろしい印象を与える。どこか壊れてでもいるかの様な……そんな様子だった。

「ん、ん……ぁ……」
 痛みを紛らわせる為にか、教師はリファスの茎を掌で包んだ。
 子供で、まだ精通はないものの、茎に触れられればそれなりの反応は示す。立ち上がっても柔らかだったが、それでも勃起は勃起だ。
「愛らしいですね。君は……本当に……」
「っ、や、せんせ……そこ、や……ぁ……」
 額を教師の肩口にぐりぐりと押し付ける。
 痛みはまだ当然の様に継続されているが、同時に沸き起こる感覚に脳がついて行けない。
「素直な君が何より素晴らしいですよ。何を感じているのか、もっと私に教えてください」
「や……っぁ……めて……や…………」
 何を口走っているのかは理解できていない。ただ、拒絶の言葉だけが繰り返される。
 しかし、それは教師には届かなかった。
「ああ……漸く君の愛らしい声が聞けた」
 艶やかな黒髪をそっと撫で、教師は目を細める。
「もっと……悦んで下さいね」
 沿わせた手と同調させて腰を揺らめかせる。
「ふぁ、あ……ぁ……や、っ……」
 先行していた痛みが僅かに薄れ、その間に別の感覚が入り込んでくる。
 折れた指では教師に強く縋りつく事も出来ず、リファスは身体を仰け反らせた。
 反らせた喉元や胸にぬらりぬらりと教師の舌が這う。

「ねぇ、君は……本当にあのシータに良く似ていますね……」
「あ、ぁひっ……」
「姿も音色も申し分なく……典雅で、優しくて……」
「は、っぁふ……ぁ……」
「あのシータには、ロレットの恋人の骨と髪が使われているのだそうです。姿も、恋人を模したのだとか。……きっと、君の様に美しい人だったのでしょうね……」
「っぁ……や、やぁ……ぃ……せん……い……」
 リファスのほっそりとした腰を両手で支え、思う様に嬲る。教師の膝の上で、リファスは見事に踊っていた。
 振り乱される黒髪は汗ばんだ皓い背や肩に張り付き、子供ながらたいした色香を放っている。
 教師は恍惚としてリファスが与える視覚と感覚に酔っていた。即ち、その艶めかしく歪む顔と、自身を食んで放さない蕾の具合とに。
 未だ流されている治癒の曲に同調する様に動き、リファスから次第に痛みではなく快楽を引き出していった。
 幼く精通のないリファスには、達するという感覚が分からない。しかし、幾度かの気死を迎え、身体を震わせながら教師に倒れこむ瞬間は迎えていた。
 その度に、教師はより喜びに打ち震え、深くリファスを貫き犯すことに腐心した。
 押し開かれながらも治癒していく襞は、次第に慣れ、粗方血も止まっていた。
 吟遊詩人の力というものは、本来からして、民間で有用に活用されるものではない。
 古くより吟遊詩人は諸国を旅するより王侯貴族や富豪の家に抱えられることが多く、そこで主の慰みに演じる他、傭兵代わりとして家を守り、また外敵の侵入に備え、いざという時には捉え拷問にかけたりもする。
 神聖魔法の成り立ちが異端審問に使われた事に似て、伝承歌に基づいた癒しの力や曲による暗示も、本来はそういった事々に使われていた。
 傷つけてそれを癒す。それを繰り返し、更には音で精神を掻き乱す。これで、普通の人間は大体落ちた。
 最近の流行は冒険者として諸国を漫遊することだが、それでも、この教師ほどにもなれば其処此処の分限者に気に入られ、暫く囲われる事も多々あった。 
 リファスに施されている技は、それらを最大限に利用したものでもあった。

「ぁ、ん、ぁ……い……んせ……ぁ、あ!!」
 甲高い悲鳴が上がり、背がぴんと張る。ふるふると全身が震え、暫くして脱力し教師に倒れ掛かる。
「……君が感じてくれて嬉しいですよ。君はやはり、素晴らしい楽器だ……」
「はっ……ぁ……は……っ……」
 汗にまみれた顔を掌で拭ってやり、髪の張り付く額に口付ける。
「…………記憶を消した方が、私は安全なのでしょうね。でも……」
 耳の裏へ唇を寄せ、囁く。
「私の事を忘れないで下さい、リファス…………」
 リファスは意識に乏しく、教師の声は届いていない。
「……忘れないで下さいね…………」
「ん、ぅ……」
 答えを聞く事を恐れる様に、教師はリファスに口付けた。
 慣らされたリファスは無意識にそれに応え舌を伸ばす。
 注ぎ込まれる唾液が、悲鳴と喘ぎに焼け付いていた喉を潤す。
 こくり、と動いた喉を感じて、教師はより強く、リファスの舌を吸い上げた。


 肌寒く目を覚ましたリファスは、自分が何処にいるのかを理解するまでに暫し時間を要した。
 記憶は朧気だが、こんな寒い場所にいた様な気はしない。
 よくよく考えて、ぞくりとした寒気が背筋に走った。
 慌てて周りを見回す。その瞬間、身体に重く鈍い痛みが広がる。
 森の中、だった。見覚えのある森だ。
 それが自分の家のあるアウカ・ラダームに隣接する森だと気がつく事にすら時間が掛かった。
 月はまだ高く、然程の時間ではない様にも思える。
 何故ここに放置されたのか……リファスには全く理解できなかった。
「っ……ぅ……」
 怖かった。気持ちが悪かった。けれど……憎く思う程の感情は抱けなかった。ただ教師の、妬みが歪んだ悲しみが、未だ肌に纏わりついている。
 側の木に寄り掛かりながら立ち上がる。身体の芯は軋んだが、外傷は全てが癒えていた。
「ぅ……」
 耳の奥には、まだ曲が流れていた。
 物悲しく、美しい……。
 リファスは双眸から涙を流しながら、蹌踉めきつつ家路に着いた。

 それからひと月の間、リファスは臥せったまま家から一歩も出られなかった。
 音楽にすら怯え拒絶を示し、家族以外の他人に会うことも出来ず、ただひたすらに心の癒えるのを待つしかなかった。
 しかし、それを癒したのもまた、音楽だった。
 繰り返し、母や姉の歌う伝承歌や子守唄に、リファスは時間をかけながらも自分を取り戻した。

 その間に、教師は学院を去り、その行方は杳として知れない。


作 水鏡透瀏

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