ルシェラを見ていると、忘れようとしても忘れられない自分の原風景に出会ってしまう。

 それは、王都の外れ、貧民街だった。
 都市の盛栄に比例して歪は広がっていく。
 光が強ければ強い程、闇もまた深くなる。
 そう、セファンの栄華の影に、この王子がある様に。

 意識のないルシェラの身体を清め、よく眠れる様に温かくしてやる。
 昔から病人の看護には慣れている。これが性分なのだろう。
 体温を確かめる為触れた額も頬も再び汗でじっとりと濡れていた。
 呼吸が荒いのは熱が高い為だろう。
 男に抱かれる代わりに、命の力と政の安泰を得る。
 与えられた役目を果たす事に精一杯で、ただでさえ弱い身体は瀕死の体だ。
 それでも生活は変わらない。変えられないのだ。

 口の中に苦々しいものが広がった気がして渋面になる。
 この思いはセファンやダグヌのそれとは違い、恋でも愛でもない。
 ただ……守れなかったもの、傷つける事しか出来なかったものへの後悔と懺悔だった。


 妹は、本当に兄思いのいい子だった。
 心根も優しく、本当に良い子だった。
 顔立ちだとて、貧民街の中では群を抜いて愛らしかったと思う。
 だが、環境は全てに於いて恵まれていなかった。
 何度彼女を泣かせた事だろう。
 失って初めて知った悔恨は、今でも鮮明に刻み込まれている。

 妹は娼婦だった。
 貧民街の掟はひどく単純で、貧に甘んじるか、盗るか、売るかしかなかった。
 それでも……。
 妹にだけは楽をさせてやりたかった。貴族並みとは言わないにしても、せめて一般市民と同じ様な暮らしをさせてやりたかった。
 許された三つの選択肢の、その他を選ばせてやりたかった。
 しかし、気づいた時には既に手遅れだった。


 濡らして固く絞った布巾を額に置いても、直ぐに温くなってしまう。
 日々の「仕事」はまだ齢十一になったばかりのルシェラには相当の重荷となっているのだろう。
 聞いた話に拠ればもう五年も続いているとはいえ……否、だからこそか、身体にも心にも重篤な影響を及ぼしている。
 セファンはこれを必要な事とし、改めようとはしない。
 大人の穢れた欲望は子供が受けるべきものではない。子供は子供らしくあることが一番なのだ。

 デュベール公使の一件から数日を経ているものの、心の傷が体調を悪化させていた。
 生気はあの件で潤った筈だが、それを精神的に受け取れないでいる。
 心と身体は不可分なもの。
 この発熱は拒絶反応から来るものなのだろう。
 これだけの生活を続けていながら、生来の病に更なるものを加えていない事は救いであろうか。
 多くの男の相手をしてきているのだ。病の一つや二つ……しかしその点に関してはルシェラは無事だった。


 発疹し、熱を持った身体。
 じっとしているだけでも痛みの疼く陰部。
 苛々した際に手当たり次第に物を投げる為、部屋の中は荒れ放題だった。
 それでもずっと側にいて看病してやりたかったが、それは出来なかった。
 医者にかからせてやりたかった。王都でも高名な医師に。
 その為には、是が非でも働かなくてはならない。
 掏りでも、強盗でも……他人が傷つく事など構わなかった。モノでも、命でも、盗られる方が悪いのだ。間抜けなのだ。
 そのうちに、とうとう依頼で、邪魔者を消す仕事に手を染めた。
 依頼した者は鉄砲玉にでもなればよいと、その程度に考えていた様だったがその時初めて、自分が思うよりずっと上手く立ち回れる事に気がついた。
 誰にも見つからなかった。通りすがりに僅かな針を刺しただけ。入り組んだ王都の路地は全て把握している。走り去り、その後の事は知らない。
 実入りは、考えられる収入の中でも十分に納得の行くものだった。
 銀行や宝飾店を襲うのに次ぐだけはあった。
 そして、それからはその仕事が中心になった。
 もともと裏の顔役にもそれなりに可愛がられていた。仕事は、面白いように転がり込んだ。

 それから、何人殺したかは覚えていない。
 溜め込んだ金を持ち、妹を連れて医師の下を訪れた。
 しかし、門前払いだった。
 金貨の詰まった袋を見せても、中に入れて貰えなかった。
 汚物を見る目で一瞥を受け、どうせ汚い金だろうと罵られた。
 金は金だろうと意気込んでも、無駄だった。
 王都のごみ、そう呼ばれて箒で叩き出された。
 その日の夜、医師宅は火に包まれた。

 翌日、妹は死んだ。

 焼けた屋敷跡から黒焦げの遺体が運び出されるのを眺めた後家に戻ると、部屋は血塗れだった。
 硝子の欠片が妹の手には握られていた。耳の下から斜めに喉元へ、ざっくりと切り裂かれていた。
 遺書などない。文字は書けなかった。
 涙も零れなかった。
 自分の中から、およそ人間らしいという感情の全てが抜け落ちた様な気がした。


 ルシェラには命を絶つ自由もなかった。
 傷は全て塞がる。
 妹の死に様同じ様に部屋中を血に染めた行為は未だ生々しいが、それでもルシェラは生きていた。
 喉を剣で寝台へと縫い止められても……。
 顔が曇る。
 死ねない、それを羨む愚か者もいるだろう。
 特別死にたいとは思わないし、生きなくてはならないとも思う。だが、死んだ方が幾分楽になれるだろうという経験とて幾度でもある。
 妹が死んだ事は大変に悔やまれるが、仕方がないのだと自身に言い聞かせてもいた。死んで妹は解放された。貧しさからも、肉体的な苦しみからも。

 死ぬ事が出来るのなら、ルシェラはこれ程存えてもいないだろう。
 これ程弱りきった身体に加え、死こそが開放であり、喜びなのだと教え込まれている。
 自分の耳までは届いていないが、恐らく命を絶とうとした事もあるだろう。
 死に焦がれながらそれを手にする事が出来ない。人が死ぬ為の手段など、幾らでもあるというのに。
 まだ数日程度しか側にはいない。それでも、痛切に感じる。
 妹の様に、首を切り裂いた程度で死ぬ事が出来るなら……自分も、ダグヌも、これほどに辛い心持にはならなかった筈だ。

 死は逃げだとダグヌは言う。
 だが、何故逃げてはいけないのかと尋ねると、酷く曖昧な答えしか返ってこない。
 逃げたいなら逃げればいい。
 逃げられるのならば……。
 結局行き着く事の出来ないものを焦がれて何の罪があろう。夢の一つも持たずして生きて行くには、ルシェラの環境はあまりに酷だ。

 ダグヌとは悉く意見が対立する。出会った時からずっとそうだ。
 必ず自分が引く事になった。ダグヌは引く事を知らなかったし、自分にはそこまでの主体性はないと思うようにしている。
 だが、自分から見れば幸福極まりないダグヌの思考回路に触れていると、どうしようもなく苛々した。

 ダグヌは、アーサラの地方領主の子息だと聞いている。
 一地方領主とはいえ母は第一王女の乳母でもあり、また並の貴族よりは余程古い家だとも聞いている。
 生まれからしてまるきり違った。
 王宮騎士見習いとなりティーアへと来、家は姉の婿が継ぐらしく、自身の地位も名声もこのままを維持するならたいした問題もなく……。
 ダグヌが一度街へ出れば、その騎士の証である外套や胸当てに羨望と憧憬の眼差しが集まる。
 精悍で見目も良く、人々の想像する「騎士像」というものを見事に体現したダグヌは、自身の目から見ても時折眩しく見えた。
 更には、年に一度の王家主催の武術大会においても、数年連続して優勝さえもしている。
 セファンの覚えもめでたい。
 自身が望みさえすれば、どれ程の栄華も手にする事が出来る筈だった。
 そう、ルシェラに身も心も囚われてさえいなければ。

 それだとて、ルシェラの所為というわけではない。
 誰の所為でもない。
 誰も悪意など持っていない。
 人が不幸になるのに、そんなものは関係ないのだろう。
 誰某の所為でと考えるのは確かに安易な事だろうが、それでは何も解決されない。
 この幼弱な王子は救われない。

 妹を救えなかった、その償いをしたかった。
 妹が死んでから、言葉どおり命を捨てる様にして働いてきた。働くという言葉の印象には程遠い事ばかりだったが、命を捨てようとすればするほど、却ってそれが潔さとなり死に至る事ができなかった。

 セファンと知り合ったのは、丁度そんな生活を送っていた時だった。


 初めは、狩る者と狩られる者だった。
 何処から依頼が来たものかは知らない。恐らく国内の人間ではないだろう。詳しい事は知らされない決まりだった為に推測でしかない。
 稀に市中見回りに出るセファンの命を狙うよう依頼されたのだ。
 セファンの身分は知らされていなかった。ただ、容姿、通りかかる場所とおよその日時だけを知らされた。それが仕事の常だった。
 相手が誰であれ、依頼されて前金を渡されたら殺す。
 失敗したら死ぬだけだ。
 その頃には、失敗が甘美な誘惑となっていた。

 誘惑とはなっていても、これまでしくじった事などなかった。
 セファンの姿を馬車の中に見、衣装を見てただの貴族だと見くびったのが悪かった。
 雑踏に紛れて煙幕を起こす玉をぶつけた。
 その隙に馬車の戸を開けてセファンに忍び寄り、首をよく研いだ短刀で狙う。
 しかし、セファンの警戒の方が僅かに勝っていた。
 瞬時に掴まれた手が捻られ、短刀を取り落とさずにはいられなかった。

 何者を相手にしたのか分からなかった。
 煙幕が失せた頃には完全に客車の中に引き込まれていた。
 外の者には気付かれない。口を塞ぎ腕を捻り上げるセファンの力は絶対だった。
 失敗した。
 従者達が慌ててセファンに様子を尋ねるが、セファンは動じない。
 信じられなかった。
 命を狙われた事くらい分かるだろうに、何故突き出さないのか。
 貴族と貧民。そのまま手打ちにされても仕方がない筈だった。

 名と身分を問われ、睨みながら素直に答えた。
 更には、命を狙った理由もそのまま隠し立てせず述べる。
 どうせ死ぬのだ。何を隠しても仕方がなかった。
 これでやっと妹の下へ逝ける。そう思った。
 けれど…………セファンはその潔さを気に入り、死を許しはしなかった。

「その命貰い受けた」
 その一言で、その後の一生は決められた。
 後悔はない。悔いる程の人生を歩んではいなかった。
 妹の下へはいつでも逝ける。人が生まれる方法はただ一つだというのに、命を絶つにはどの様にも術があるのだ。

 それが十六の歳だった。
 それからというもの、影に徹しセファンの命に従ってきた。
 セファンは何も言わなかったし何も聞かなかったが、素性は直ぐに調べられている筈だった。
 それでも、セファンは自分を手放そうとも手を下そうともしなかった。
 裏街で仕事を請け負うのと大差はない。だが、国家に組するという事が重荷にもなり、また免罪符にもなっていた。
 セファンの施策はそう間違ったものではなかったし、全く足りないにはしても、感じていたよりはずっと貧民に対しても緩やかだった。
 国内に政敵はいないに等しかったが、他国の要人は幾人か傷つけた。殺しもした。
 国にとって有害、なれば、今のこの身には仕方のない事だった。
 セファンは必ず明確かつ明瞭に理由を述べる。そんなお為ごかしはどうでも良かったが、その為に僅かばかり罪悪感が薄らぐのは事実だ。

 セファンの治世は、間違ってはいなかった。
 貴族の反感を買う事は多い様だったが、圧倒的多数を誇る大衆にとっては絶対的かつ神にも等しい王だった。
 偉大なる王。王の中の王。
 それが、セファンの表向きの顔だった。


 再びルシェラの額の濡れ布巾を取り替える。
 光あるところには必ず闇が生じる。
 光が輝けば輝くほど、その裏の闇は深くなる。
 セファンの闇は、全てこの王子一人に集約されていた。

 美しい。
 苦悶する顔すら、何故美しく思えるのか。
 背筋が凍る様だ。
 人ではないもの。
 病に苦しむ顔、死に直面し苦悶する顔、幾度見てもその醜怪な様に侭ならぬ自分に対して吐き気を催すというのに……ルシェラのそれは全く趣を異にしている。
 人ではない。この王子は「人」ではなく「国守」なのだ。
 人としての範囲を超えた存在。その存在が酷く不愉快だった。
 不愉快で……酷く物悲しい。
 人を超えた存在である事を誇るには、この王子はあまりに不幸だった。

 身分ばかりが全てではない。
 血筋ばかりが全てでもない。
 なるほど、ルシェラは確かに飢えを知らない。この堅牢な塔では隙間風に震えた事もないだろう。
 けれど、暖炉は小さく暖を取るには適さないし、暖かい空気は部屋の天井に上がり、遥か上の格子窓から逃げてしまう。窓はあまりに高く、閉ざす事が出来ない作りになっていた。
 「隙間」から風が吹き込む事はなくとも、石造りの壁や床は決して暖かくない。
 乳母が亡くなりダグヌが世話を始めるまでの間、一体どの様にして寒い盆地の冬を耐え忍んできたのか……。
 それを思えば、客の訪れがありがたかった事もあるだろう。
 また、飢えは知らなくとも、美味しい食事や熱々の食事も知らない。
 ルシェラは全ての温もりに飢えていた。
 腹だけの飢えではない。そんなものは、ひどく食の細いルシェラにはさした問題ではなかったろう。
 凍えた身体に冷えた不味い飯。
 懐の暖かい時には、貧民である自分でさえ妹と共に豪華な食事にありついた事もある。
 湯気の立ち昇る濃厚な汁物。まだ油の爆ぜる音のする焼いた肉。香ばしく柔らかい麪包。
 幸せで温かだった、二人きりの食卓。
 ルシェラはそんなささやかなものすら知らない。 
 許された唯一の温もり。
 心の奥底では嫌悪し憎悪していても、それを求めるしかなかったのだろう。

 王族でも恵まれぬ事はある。
 身分があれば、金があれば、そう幾度も考えてきたが、目から鱗が落ちる思いだった。
 美しく、誰もが畏怖し敬愛するであろう特質を持ちながらも一切に恵まれていない。そんな事もありうるのだ。
 神などさして信じてはいないが、こうもルシェラに降りかかる災難を目の当たりにしているとセファンに天罰の一つも下るのではないかとそんな気もしてくる。

 額に置いた布とは別の布を濡らし、頤の下や首筋などを冷やしながら拭ってやる。
 しどけなく解かれた胸元にもそっと布を滑らせた。起こさない様に細心の注意を払う。
 荒い息に乾く唇。
 何をしてやっても足りない。
 医者は一度寄越されたが、投薬の一つもなく帰っていった。
 手の施しようはない。そんな単純な見立てをされただけで終わってしまった。
 あの時、妹を連れて行った医者よりはずっと腕がいい筈だ。セファンは本当に実しか取らない男だ。
 そう思っても、ルシェラにとっては何もかもが不足している。
 ここでこうして側にいてやったところで、額を冷やし続けてやったところで、結局何もしてやっていないのと同じ事だ。

 妹への償いの代わりにしては、余りにも不甲斐なかった。

「……ん…………」
 布の冷たさに身が竦んだのか、ルシェラが僅かに身動ぐ。
 手を引いて様子を窺う。
 うっすらと目が開いた。
「すみません。起こしてしまいましたか」
「……………………いいえ…………」
 微笑もうとする顔が痛々しい。
 余程に混乱している時を除き、微笑み以外の表情をルシェラが見せようとする事はまずなかった。
「お休みください。まだ宵の口です」
 額の布を裏返し、僅かに目にかかる様に置き直す。
 ルシェラと目を合わせるのは厭だった。
 直視できない。
 澄み切った淀み、とでも言えばよいのだろうか。不思議な瞳をしている。
 深遠なる森の奥の泉。泉の水は例えようもなく澄んでいるのに、周りの薄暗い森を映し込んで暗く沈む。また、潜れば底に淀む澱の存在にも気がつくのだろう。
 子供のする目ではない。
 継いだ記憶、それがルシェラに数千年という重く長い星霜を背負わせていた。

「…………ダグヌ……は…………」
「もう少しで来るでしょう。すみませんね。お目覚めの時には、俺ではなくてダグヌの顔をご覧になりたかったでしょうに」
「……いいえ………………」
 やはり微笑む。
 顔面そのものを布で覆い隠してしまいたくなる。
 ルシェラの微笑は痛々しいだけでなく酷く不愉快だった。
 無理をして作るのではなく、それが既に習性になってしまっているのが余計に拍車をかける。

「…………ごめん……なさ…………」
「何を謝るんです」
 声が冷たくなる。
 理由もなく謝られても、受け取り難いどころか不愉快さが嘔吐感の様に迫り上げてきた。
「………………ダグヌの名は…………申さぬべきでした……」
「俺達が会話をするのに、あいつを挟まないわけにも行かないでしょう」
「……ええ……しかし…………」
 身体を起こそうとするが、直ぐに肘が折れて身体を支えられない。ただ、はらりと額から布が落ちた。
「無理はなさらないで下さいよ」
「貴方………………いかがお思いなのです」
 目が覚めるに連れ、僅かずつ声が出る様になってくる。
「いかが、とは?」
「…………貴方とわたくしは……親しい間柄ではありませんが、お互いに、ダグヌの事だけはよく存じ上げている事かと思います」
「殿下が? 貴方が、ダグヌの何をご存知なのです」
 その言葉に、ただでさえ青褪めていたルシェラの顔から更に血の気が引く。呼吸が乱れる。ほんの僅かな気分の変化ですら既に身体が伴わない。
 ルシェラを嬲ったところで何にもならない。だが、不愉快さは僅かながら別のものに掻き消された。
「……言葉が過ぎました」
 形だけは謝る。
 ルシェラは深く頭を垂れ、呼吸を整えていた。

「殿下、お許しを」
「………………わたくしは、ダグヌが大変忍耐強く、職務に忠実で真面目である事を知っています。……貴方は……どの様なダグヌをご存知なのですか?」
 ルシェラの目には批難の色も、受け答えを見出した安堵もない。
 ただ、好奇心の様なものが浮かんでいる。
 珍しいものを見た。
 ルシェラが誰であれ「人」に興味を示すという事を想定していなかった。
「面白くもないやつですよ。あれは。……そこが面白いんですがね。生真面目が過ぎて滑稽だ。殿下のこんな様を目の当たりにしても、人の裏を知らない。知らない振りではなく、本当に分かってない。だから放っておけない」
 何を言っているのだ、自分は。
 だが、ルシェラはただ黙って真面目な顔で聞いている。
「危なっかしいんですよ」
「……分かる気は致します。数年も前にわたくしが……夜伽をお願い致しました時にも、それは……もう、気の毒な程で…………」
 ルシェラはやっとほっとした様な笑みを浮かべた。本日初めての、胸に厭な感じの残らない笑みだ。
 話題がダグヌについてしか探せないのだろう。
 まだ数度しか会ってはいない男、それも、痴態を見せたにも関わらず自分に情欲を抱かぬ相手。傅きはしてもさして敬いもしない。
 ルシェラにとってはたいそう距離感が取り辛いのだろう。
「食っちゃいました?」
「…………?」
 ルシェラには意味が分からず小さく首を傾げる。
 下世話な表現は分からない。
 僅かに困って様子を窺う。言葉や物事に対する好奇心は並ならぬところのあるルシェラは引きそうにない。
「あー……その、殿下の方から積極的にお誘いになったのですか、と」
「……はい。他に、わたくしに捧げられるものがございませんでしたから。もう……どれ程昔の話なのか……分かりかねますが……」
 しかし、懐かしんでいると言うよりどこか悲しげに見える。
「……かの方には、大変申し訳ない事を致しました……」
「喜んだでしょう、ダグヌも」
「いいえ。……大変にお辛そうで…………捧げたつもりが、ダグヌを苦しめてしまったのではないかと……」
「……全く…………馬鹿だな、あいつも……」
 初めて知る事実に思わず舌打ちする。
 ダグヌにとっての永遠の聖女がルシェラの母、シルヴィーナである事は、誰もが知る事実だ。
 生涯手に入れる事の叶わなかった、その類似品を手にして……それで満足すればよいものの、やはり代用品は代用品でしかなかったのだろう。
 ルシェラは結局、誰の「本物」にもなれないのだろうか。

 安易な気休めなど言いたくはなかった。
 ただ、寝台に落ちた濡れ布巾を取り、水の入った桶の縁に掛ける。
「……貴方が悪いのではない。勿論、ダグヌが悪いわけでもありませんが。悪い悪くないで世の中を計ろうとなさるから殿下はお辛いんです」
「わたくしが……悪いのです。陛下は、そう……仰せになります……」
 セファンの言葉は、ルシェラにとって重過ぎる鎖だった。
 この歯噛みしたくなる思いは、やはりルシェラの所為などではあり得なかった。
 やはり影なのだ。
「光がそう言ったからといって、影までそれに従わねばならない義理はない。それでも……影はあくまで光に寄り添ってしか生きてはいけない」
「………………陛下が光、わたくしは影、そう思われますか?」
「ええ。思いますね。ダグヌが光、俺が影である様に」
「貴方が? 光に寄り添ってしか生きられないと……? わたくしから見れば、貴方だって十分に眩しく思えますのに」
 目を細めて目を合わせる。
 演技には思えなかった。
「貴方の立っている場所は、闇が深過ぎる」
「……陛下の放つ光は、この清かな月の光などではなく、力強い昼最中の太陽です。月の齎す光はほら……この様にとても穏やかで優しいというのに……」
 高い窓から微かに差し込む月光が壁を伝い、僅かに部屋の中を照らしている。
 ルシェラの細く白い指先がそれを掬う様に閃いた。
 深海の魚の様に幽玄なそれに、思わず魅入られる。
 洋燈や蝋燭、火輝石で照らし出される範囲は狭く、それ以外の部分には深い闇が淀んでいる。その中を白い魚が悠然と泳いでいた。
 この光景ほどにルシェラが自由であったなら……セファン以外の誰もがもっと安楽な気持ちになれるだろうに。

「……貴方は、それでも……わたくしの様に陽の光を恐れたりはしない……」
「焦がれているものを、恐れたりしないでしょう」
 ルシェラが羨んでいる。こんな下賤の出の者を、国守が羨んでいる。
 浮かぶのは優越感などですらなかった。
 愉悦とは程遠い冷たい感覚が指先から忍び込んで来る。
 ルシェラは闇の中を遊ぶのをやめ、差し向かった男のその冷たい手に気付いたのかそっとその手を掬い取った。
「…………わたくしは、違う。わたくしが焦がれるのは月の光……この青褪めた光にこの身の全てを曝け出してみたいと、そう…………思っても…………この光はあまりに細く頼りない……」
「………………外へ……出てみますか?」
「陛下のお許しもなく?」
「それくらい許されるでしょう。俺が無理に連れ出した、そう仰ればいい。どのみち、そのおみ足で、独力でお外へは出られないのですから」
 手を取り返す。

 そうだ。これは償いなのだ。
 望むだけの光を与える。妹にしてやれなかった事。
 自身の中でも、ルシェラはやはり代用品だった。
 それでも、その自覚がある分まだ他の男達よりは幾分かマシ……その筈だ。

「お連れしましょう。ずっとこの部屋に籠もりきりでは殿下の頭の中はずっと封じられたままだ」
 それでは償いなどならない。
 だが、ルシェラは首を縦に振ろうとはしなかった。
「けれど……陛下がお許しにならない……」
「では、失礼致しますよ」
 ルシェラの身体を掛け布つづいて敷布で包み込み、ふわりと抱き上げる。
「っ、あ……」
「お寒くはありませんね。外は恐らく……ここより幾らか暖かいでしょうから」
「しかし、」
 ルシェラのささやかな抵抗などものともしない。
 どのみち、ルシェラも本気で抗ってなどいなかった。
 ルシェラにとって外は恐ろしい血腥い場所であると同時に、心の奥底から望んでやまない世界でもあった。
「参ります」

「うわぁ…………」
 思わずルシェラの口から感嘆の声が上がった。
 今宵は満月だった。
 高い場所から降り注ぐ清光が全てを明るく照らし出している。
 ルシェラの知らない世界だった。
「美しいこと……」
 青白い光が木立をほの明るく浮かび上がらせている。幹の白い木々はそれだけで幻想的だった。
 記憶の中では血に濡れて黒々としていた地面も、乾いてさらさらとした表面がやはり白い。 確かに宵闇が暗くはあるけれども、覚えていたよりずっと美しい光景だった。
 この前に出たふた月と少し前の記憶も殆ど視界は覆われていた。久々に見た世界は、そうルシェラにとって冷たいものでもない。

 エイルの腕に抱かれたままの体勢から、僅かに身を捩って足先を地面に届かせる。
 皓い素足が砂に触れた。
「……面白い」
 ルシェラはまともに履物を持っていない。足に触れる直接の感触に慣れず、ルシェラは胸をときめかせながらゆっくりと足裏全体を大地に密着させる。
 腕は強くエイルに縋ったままだったが、それでも、大地に立った。
 纏っていた布がはらりと地に落ちる。
 薄い夜着を纏っただけの身体が月の光に洗われた。
「お寒くは?」
「いいえ。とても……心地いい……」
 確かめる様に数度足踏みをしてみせる。
 柄にもなく昂じている。ルシェラにしては珍しかった。
「お身体に触りますよ。あんまりはしゃがないで下さいね」
「はしゃぐ?」
「楽しげに興奮なさる事です。大変結構なことですが、それで発作でも起こされたら困りますから」
「……はい……」
 きっと表情が引き締まる。
 けれど、ルシェラの表情は直ぐに緩んだ。向かい合わせた男の顔が言葉程には厳しくなかったからだろう。
「初めてご覧になりましたか?」
「ええ……。この様な時間にお外へ出るなど……考えられも致しませんでした……」
 周囲を眺めては微笑む。気分が昂じてか、無理が障って熱が上がったのか、目元が月光の元でもそれと分かる程紅潮している。
 身を屈め、地面に落ちた掛け布を拾うと再びルシェラの肩から身体を包んだ。
「まぁ、確実にお身体には触りますからね。ダグヌが許す筈はないし、陛下に至ってはそもそも殿下を籠に閉じ込めておく事しかお考えではない。……けれど、俺はそこまで先の事を考えようとは思いませんから。貴方がそう望み、早くに潰えても構わないと仰せならこうして外へお連れ致しましょう」

 地面へもう一枚落ちていた元は敷布だった布を、足で僅かばかり広げ、その上へそっとルシェラを座らせる。
 横に寄り添い、背を支えてやる。立ったままでは落ち着いて景色も見られまい。
「ありがとうございます」
「いえ。少なくとも、塔の中よりは……地面は暖かいでしょう?」
「ええ…………日ごろ眠る寝台よりも……暖かくて優しいこと……」
 手を伸ばし、いとおしげに地表を撫でる。

「あぁ…………」
 地面に手をつき、天を見上げる。
 月明かり。そして良く晴れた空には無数の星が瞬いている。新月の晩ほどには見えずとも、大きく明るい星は数多見えた。この辺りには空からの光の他、それを阻害するものは何もない。
「空が輝いている……」
「…………塔からでは、ご覧になれませんからね」
「ええ……。あれが、星というものなのでしょう? 夜の空は、月と星の支配するところだと」
「はい。……星だけなら、書庫の窓から見られると思いますが」
「夜に誰がそこへ連れて行ってくださるのです」
 書庫は昼日中にしか行ったことのない場所だ。どのみちルシェラの視力では本など読めない。明確な意図もないのに、特別頼んで連れて行って貰うなど考えた事もない。
「今度お連れしましょう」
「楽しみにしております」
 本当に、嬉しそうに、楽しげにものを言う。
 こんな些細な事でよいのに、誰も今まで配慮する者はなかったのだろう。
 ルシェラの心よりの笑顔は人を幸せにする力を持っている。美しいものを嫌う者などいない。
 それなのに、誰もルシェラの幸せを考えてはやらない。
 ダグヌでさえ……ただ職務に忠実なだけだ。
 笑顔を守ることこそが、代用品であっても、その元となった存在への償いとなるのだろうに。


 何時だっただろう。
 まだ、それほどの悪事には手を染めておらず、工場の下働きや煙突掃除などで日銭を稼いでいた頃。
 まっとうに稼いだ金で、妹に人形を買ってやった事があった。
 妹が物欲しげに見ていた店頭に飾られた立派なものなどは到底買えはしなかったが、それでも心から喜んでくれていた。
 妹は「お兄ちゃんがいるから、私、幸せね」そう言って、抱き締めてくれた。
 抱き締めなくてはならなかったのは自分の方だったのに……。
 何もかもが足りていなくても、本当に満ち足りた時だった。
 優しい子だった。強い子だった。
 守られていたのは、自分だったのかもしれない。


 遠くから蹄の音が聞こえて来、我に返る。
 窺ったルシェラの顔も微かに強張っていた。
「ダグヌが……」
「もう戻らねばなりませんね。俺が叱られましょう」
「いいえ。わたくしも、本当に楽しみました……」
 振り返り笑みを浮かべる。
 しかし直ぐに身体が傾ぎ、支えていた腕の中へと倒れこむ。
「殿下」
「…………本当に、ダグヌに叱られてしまう……」
「叱られているくらいが丁度良いんですよ」
「また……お連れ下さいますか。こんな穏やかな時に……」
「ええ。貴方が命と喜びとを秤に掛けられるなら」
「…………喜びを知りたいのです。肉体に拠らない、より深い喜びを……」
「命に代えても?」
「この命など代えるほどのものでもありません。この程度のものが対価となり得るのなら、わたくしは如何程でも捧げましょう」
 ルシェラの身体をきっちりと包み直す。
 ゆらゆらと揺らしてやっていると、馬が見る間に近づいて来、目前に止まった。

「何をしている!!」
 直ぐ様馬上から飛び降りて駆け寄る。
「遅かったじゃねぇか」
「陛下に呼ばれて……いや、それより、殿下をどうしたのだ。このような夜更けに、外へ連れ出すなど……貴様、正気か!?」
 胸倉を掴もうとし、ルシェラに気が行って直前で手を止める。
「ああ、ちょっと外に出たくなってな。一人でほっとくってわけに行かなかったから一緒に連れ出したんだ」
「貴様……」
 ダグヌが気色ばむ。
 その様子を見て、ルシェラへと目配せして方目を瞑って見せた。
 ルシェラもその意図を理解して苦笑しながら小さく頷く。
「殿下、お身体に障ります。直ぐにお部屋へお連れ致しますから」
「ええ……」
 素直にルシェラはダグヌへと手を伸ばし、ダグヌもそれを確かに受け取って抱き上げた。
 そして、振り返りもせずに塔の中へと消えた。
 ダグヌの肩越しに小さく皓い手が覗き、遊ぶ様に揺らされた。

 そうだ。ダグヌには他に何も出来ない。
 分かっている。
 分かっているのに……。
 胸が焼け付く様に不快だ。
 この感情は何だというのだろう。

 役目大事、それは、勤めを持つ人間としてはあるべき姿だろうし、それを詰ろうとは思わない。
 だが、あまりに頑ななダグヌの態度に酷く苛々する。
 あれほど側に……自分の何倍も長い時間ルシェラの側にいながら何故分からない。
 その実直ゆえの愚鈍さに堪らなく苛つき、またそれ故に放っておけなかった。

 光。
 ダグヌが光、自分が影だと言った、その言葉が反芻される。
 影は光の裏に出来るものだ。だから光から離れられない。なれば、光とて……影の側でなくては、光としての存在もないのではないだろうか。
 だが、影が幾ら眩しげに光を見詰めたところで、光は影を振り返ろうとはしない。
 ルシェラが陽の光を厭う理由が、自分の中にも存在していた。
 ただ、ルシェラの様に避けて通ろうとは思わなかった。
 ルシェラほど、闇に囚われてはいない。

 光を嫌悪しながらも、その強い輝きに憧れる。
 ああ、そうだ。陽の当たる道を歩きたかった。そう思う。
 妹の手を引いて、明るい日向の大通りを歩きたかったのだ。
 ぬかるんだ路地。崩れかけた家々の並ぶ灰色の街、そこから抜け出したかった。
 だから、ルシェラを理解しながらも、ルシェラと同じ様にはならないのだ。
 徹底して光を避けるには、光に惹かれ過ぎている。
 「一対」とはよく言ったものだと思う。自分は確かに、半身を求めていた。

 閉まる塔の扉を見届け、馬の鞍に書き置き一つを貼り付けてその場を去った。
 ダグヌに何を求めているのか明確には分からない。
 分からないし、全ての態度に苛々とさせられる。
 それでも、彼から離れたいとは思わない。
 見届けてやろう、最期まで。ダグヌのことも、セファンのこともだ。
 光がどの様に生き、どの様に散るのか。闇を知る事はあるのか。
 相手を本当に思いやる事が出来るのか。
 「人」というものにこんなに真剣になったのは、本当に妹が死んで以来の事の様な気がする。
 セファンに引きずられただけの生活に僅かな張りが出てきた様にも思う。
 力を継ぐまでルシェラには会わせられなかったし、会ったところで望ましいような心持にもならなかったが、漸くそれだけの意味を見出せた気がする。
 苛立ちも、不快感も、何もかもを堪えてでも、ダグヌ達を見続けていてやろう。
 その不思議な感情が何なのか……よくは分からないながら、何処か心の片隅が温かく……熱くなる。
 そんな胸を抱えながら、王宮を辞して街に繰り出した。

 夜の喧騒の下町は、まだこれからが宵の口だった。


作 水鏡透瀏

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