爆音が轟く。
吹き飛ぶ宮殿の入り口。
ただの人間は一人もいないとはいえ、幾人かが瓦礫に埋まる。
人々の悲鳴、血の匂い、立ち上る噴煙。
神々と守護者達の指示が飛び交う、その中に、ルシェラ達の姿はなかった。
これは宣戦布告だ。
誰もがそう受け取る。
エリフィールナから飛来したものは既に再び飛び去っていたが、その異形の姿は幾人もが目にしていた。
魔獣の類だった、と人々は口にする。
鬱屈した囚人の、その箍が外れたのだ。
神王と同じ程の……否、そもそもを思えば、神王を凌ぐ筈の力を持ってレグアルドに復讐しようとしている。
真実を知らぬものは、皆そう思い、そう覚悟した。
騒ぎを聞きつけ、まず駆けつけた守護者の管理者はサディアだった。
瓦礫に埋まった者達の救出を的確に指示し、人々の話を聞く。
その間に、他の者達も集まり始める。
しかしその中にも、やはりルシェラとラシェルの姿はなかった。
片づけは速やかになされていくし、簡単な補修もされるが、やはり現れない。
昨日の今日では、二人とも動けないのだろう。
「陛下はご無事か」
「こんな所だもん。何の影響もないんじゃないの」
持ち前の力で軽々と崩れた瓦礫を運びながらユーリアは呆れた声を上げる。
こんな表門付近を崩したところで、神王の命には何の影響もない。
いっそのこと、直接神王の心臓でも一突きに狙えばよい。守護者として口に出し辛い事ではあるが、それが本音だ。
「目をこちらに向けさせて、と言う事もある」
「ルシェラは」
「昨日の今日で動けるものか。早朝様子を見に行った時には、午後には、昨日の陛下よりの言葉を守ってレィニ星系へ発つとは言っていたが……」
「ホント、仕方ないわね……」
「ここは頼む。私が様子を見てこよう」
「了解。気をつけてね」
「陛下はおわしますか!? 陛下!」
玉座の間に駆け込む。
神王は微動だにせず玉座に座って足を組み、目を閉じていた。
「…………私が、何処へ行ける」
緩慢に瞼を上げ、サディアを睨む。
眼光はそれ程鋭くはない。ルシェラが絡まなければ、その性質はただの人並みの男だ。
玉座に座るだけで果たされる職務は、その見た目と身体の動きに反比例して激務だ。
神王の責務は、宇宙全域の精霊を見張り、円滑に動かす事にある。
宇宙は精霊が一定に流れて成り立つ。その流れは必ずこの玉座に座る者の中を通過し、宇宙全ての情報を齎して、また通り抜けていく。
その情報を一手に受けて処理をするのが神王の、また月の神の役割である。
精神的な疲労はかなりのものとなった。
王位に就いて暫く立つルシェルトゥーラは職務にも慣れ、それ程の手間を感じなくなってはいるが、それでもなかなかの労働である。
「ご無事ならよいのです。失礼致しました」
「ルシェラはどうした。私の守護者はお前ではない筈だが」
「病が篤く、身動きが取れません。午後までには、動ける様にと尽くしてはおりますが。では」
「状況の説明もなしか」
言われて、さっさと足下に跪く。
ごねてこの場を長引かせるつもりもない。
「それはまだ、調査中です。ご報告を申し上げるには至っておりません。何か魔生物が飛来し、何かを落として、何処かへ飛び去った、ご報告できるのはそれだけです」
「予測は」
「ただの推測を陛下のお耳に入れるわけには参りません。事後の処理が多くございますので、失礼させて頂きます」
一礼して立ち上がり、踵を返したサディアを引き留める。
「サディア。……ゼルファスティアが動いたのだろう。盗み見ているとは、我が弟ながら下賤な事だ」
「この部屋にも、目があるやもしれません。後ほど人を入れて調査したく思いますが」
「知っている。捨て置け。精々足掻かせてやれ。どのみちあれには何も出来まい」
「……畏まりました」
侮りを諫める気にもならない。
気分は、ゼルファスティアを推していた。
神王が自ら窮地に陥ろうというなら、それはそれで構わない。
守護者としての力をどれ程誹られようが、サディアには意味がない。この職は、自ら望んで得たものではない。守護者は皆そうだ。
戦う力と神の力との相性。それに基づき、自身の意志にも家族の想いにも関わらず幼い頃から選別され続けてきた。
仕事の範囲はこなすが、守るべき対象が拒む事までをしてのける程ではない。
「ゼルファスティア殿の確認も取って参ります。私が参りますならば、構いますまい?」
「……ルシェラを行かせてやるがいい」
「ルシェラは動ける様になり次第、レィニ星系へと発ちます。陛下のご命令でございましょう。私も同伴致しますが、これからであれば私は間に合いましょうから」
「悉く……私に反するのだな」
「如何様にも仰せ下さいませ。私は、ものの道理を申し上げているまでの事。まだ、何かございますか?」
「いや……下がるがいい。不愉快だ。……出立前に、ルシェラにはここへ来る様に伝えろ」
「畏まりました」
追い払う様に手を振る神王に、サディアは慇懃に頭を下げて見せた。
入り口へ戻ると、月の神と四大神、その守護者達が集まっていた。ラシェルの姿もある。
「ラシェル、大丈夫か」
「ええ。遅くなって申し訳ありません。ルシェラ閣下の下へ参っておりました」
「そうか……。ルシェラの様子は」
「お身体の方は落ち着きを取り戻していらっしゃいますが……お心は……先程の件で、また……」
顔を伏せるラシェルに頷いてみせる。
「神々には、この場の処理と皆の沈静をお願いしたい。守護者は、空に……私は、ゼルファスティア殿の所へ」
「空に…………。やっぱり、ゼファ様なのかな」
「分からない。だから、確かめに行くのだ。頼むぞ」
「……ルシェラが原因の可能性が高いという事だな」
何を言おうが、月神が口を開くだけで場の空気が重くなる。
月神はルシェラとリファスの保護者の様な心持ちだった。暗鬱にもなる。
「ゼルファスティアも今日までよく堪えたと言う事だろうな。サディア、ここは任せて早く行けよ。お前がいなけりゃ、ルシェラが安定しない」
四大神も軒並みルシェラには好意的だ。
土の神、ルクエルトゥーンは出来るだけ軽い口を利き、サディアの背を軽く押す。
「……貴方がたにも迷惑をかける……」
「ゼルファスティアの所へ行ったとして、何をどう処置できるでしょうか」
思慮深く口を挟むのは、四大神の首座、水の神イルトゥーンである。
清冽で生真面目な事を信条とし、その事は自身の指標であると共にイルトゥーンを知る者全てからも疑いなく思われている。
水がそのまま凝って形になったかの様な透明感のある整った面立ちを誇り、容易く表情を揺らがせる事もない。
その清冽ながら融通の利かない性質は周りの者にも求められ、多少肩が凝るという話も聞かれた。
「…………イルトゥーン……貴方には、ご理解頂けないだろう。我らは揃って……レグアルドを離反するかもしれない」
「なっ……その様な…………ラシェル、お前も、そう考えているのですか」
自分と一対となるラシェルに、縋る視線を向ける。
ラシェルは目を反らし、俯いた。
「イルトゥーン様…………では、貴方はどの様にお考えです」
自分を否定する言葉に、イルトゥーンの顔から血の気が失せる。
唇を噛み、握った拳は震えていた。支える様に肩へ回されるルクエルトゥーンの手を強く振り払う。
「職務を放棄する事がよい事だとは思えません。ルシェラも、きっとその様に考えている筈」
稔侍を崩される事を何より嫌う。イルトゥーンは周りを見回し、自分の意見の正しさを肯定している者を探す。
しかし予想に反して、思う反応を得られない。
背後に立つルクエルトゥーンを振り返ると、苦笑の後に軽く肩を竦められた。
狼狽えるイルトゥーンに、仕方なく言い辛そうにサディアが応じる。
「そのルシェラから、昨日問われた。もし自分が神王に反したら、お前達はどうする、とな。……守護者として選んではならぬ道と、責める者もあるだろう。だが…………罪なき者を捕らえ星の核に封じ、望まぬ者を寝所で痛めつける、身も、心も滅ぼしていく。それが、神王たる者の所行だろうか。首座が堪えるなればこそ、我らも堪えては来たが……」
「だからといって、ゼルファスティアの暴挙を許すのは間違っている」
「では、我らがその力を持ってレグアルドを占拠し、神王の首を刎ねればよいのか」
「神王を廃すれば、それで事は済むでしょう!」
イルトゥーンは激昂し、声は悲鳴に等しかった。
しかし、サディアは眉を顰め、首を横に振る。
「それが出来るならば、とうに事を成している。太陽神の守護者、月神の守護者、そして統制の守護者、この三者が揃わねば宣告できぬ定め。月神の守護者を欠いている今の状態では、それが最も難しい。貴方とて、それはご存じの筈。そして本来なれば……その一事のみにても、我らが行動を起こすには十分な事象たる……」
「……しかし……」
「イル……もう、下がれよ」
ルクエルトゥーンは後ろから腕を回し、イルトゥーンを抱き取る。
少年少女に見える守護者達とは違い、神々は皆、外見上大人である。ルクエルトゥーンは上背はあるが貴公子然とした美丈夫だったし、イルトゥーンも繊細な空気と体躯を持ってはいるものの、やはり上背はある。
双方共に美形でなければ、暑苦しい光景だったろう。
「済まないが、俺達は動かないかもしれない。イルがこれじゃあ……な」
「いや、勿論それで十分だ。戦いは我らの努め。我らの邪魔立てだけはして貰いたくないが」
「それに……お前達をよく思わない者も、神の中にも、守護者の中にもいる。立ち回り方を間違えるなよ」
「ゼルファスティア殿の出方次第だがな」
サディアは出来るだけ軽く肩を竦めて見せた。
「あ、ルシェラ!!」
ファリアがサディアの肩越しに呼び声を上げる。
皆が揃ってその方を向く。
二人の侍女に支えられながら、ルシェラはなんとか皆の下へ辿り着いた。
侍女の手を振り払った拍子に蹌踉めき、リファトゥーに支えられる。
「……すみません……」
「無理はするな」
「ええ……」
色のない唇が震えている。
「サディア……報告を……」
「どこからか魔生物が飛来し、爆発物をこの太陽神殿へ落としてまた何処かへ去っていった。その他は、現在調査中だ。この場は私達に任せ、お前は休んでいろ」
「…………いいえ」
リファトゥーの手に縋りながら、ルシェラは何とか背を立たせる。
場にいる一人一人の顔を見回し、思い切って口を開く。
「ラシェル以下、守護者の主幹全員と任意の者数名にて……エリフィールナを包囲。ゼルファスティアを捕らえ、陛下の御前へ。陛下に……裁定をお任せする様に。わたくしとサディアは……昨日の陛下の命により、レィニ星系へ発ちます。……神々はこの場の収拾と、守護者で力の足りぬ場合に、陛下をお守り申し上げる様……お願い致します」
無意識なのだろう。だが、ルシェラの言葉は、如何様にも受け取る事が出来た。
皆それぞれに顔を見合わせ、ルシェラの真意を探る。
「まだゼルファスティア殿と決まったわけではないぞ」
「空全域を監視する目は幾つも備えてある。……それをかいくぐって……魔生物を届ける力を持つものは他にない。エリフィールナに住む魔生物の力を借りれば……ゼルファスティアが結界の外にまで出る事は、容易でないにせよ……不可能ではない。ひとまず……捕らえた後、ラシェルに尋問を任せます。その後、陛下の下へ……」
ルシェラはもう限界なのだ。
場の収拾以外の何をも考えてはいない。
だが、命を受けた者達の脳裏では様々に想いと計略が巡る。
「……それが間違いだったら?」
思わず、ユーリアが尋ねる。
ルシェラは悲しげに顔を曇らせた。
「…………深くお詫びを…………わたくしの命令だという事を申し上げ、よくお詫びを申し上げて下さい。わたくしが、伺えない事を、平にご容赦頂く様…………。その後ラシェルを主として……改めて……探索をお願い致します……」
「お前はどうする」
不穏な気配を感じ、サディアは確かめる。
ルシェラは蒼褪めた顔で微笑み……暫く躊躇っていたが逡巡の後に口を開いた。
「…………わたくしは………………決意を固めました。もっと早くこうするべきなのは、分かっていたのですけれど………………望みを……捨てたくなかった…………」
美しい微笑だった。
修復の喧噪の中にありながら、しんと空気が静まり透き通った心持ちになる。
「共に生きたかった。共に過ごしたかった。けれど…………これ以上の無駄な望みは止めましょう。貴方がたにもご迷惑ばかりをおかけして……レグアルドにも、こうして害が及ぶ様では…………許されぬ事でしょう」
大きいものではないのに、静かな声音が心の奥底にまで重く、深く響く。
「わたくしの身に科せられた分というものを、今日まで深く思い極めては参りましたけれど…………わたくしが堪える事はまだ出来る事ではあります。しかし……このままでは、更なる奇禍がこの太陽神殿を襲うであろう事は必定です……わたくしに、それが何より堪えられない」
しかし、静寂は直ぐに打ち破られた。
「やだ…………厭だ厭だ厭だ厭だっっっ!!!!」
「ファリア!!」
ルシェラの細い身体が、飛びついてきたファリアの衝動に負けて頽れる。咄嗟にリファトゥーが支えたが、それも勢いに負けて揃って倒れる。
「っ……」
ルシェラの顔が顰められる。胸に痛みが走っていた。
「ファリア、離れなさい。閣下になんと言う事を……」
ラシェルが引き離そうとするが離れない。
「駄目だよ、ルシェラ! 何の為に今日まで頑張ってきたんだよ。何の為に、今までもの凄く辛い思いまでして……それでも、堪えてきたんだよ……また、一緒に生きていくんだろ? だから、俺達だって……」
それ以上言葉にならない。
溢れる涙に任せ、強くルシェラを抱き締める。
「やだよ、ルシェラ…………」
ずっと鼻を啜るファリアの背を軽く抱き返し、ゆっくりと撫でる。
「……………………ごめんなさい……ファリア…………これまで、貴方にも多くのご迷惑をおかけして……甘えて参りました。その事は、平にご容赦頂きたく思います…………」
やんわりと、けれども抗いがたい力でファリアの腕を解く。
その手を包む。
「わたくしの跡を継ぐ守護者が直ぐに見つかります。それまで……貴方がたがこのレグアルドを守って下さい……」
「やだよぅ…………」
酷い顔だ。外面を取り繕う事もないファリアの様子は、この様に思う様泣く事の出来ないこの座の皆の心を雄弁に物語っていた。
頬を合わせる。
そして、包んでいた手をラシェルへと引き渡した。
「…………ラシェル、頼みます」
「……はい」
ファリアを今度こそ腕ずくで引き離す。
堪えきれないと言わんばかりにわっと泣き出し、ファリアは強く強くラシェルに縋り付いた。
ルシェラは下敷きになっていたリファトゥーの手を借り、再び辛うじて立ち上がる。
「……では……指示通りに」
「畏まりました」
「ルシェラ!」
ルクエルトゥーンがその前に跪き、手を取る。
その甲に贈られる口づけに、ルシェラは目を細める。
「…………皆の幸運を祈ります」
「魂も……残さず逝くのか」
「……そうでなくては、意味がない……。希望を持ち続ける事は大変美しい事ですが、そればかりでは仕方のない事もある……貴方になら、それも分かるでしょう?」
手を引き、ルクエルトゥーンから僅かに離れる。
ルクエルトゥーンはそれを感じて立ち上がり、再びイルトゥーンの側へ寄った。
「では、ご機嫌よう。サディア、頼みます」
サディアへ手を伸ばす。
それを受け取られ、リファトゥーからも離れた。
「ラシェル、後は頼む。ルシェラの申した事を踏まえ、後はお前の裁量に任せる。いいな」
「……畏まりました」
「貴女には、何より申し訳のない事……」
「気にするな。遅かれ早かれ……予測していた事だ」
部屋まで送り届け、寝台に並んで座る。
ルシェラはサディアに凭り掛かり、サディアはその甘えを許した。
「最期の仕事は成し遂げます。その帰りに」
「そうか……」
「せめてあの方のいる星を見ながら死にたい。帰り道、かの星の見える場所で……貴女の手でわたくしの命を絶って下さい。守護者の剣で……。自殺が出来ないのは申し訳のない事ですが」
「……任せておけ。これ以上、お前に無理をさせたくはない。お前が決意したのなら……私は止められる立場にはない」
寄り添うルシェラの髪を撫でる。
名残惜しい。
「レィニ星系第二銀河だったな。……片道三日か。現地で半日…………別れの時まで、あと五日。私までエリフィールナへ行けと命じられるのでないかと案じたぞ」
「…………貴女にしか、頼めない事でしょう……?」
「そのお陰で、お前が最期に見るのが私の姿だという事は……喜ぶべきなのか。他の誰でも……リファスですらなく…………」
サディアはルシェラを抱き寄せる。
細く白い、少女の腕だ。微かに震えている。
「…………ルシェラ。…………口づけても……構わないだろうか……」
間近で見ると、顔には未だ微かな火傷の跡が残っていた。神王の特殊な力で傷つけられた為に、完全に癒えるまでには至らなかったのだろう。
そのいつもと少しばかり違って見える顔立ちに、口付けたい。
「……貴女が触れるには忍びません……」
「何がだ……」
頬を合わせる。
「最期に身体を触れ合わせた相手が神王や攻略先の男では……死にきれなくはないか?」
「サディア、貴女は…………」
合わせた頬が濡れている。
サディアの求めが、心にすとんと落ちた。
サディアの頬に唇で触れる。
「……これでは逆だな」
だが、サディアは笑みを抑えられない。触れられた所から苦しい程の熱が広がっていく。
「…………わたくしで……よいのですか?」
「女にこんな事を言わせておいて……」
「しかし、貴女は……わたくしではなく……」
「お前以外の何を、私が求めるというのだ」
頬から耳、首筋に至るまで紅く染まっている。潤んだ瞳が真っ直ぐにルシェラを見る。
ルシェラはその、いかにも女らしい姿に愕然とする。
サディアに思い人がいる事は分かっていた。ただ、それが自分だとは知らなかった。
自分が女性にとって恋愛の対象になるなどとは考えた事もなかったし、物心付いた頃からリファスの事しか考えられなかったとあっては、男女問わず色恋の相手として見た事などなかった。
サディアが親身になり、全て自分によい様に計らってくれるのは、幼い頃から共に育った友人であると言う事、そして、リファスの事を想っているからだと、思い込んでいた。
「最期だからな。悔いは残したくない。済まない、こんな事を……本当の最期まで……取っておくべきだったか」
「いいえ。…………何時知ったところで、恐らく、わたくし達は……変わる事など出来ないでしょう?」
「…………分かっているさ」
もう一度、ルシェラの唇がサディアに触れる。
「鏡を見れば、確かに男の身体が映る。けれど……その様に扱われる事などなかった。貴女は……そんなわたくしを男として見て下さっていたのですね」
「リファスなどより、余程男らしいぞ、今のお前は」
「あの方は……臆病だったのです……だから、陛下に付け込まれた」
「お前に愛されても、信じられないさ。誰も」
「わたくしは……特別などではない」
「…………ああ…………だから、私はお前を好きになったんだ」
透き通る光の様な笑顔だった。
心の痞えが取れたのだろう。普段の冷然とした表情が一変し、サディアが本来持っていた少女の部分が顔を覗かせている。
それを、心の底から愛らしいと思う。
サディアの頬へ手で包む様に触れる。
「まだ……五日あります」
「ああ……。二人きりで、過ごせる時間が未だ残されているな」
「申し訳ないのですが、今のわたくしには、貴女を満足させる事は出来ないでしょう」
「無理をさせるつもりはない。ただ……口づけたかっただけだから」
そっと、唇が触れ合う。
それは決して深いものにはならず、しかし、離れ難く暫くそのままだった。
ルシェラは、その知らぬ柔らかで甘やかな感触に驚く。これまでに触れたどの唇より、柔らかく、小さい。
初めて知る女の唇だ。その感触に酔う。
「言っておくがな、」
唇が離れる。サディアは頬を染めて俯いた。
「…………初めてだったんだからな」
「ええ。……とても、優しくて温かい…………」
思い出した感触があった。けれども、それをこの場で口に出来よう筈もない。
「……支度をしなくてはなりませんね」
誤魔化しに口にされた一言に、サディアの表情が改まる。
「出立前に一度顔を見せる様にとの事だ」
主語など省いても十分分かる。
ルシェラは眉一筋動かす事もなく頷いた。
「陛下の下へ……行って下さったのですね……」
「厭でも仕方がないだろう。仕事だ」
「…………わたくしの役目を代わって頂き、申し訳のない事でした……」
「行けそうか?」
「…………参らねば、なりません…………今の口づけで、少し楽になりました。ありがとう……」
サディアの頬に触れる。
指先から伝わる感覚が、最も愛おしいものと酷似している。
もう一度、唇で触れる。
サディアを穢している。
サディアを苦しめている。
微笑んでくれるサディアに対する罪悪感がルシェラの顔を曇らせていた。
「私では……厭かもしれないが」
「その様な事…………貴女がわたくしの、最初で最期の女性となるであろう事が、何を置いても大変に嬉しく思いますのに」
取り繕った笑顔がもの悲しい。
しかしサディアは、その空々しさを感じながらも微笑みを崩そうとしなかった。
深く考えるのは怖い。分かっていることを、改めて知りたくはない。
ルシェラの心の比率の大半はリファスで占められている。何故自分ではならないのかなど、考えても始まらない。
好きは、好きなのだ。ルシェラがそう思ってくれている事は分かっている。
それでこれまで、自身に全てを納得させてきた。
最期で、その箍が緩んだのだろう。
「………………支度が調うまで、少し間がある。お前は未だ休んでいろ。私がしてくる」
「……ええ……お任せ致します……」
サディアは身を引き、立ち上がった。
身なりを軽く調え、部屋を出て行く。その背を見送って、ルシェラは小さく手を振った。
「……守護者、ルシェラ……出立の、ご挨拶に……罷り越しました……」
挨拶をするにも、一々呼吸が途切れる。
玉座の間に続く扉に控える兵士達に身体を支えられ、神王の前に跪いた。
サディアにばかり手を煩わせるわけにも行かない。
安静に、優しいものに囲まれていればまだしも、この場へ訪れるにはまだルシェラの調子は万全ではなかった。
「遅いな。大事が起こったのだ。お前は私の守護者ではなかったか?」
神王は意地の悪い視線を向ける。
ルシェラは跪いて顔を伏せたまま、荒く肩を上下させていた。
軽く手が振られ、兵士達は退室していく。神王の傍らに幾人か控えている、神王の用事の際に玉座を代わる役目の者達も、遠ざけられた。
「……その様で、果たせるのか?」
「…………往き道に……三日かかります……それまでには…………」
「ここへ参れ」
足先が床を叩いて指し示す。
ルシェラは膝を進め、躙り寄った。
足が間近に迫る程に近づく。神王が何を求めているのか、厭でもルシェラには知れていた。
腕で身体を支えながら、僅かに突き出す様にされた神王の股間へと顔を寄せ、舌先を伸ばす。
「心得たものだな」
「……今のわたくしには、これ程しかお望みにはなられますまい……」
神王は僅かに身を乗り出し、ルシェラの頤を掴んで顔を向けさせた。
「先程の事は、どの様に指示をしている」
「……わたくしと……サディアを除く守護者達に、エリフィールナを包囲の上……ゼルファスティアを捕らえ、陛下の御許へ……と…………陛下の、ご裁量に……お任せ致します……」
「あれの仕業だと?」
「……空の目をかいくぐり……こちらへ危害を及ぼす……となれば……。調べて間違いならば……また、他を……探すだけの事……」
苦しい息を繰り返しながら、ルシェラは真っ直ぐに神王を見る。
その瞳の奥の澱みに裏を探るが、何も掴み取れず、神王は不愉快さを顕わにする。
「……何を画策している」
「……何……と……仰せられても……」
ルシェラは困惑を隠せない。ルシェラにはただ、職務を全うする事しかなかった。
分からない素振りを続けるルシェラの髪を引き掴み、神王は近く顔を付き合わせる。
「流石よな。そうか……ここへゼルファスティアを入れて、私の息の根でも止めようとするか」
「……なに、を……」
無理な体勢に息が詰まる。
ひゅうひゅうと厭な音が聞こえ始めていた。
「ゼルファスティアが今のお前の心の支えであろう。お前が甘えて見せれば、あれは動く」
下衆の勘ぐりに、ルシェラの眉が顰められる。
何を言っても無駄だ。この男の馬鹿馬鹿しい物言いに付き合ってはいられない。
「逃げたいのだろう、私から。……いいだろう、壊してやる。リファス共々な」
その言葉に、ルシェラの表情が変わる。
その変化に、神王は息を呑み、驚いた。
微笑んでいる。
嬉しげに。楽しげに。安堵にも満ちている。
神王に対してなど、ついぞ見せなかった美しい微笑みに目を見張る。
「ルシェラ………………何を笑っている」
「…………そうなれば、わたくしも……未練なく逝ける………………」
躊躇いが完全に失せるだけの事。
ルシェラにとって、その様な事は最早問題にもならない。
「……諦めたというのか、今更」
打ち捨てる様に掴んでいた髪から手を離す。
ルシェラはそのまま重力に負けて倒れ伏し、やっと貪った空気に噎せて咳を繰り返す。
その余りに弱々しい姿に、神王は苛立ちを抑えられない。
「………………もういい。行け」
「…………ご奉仕……は……」
床に伏せながら、虚ろな感のある視線を神王へと向ける。
「気が萎えた。…………戻った後、覚えておれ。精々楽しんでくるがいい」
「…………畏まりました…………」
その後、神王の手が鳴らされ、兵士達が戻ってくる。
ルシェラは抱き上げられ、神王の前を辞した。
再び自室へと送り届けられ、ルシェラは枕に顔を埋める様にして横たわった。
仰向けになるには、少し呼吸が苦しい。
だが、苦しいながら、ルシェラは笑いを抑えられなかった。洩れる低い笑い声が、枕に吸われていく。
あの男の顔を見るのも、先程の会見が最期だ。
そう思えば、身体の苦しみも薄らいだ気分になる。
もうあの厭な手に触られる事もない。
厭な目つきで視姦される事もない。
こうと決めねば得られなかった自由だ。不愉快だが、それ以上に軽い。
自由。
そう、自由なのだ。
なかなか選び得る手段ではなかった。
リファスかサディアの手に依らねば、自殺も出来ない。それを頼むには、自傷するより更なる覚悟が必要だったし、それを納得して貰うだけの理由も必要だった。
魂ごと砕かねば、魂の持つ寿命の時まで繰り返し、肉体という器を変えてまた生まれ出でなければならない。
魂を砕く手段は数少ない。
太陽神の守護者、月神の守護者、統制の守護者、この三者のみが扱える剣で貫くか首を刎ねる。
または、星の終焉に殉じる。
太陽神が歴代受け継ぐ秘術を行う。
運命の神が手を下す。
ルシェラに自分の意志で選ぶ事が出来るのは、その内の守護者の剣による方法のみだ。
思い通りになる事など殆どない、その生の中で、数少ないルシェラにとっての自由だった。
ただ穏やかに、静かに、二人で暮らしたかった。
それが自分にとっての何よりの自由であり幸福であると信じていたし、今でもその思いに変わりはない。
しかし最早それは夢物語でしかない。
笑いが次第に涙へ変わる。
二人で、睦み合って、優しく、穏やかな時間を過ごしていきたかった。リファスとならば、そうして魂が潰えるその時まで、幸せに生きていける、そう思った。
叶わない、果てしのない夢だとは、今でも思いたくない。
思いたくないが、望み続けるには遙か遠い。
生きていたかった。共に暮らしたかった。
もう一度、その顔を見たかった。もう一度、触れたかった。
要望は幾らでも湧いてくる。だが、それが叶う事は、ない。
精神状態で簡単に体調は変化する。
酷く脈が乱れていた。動悸が激しく、そのままじっとただ堪える。
指先一つ動かすだけで、心臓が破裂しそうだ。
痛みはない。暫くじっとしていればそのうち落ち着くだろうとは思うが、呼吸も儘ならず薄い胸が早く上下していた。
死ねば、こんな苦しみからも解放される。
死は自由への翼。
顔が歪む。苦しみの内のその表情は、笑みにも、泣き顔にも見えた。
「ルシェラ、戻っているのか」
ただ落ち着くのを待つ、そのうちに扉の向こうからサディアの声がする。
だが、未だ答えられない。動けない。
「っ…………は…………」
視線だけを扉へ向ける。
「さ……」
発しようとした声は苦しい呼吸に紛れてしまう。
「……ルシェラ?」
扉がそっと開く。
「さ……ぁ…………」
「ルシェラ!!」
駆け寄ってくれる。
直ぐに取られた手から、強い生命力が送り込まれた。血に乗せ巡る力が、乱れていた気の流れを整えていく。
「はっ……ぁ……は…………」
「神王に何か」
「……ぃ……え…………」
やっと僅かに動く事が出来るようになる。
微かに首を横に振る。
「……か……んがえごと……を…………」
「支度は整ったが……少し時を待った方がいいか?」
「いいえ………………早く…………楽に……なりたい……」
サディアの手を弱々しく握り返す。
「今の発作が落ち着くまで、せめて待とう」
「…………はぃ……」
「薬は」
「…………いい……え…………もう……落ち着いて、参りました……」
限りなく命の力が弱まっている。サディアの手がそれを埋め、繋いで行く。
最早不要の事だとは思うが、それでも僅かでも苦しみが薄らぐ事に安堵する。
暫く手を繋いでいるうちに、発作も収まりを見せる。
まだ身体を起こす事は出来なかったが、表情は和らいでいた。
そのうちに、扉が誰かに叩かれる。
「どなたか」
ルシェラの代わりにサディアが問う。
「土の神ルクエルトゥーン。ルシェラ殿にお会いしたい」
ルシェラと視線を合わせる。ルシェラは、小さく頷いた。
「どうぞ」
扉が開く。
精悍な男が顔を覗かせた。
「ルクエルトゥーン、先の命は完遂されたか?」
「いや……イルが何とかしているだろう。最期に、どうしてもルシェラに会いたくてな。サディア、席を外して貰えないか」
「……無体は強いないで欲しい。発作を起こしたばかりで、不安定になっている」
「……信用がないな。俺だって、そればかりではないさ」
ルシェラを庇う様に立つサディアに、肩を竦めてみせる。
ルクエルトゥーンはその凛々しくも品のある姿から女が放っては置かず、常に何かしらの噂のある人物でもあった。
親しくすればそれがただの噂である事はよく分かる程、根の真面目な男ではあったが、弁舌も軽妙で当人もその噂をある種楽しんでいる節もある為に、噂は止まる事がなかった。
ただ、火のないところに煙は立たない。女が一方的に流した噂もあれば、ルクエルトゥーン自身がそれなりに大人として遊んだ結果もあった。
ルシェラともそんな噂が立っている事をサディアは知っていた。それが、ただの噂ではない事も。
「ルシェラ……よいか?」
「ええ……何かあれば、直ぐに……ルクエルが貴女を呼ぶでしょう」
「……分かった」
もう一度、少し強めに手を握り、サディアはルシェラから離れた。
「一時間後に出発する。それまでに、体調を悪化させる事のないように」
「ええ……」
「分かっているさ」
サディアが去った、その寝台の端にルクエルトゥーンは腰掛けた。サディアが座っていた時より更に、寝台が深く沈む。
指が軽くルシェラの額を撫で、僅かに掛かっていた細い髪を払う。
ただ、見詰め合う。その間には静謐な気配だけが漂い、僅かな情さえ浮かんではいない。
そのうちに、ルシェラの目がつと細められた。
「…………イルトゥーンにも、申し訳なかったと……伝えられればよかったのですが……」
「あいつは何も知らない。俺達も、教えるつもりもない。済まないが、伝える事も出来ないな」
「ええ…………」
力ない手が伸ばされる。それを取り、その甲へとルクエルトゥーンの唇が押し当てられる。
「これが、最期か」
「…………イルトゥーンと、お幸せに」
「出来るものならな」
「そう出来ていれば……わたくしと、この様な事にも……なりませんでしたものね」
「なっていたかも、知れない。お前が求めたなら例えイルがいても……俺は応じたかも知れない」
「っ…………ん……」
唇が重なる。
深く求められ、それに応じる。互いに技巧を凝らし、ただ相手に対する礼を尽くす。
絡み合う舌が互いの口内を弄り、甘露を啜りあう。
「……ん、ぁ……」
合わせられる男の唇。
冷たくはなく、だが愛情に満ちあふれたものでもない、感情を委ねなくともよい口づけに快い安堵を覚える。
ただ感覚に任せ、角度を変える度に立つ濡れた音に耳からも犯され、ルシェラはルクエルトゥーンに委ねる。
絡め取った舌を吸われ、吸い上げ、口蓋の裏を舌で辿る。辿られる。
楽だった。ルシェラが望むのは、ただそれしきの事だ。
これを与えてくれるのならば、ゼルファスティアを傷つける事もなかっただろうに。
いい男だ、そう思う。保たれた距離は、ルシェラにとって最も心地よいものだ。
どちらともなく唇が離れる。
濡れて糸を引くそこを拭う事もなく、ルシェラはルクエルトゥーンの耳元に顔を寄せ、耳朶を軽く食んだ。
「……ふ…………」
「抱いて頂くには……時間がありませんね」
「収まりがつくのか、お前の身体は」
「……はっきり仰有います事」
「お前を娼婦と同じには思っていない。だが……こんな物言いの方が、お互い楽だろう」
ルクエルトゥーン以外の者が言ったなら、それは酷い蔑みだったろう。
だが、言葉の内容に対して、言い方も声音もいたく神妙だった。
「申し訳ありませんけれど………………」
「構わない。俺が欲しいのは、そんなものじゃない」
「わたくしが欲するのも…………そんなものでは……ない……」
よい友人だった。
友人としての一線を越えたとは思っていない。例え身体を繋いでも、ただそれだけの事象で変わる様な関係でもなかった。
抱き合う様な形だったところから、少し離れ、再び顔を付き合わせる。
「しかし、まぁ…………出先のしがない男がお前の最期の相手か。俺が務めたかったな、その役は」
「そうとも……限りませんよ」
楽しげに含み笑いを見せる。
ルクエルトゥーンは訝しげに首を傾げた。ルシェラのこれからを一つ一つ脳裏に巡らせ、漸くに一人に思い至る。
しかしそれは想定外のもので、ルクエルトゥーンは切れ長の涼しげな目を丸くした。
「…………ひょっとして、サディアか?」
「……わたくしも……男ですからねぇ」
微笑みで応じる。
男友達をからかう顔で、ルクエルトゥーンはにやりと笑った。
「やるじゃないか。あんないい女もそうはいない」
「ええ、そう……思います」
「残念だが、譲るとするか。それで…………何時だ」
人好きのする笑顔から一転、表情が引き締まる。
ルシェラは笑みを崩さなかった。
「……五日後程……だと思います」
「そうか…………多幸を祈る、と言うのもおかしいか。せめて最期に……」
ルシェラはルクエルトゥーンの唇に指を当てて、言葉の続きを止めた。
微笑んだまま、寂しげに首を横に振る。
ルクエルトゥーンもそれに応じ、言葉を飲み込む。
代わりに、唇に当てられた華奢な指先を舌で捉え、軽く噛んだ。
ルシェラの身体が僅かに震える。
「お前の姿を、この目に焼き付けておきたい。いい……友人だった」
「わたくしも…………貴方はとてもいい友人でした。わたくしに接する男の全てが…………貴方の様であれば、わたくしは……どんなに楽だったでしょう……」
「希少価値があるから、俺はとびきりいい男なんだよ」
片目を瞑ってみせる。
「そう、ですね」
二人揃えて笑う。
ルシェラの腕が伸び、ルクエルの肩に置かれる。
そこから頭を抱く様に引き寄せられる。
時間がないと言ったのはルシェラの方だ。だが、拒むには至らない。
双方の協力のもとで急いだなら、三十分もあれば事は足りる。
「抱かれるだけなら、大丈夫か?」
「ええ。ご心配なく。…………ついでに、女の抱き方でも教えて頂きたいものですが」
「変わりなどない。お前のここに入れるよりは、支度が少なくて済む」
ルクエルの手がルシェラの背へ回され、撫で降りて双丘の丸みに這う。
「十分に濡らしてやれば、何とかなるさ」
ルシェラはするりと纏っていた衣類を脱ぎ落とした。
痩せた上体が露わになる。
ルクエルトゥーンは僅かの間跡が残る程の強さでルシェラの首筋に歯を立てた。
ルシェラの口の端に笑みが上り、頤を仰け反らせる。喉元が眩しい程に皓い。
唇に男の指が這い、ルシェラはそれを舌先で捉えてよく唾液を絡めた。
口腔内を弄る指が煽ってくれる。
口蓋を辿られると、それだけで背筋が震えた。
何を考える事もない、自身にも外面にも関わりのない身体の繋がりは、ルシェラにとって至上の安楽だった。
想いは互いではなく、同じ程の強さで他方へと向けられている。
慰め合う、与え合う。
その距離感が心地いい。
「ぁっ……」
唾液に濡れた指が直接に花蕾を開く。
ルクエルトゥーンの上着の肩に、爪で掻いた薄い痕跡が残る。
「んっ……」
勝手知ったる指が思う様に嬲る。
男の大腿に膝で乗り、撓る身体が淫らに踊る。
ルクエルトゥーンの頭を掻き抱く様に、ルシェラは腕を回して縋る。
「ふ、ぁあ……ん」
声を抑える事もない。
「ルク……はやく…………来て……」
「もう少し、な」
「いや!……もう……もっと……」
この身体を抉る指がもっと太くなる。熱くなる。硬くなる。
その妄想がルシェラを昂ぶらせていく。
茎から溢れる蜜が伝い、ルクエルトゥーンの指までしとどに濡らす。
「痛いぞ」
「……構わない……」
「……っぅ……」
見下ろす唇に齧り付く。軽く歯を立てて思う様舌を吸う。
ルシェラの激しい口づけに、ルクエルトゥーンは翻弄される。
経験値が絶対的に違っていた。
誘う言葉に荒く熱い息。潤みながらも挑発的な視線に、男の性が抑えの効かない昂ぶりを覚えていた。
求められるまま、性急に下履きの前を寛げ、ある程度整った状態の自身を晒す。
空かさず細い指がそれへ絡んだ。巧みな手淫で硬度を増していく。
濡れた唇をちろりと紅い舌で舐め取り、ルシェラは完全に相手を呑む程の婉然とした笑みを浮かべる。
「下さい。……身支度の時間も必要ですし……後……二十分程しかない…………」
「…………いいぜ。やるよ」
強がりはしても、ルクエルトゥーンの方が既に耐えられなくなっている。
導かれ、ルシェラは肉の剣の上へと腰を下ろす。
「ん、ぁ、ああ……」
深く、身体を串刺しにされる心象がルシェラの身体を震わせる。
引き裂かれる感覚が、ルシェラには今ひとつ区別の付かない恐怖と快楽を入り乱れさせる。
「あ……あは……っ」
腰を支える様にルクエルトゥーンの手が回される。
手と腕の力だけでも支えられる程、ルシェラは軽い。
「んふ……っ……ぅ……」
声や反応を隠そうともしない。
淫蕩で、凄艶。
その穢れきった、穢れのない、美しい姿に目眩を覚える。
白く、清い。
黒く、醜い。
相反する筈の二つが、絡み合い、別れる事なくルシェラを作り上げている。
快楽に沈む醜い表情が、ルシェラの美しさを更なるものにしている。
「あ、ぁあ、んっ……」
ルクエルトゥーンの頭を掻き抱く。
形の良い爪が滑り、ルクエルトゥーンの首筋に薄紅い筋を引いた。
僅かに身を屈め、その印へ口付ける。
「く、っ……」
ルクエルトゥーンが震える。
先を細めた舌が男のたくましい首筋を舐め上げた。
程よいところを見つけたのか、軽く歯が当てられる。
少しずつ場所を変えながら、歯形が残される。
蕾が食んだ茎が、質量を増す。
「ん、ぅふ……は……っ……」
「っ、る、ルシェラ……っ……」
首筋に痛みが走る。
どくりと脈が波打ったのが分かる。血液の流れを感じた。
脈に合わせて痛みが起こっている。
「く、ぅ……っ……」
ルクエルトゥーンにそういった趣味はない。
硬度を失い掛けたものへ無意識にルシェラの蕾の奥が絡み、いきり勃たせようとしてか蠢く。
「ぐっ、ぅ」
食い千切られた。その感触が伝わる。
痛みに顔を歪めるが、しかし、ルクエルトゥーンはただ堪えてルシェラを引き離そうとはしなかった。
「はっ……く、っそ…………ルシェラ、正気だろうな」
くちゃくちゃと肉を咀嚼している生々しい音が耳元で聞こえる。
「ルシェラ!!」
ルクエルトゥーンも神の内なれば、傷は直ぐに癒える。
そして、その血肉が蓄えている力は並のものではない。性交以上にルシェラを満たす事も出来る。
「……そこまで……限界だってのか…………」
こんな形で食われたのは初めてだ。ルシェラはルクエルトゥーンに身を任せる時、常に冷静で理性的だった筈だ。
理性もなく糧を喰らう姿など初めて見る。
生き物として、違う。その事を見せつけられる。
守護者なら誰しもがある程度は持っている欲求ではあるが、ルシェラはその中でも群を抜いて生気や魔力を消費して生きている。
生きると言う事に限りを感じ、果てしなく心の揺らいだ状態では無理もない事なのかも知れなかった。
ルクエルトゥーンはルシェラの頭を両手で抱え、僅かに引き離した。首筋から肩口にかけて痛みが走ったが、それにも構っていられない。
覗き込んだルシェラの顔は、凄まじかった。
血塗られた口元、光のない瞳。
長い睫毛にさえ血の飛沫が散り、目元をも紅く彩っている。
汗に滲んで顔自体が薄赤く染まっていた。
禍々しい。けれど、美しい。
凄まじい、とはよく言ったものだと思う。
「……ルシェラ…………時間がないんだろ……?」
緩く腰を回し、突き上げる。
ルシェラはまだ口の中に残っていた肉片を飲み下し、顔を仰け反らせる。
「ぁん、ああっ……ぁ、は……」
目が細められ、甲高い声が上がる。
口の周りの血液を舐め盗る舌が、扇情的だった。
「……しっかり食っていけよ。死ぬまでは……生きてなくちゃならないんだから…………」
凄惨な魔性にぞくぞくと震えが背筋へと抜ける。
傷は既に殆ど塞がり、痛みも失せている。
ルクエルトゥーンはルシェラの姿と表情に再びの欲情を覚えていた。
ルシェラがルクエルトゥーンの頸根を狙ったのと同じ。神とは言え、元は他の星に生まれたヒトだ。本能的な狩りの欲求ででもあるのだろう。
それまで座位だったものを、寝台へと横たえる。
深く身体を二つに折り曲げさせて両足を肩へと抱え上げ、首に縋ってこようとする腕を寝台に押さえつける。
「や、ぁぁあ……ん……」
抉る場所が変わり、背が撓る。
押さえられた腕の代わりに担がれた足が摺り合わせられ、ルクエルトゥーンの顔を挟み込む。
肌理の細かい内腿からは、雄を誘う様ないい香りがした。
まだ血の味の残る唇を合わせながら、ルクエルトゥーンはルシェラに酔いしれた。
「っ、くぅっ……」
「あ、あは……んんっ……」
奥へと熱い迸りを感じ、ルシェラのつま先が空を掴む。
自身はまだ解放されないながら、蕾が独立した器官の様に、雄を最後まで絞り尽くそうとしてかより緊密に蠢く。
「ふ、ぅ……」
汗みずくになった肢体が震えている。
物足りないのだろう。ルシェラは達する事が出来ず、ただその直前の感覚に腰をひくつかせている。
ルクエルトゥーンはルシェラの中で存分に放出を遂げ、ゆっくりと腰を引いた。
「ふぁ……ぁ、ぁ……」
それでも、まだ達する事が出来ない。
押さえつけていた腕を解放すると、直ぐさまに縋り付いてくる。
「ルシェラ……ちょっと待ってろ」
窘める様に首根を撫で、腕から抜ける。
身体をずらし、躊躇いもなくルシェラの屹立した逸物に口付けた。
ともすればルクエルトゥーンより立派かも知れない。色合いは淡く可憐なものの、形も大きさも十分に大人の男のものだった。
「ん、ふ、ぅ……ぁ……っ……」
鈴口から溢れる蜜を啜られ、益々腰が引き攣る。
痙攣を繰り返すルシェラが気の毒に思えて、ルクエルトゥーンは白濁した粘液を滴らせる後庭へと指を差し入れた。
襞を掻き分け、押し開く。淫猥な紅い粘膜が覗いた。溢れる精液に苦笑しか湧かない。
馴染みの女の一人や二人がいないわけではない。ただ、ルシェラの身体は全くの別物だった。
時間が限られていなければ、もう何戦か挑み掛かりたい程だ。
雄の太さに馴染んだそこへ、指を四本も差し入れる。慣れた襞は柔軟に、色を失くしながらもそれを受け入れた。
「ぁ、あっ……んんっ……」
軽く歯を立て裏筋を舐め降りる。
絡めた唾液は熱に乾いていく。
「はっ……ぁ、は…………」
繰り返し空を掴んでいた手が、ルクエルトゥーンの髪を掴む。
ぐいと引き、ルクエルトゥーンは濡れた口元を幹から離した。
「……たい…………」
「ルシェラ……?」
光のない瞳から、止め処なく涙が溢れている。
「い……き…………」
瞳は閉ざされる事がない。溢れた涙は長い睫毛に溜まり、先の血液と混じってやがて流れ落ちる。
涙そのものが、血で出来ている様だった。
「……ルシェラ……」
指を引き抜き身体を起こし、ルシェラの足を寝台へと降ろす。
顔を合わせる様に上へと覆い被さると、ルシェラは益々縋る腕の力を強くした。
「いきたい……いき……たい……っ…………!!」
掠れた声がルクエルトゥーンを耳から引き裂いていくかの様だ。
「……リファス…………リファス……っぁ……あ…………」
差し入れたままの指を奥へと引き込む様に襞が絡む。
「あ、はっ……ん……んぅ……」
理性を放棄している。
正気でいては、とても最期の時まですら堪えられはせまい。
「……ルシェラ……辛いだろ、イけよ」
柔らかな耳朶を噛み、舌先を耳穴にねじ捩じ込む。
「ぁ、っぁあ、ん……っ……」
背が撓う。
首筋に唇を移し、強く吸いながら埋め込んだ指をより深く差し入れて、最奥の、ルシェラを最も脆く陥落させる場所を弄う。
「ふ、ぁああああっっ!! っ、は、ぁ……あん……んっ…………」
漸くに凝った熱が解き放たれる。
大きく身体が痙攣し、ひくひくと小刻みに引き攣った後にがくりと弛緩する。
身体は朦朧とした意識の中で投げ出される。
「ん……っぅ…………」
指が引き抜かれる衝動にも、僅かに眉が震えるに留まる。
ただ、腕の力だけは緩まなかった。
いきたい、という悲鳴に似た声が耳の奥で未だに響いている。
達したいという意味ではない様に聞こえた。
いきたい────生きたい。
覚悟を決めたとは言え、まだルシェラは胸の内に抱え込んでいる。
思い極めても、まだ星諸共リファスを殺す事にも抵抗があるのだろう。
自分が死のうとも、リファスまで殺す必要は実際、ない。
だが、ルシェラが死にリファスが生きれば……神王の手に因ってどれだけの拷問が科せられる事だろう。
腹いせに、死ぬ事も許されぬ程の凄惨な責め苦が待っているであろう事は想像に難くない。
なればこそ、せめてこの手に掛けたいというルシェラの願いは、分からぬでもなかった。
リファスを殺せば無論、ルシェラが生きている意味も全て無に帰す。
生きたいという願いは、二人が共にあればこそだ。
生きて、もう一度顔を見たかったのだろう。もう一度、触れ合いたかったのだろう。
もう一度。もう一度────。
「うっ……ひっ……ぅ…………」
首に巻き付く腕は震えていた。
視界に入る肩も。
ルシェラは泣いている。
ルクエルトゥーンは汗ばんで滑る身体を抱き、繰り返し髪や背を撫で続ける。
「…………い……きたい…………いき……い…………」
「ああ…………」
ルクエルトゥーンの与えた血肉や生気で潤えば潤う程、ルシェラのその欲求は強くなる。
全身から強い訴えが響く。
ルクエルトゥーンは、ただ窘める様に撫で続けてやる事しかできない。
「っ……う……」
「……風呂に連れて行くぞ。時間がないんだろ?…………そのまま……泣いてていいから」
時計に視線をやると、サディアが切った期限までもう十数分しかない。
汚れた敷布にルシェラを包み、裸のまま浴場へと移動する。サディアが直ぐ外で待っていたら事ではあるが、姿はなかった。
赤子の温浴にそうする様に湯船へルシェラの身を沈めて清め、尻穴の奥までもよく洗い流してやる。
事務的な手つきに、ルシェラが昂ぶる事はなかった。それだけの精神的な余裕がなかった事も幸いしたのだろう。
濡らした布で顔を拭ってやると、漸くにルシェラの瞳に光が戻って来た。
「………………ルクエル…………」
「気持ちの悪いところはないか? 痛いところとか」
「…………ええ………………先程、わたくし……」
言い差した唇にちゅっと音を立てて軽く口付けられる。
「俺は何も聞いてない」
「………………ありがとうございます……」
ルシェラはそのまま俯いてしまう。水面にぽつりぽつりと波紋が広がった。
ルクエルトゥーンは見ないふりを続けた。
「………………割り切った……そう、思いましたのに…………」
往生際の悪い事だと自身を嘲笑う。笑いながらも、溢れる涙を止める術がない。
「お前に、その身分がなければ……もう少し楽だったんだろうな……」
「…………ええ、恐らく…………少なくとも、もっと前に、覚悟を決められていた…………この身でなければ……自ら命を絶つ事も、もっと容易であったでしょうから…………」
「サディアは納得済みか?」
「……あの方には、いつもながら……最も辛い役目ばかりを押しつけてしまう。……申し訳のない事……」
それまで添えられていたルクエルトゥーンの手を払い、ルシェラはゆっくりと湯から上がった。
加えられた重力に身体が酷く重い。
「…………時間切れです。これ以上…………何を思っても仕方のない事……」
湯に当たりながらも顔には何処か血の気がない。悲壮感の漂う表情に、ルクエルトゥーンは目を反らせた。
「見送りまでは、させてくれ」
「…………ご勝手になさいませ……」
そう言いつつも、まだふわりふわりとして身体が定まらない。
ルクエルトゥーンに縋りながら湯殿を後にする。
まだ迷いは失せなかったが、最早時は残されていなかった。
サディアの足音が迫る気がするのを感じながら、ルシェラは衣服を着付け、寝台でそれを待った。
終
作 水鏡透瀏