闇の中に、蠢くものがあった。

 しっとりとした空気が僅かに動く。
 緋く光る瞳が月光に煌めいている。

 一つ大きく伸びをして、その者はゆっくりと清光の中に出て行った。

 後にはただ、闇ばかりが、恐ろしい様な静寂をもって漂っているばかりだった。


「──甘ェんだよ、お前は──」

 黙れ。

「──一思いに……そう、ヤっちまえって──」

 うるさいっ。

「──オレ達ぁ、こうしてでしか生きられねぇ。分かってるだろ、イリア? ……ヤるんだよ──」

 今はもう亡き者の声が頭の中で回り続ける。
 俺は思わず、少女の首にかけていた手を放した。

 ……何故だ。何故できない?
 若き乙女の首に歯を突き立て、血を吸えばいい、それだけのことが。
 何も失血死させる程じゃない。
 一日二日、貧血気味になる程度……女なんてたくさんいるんだ。
 一人から必要量を取れば死んでしまうが、複数からもらえば……ただ、それだけで十分なのに……

 いたたまれなくなって、入って来た窓から外へ飛び出す。
 そのまま屋根を飛び移り、町の北、町の人間は誰も寄り付かない、俺の館がある森へと帰った。

 そう。
 俺は一般の人間が言うところのヴァンパイア……吸血鬼、というやつである。
 一体いつからこうなのか、全く覚えていない。
 ただ分かるのは、俺が生き物の血液を糧とせねば生きていけないということと、いつも側に一人の同族の男がついていたということだけだ。

 死ぬ直前の動物の血を主食としてはいるものの、やはりそれでは生命の維持がギリギリだ。
 たまには新鮮な……それも栄養分の多い、若い血を飲まねば死にかねない。
 若く栄養価の高い血は人間の、それも良家の子女のものが最高なのだが、俺はどうしてもそれに手を出すことが出来ないでいた。

 俺が住んでいるこの町の領主は中央でいう侯爵という位を戴く人物で、娘を六人持っている。
 全員二十歳未満と若く、一番末はまだ食すにも早い八歳である。
 一人分でも俺のものにできたなら、十年は余裕で生きられるが……

 昏い森をざわめく風が吹き抜けていく。
 木々の葉の間から差し込む月光が清々しい。
 俺はいつまでこうしているのだろうか。
 死ぬ踏ん切りもつかず、さりとて生きているとも言えず。

 樹の枝が俺を包み込む様に降りてくる。
 さわさわと優しく触れる葉と先端の小枝に身体を預けた。
 館には帰りたくない。
 あそこにいると、嫌なことばかりを思い出す。
 眠りさえも妨げられることが多い。
 まだ月は高く眠るには早いが、何もすることがない。死臭もないから、死期の近い獣もいない。
 今では三日に一度でも食事できればいい方だ。
 あいつがいた頃はこんなにひもじい思いをすることもなかった……

 だめだ!!
 そんなことを考えていては。
 あいつはもういない。
 もういないのだから……


 何かが側でごそごそと動く気配で、ぼんやりと目が覚めた。
 最初に目に入って来たのは、きらきらと眩しい何か。
 驚いて飛び起き、フードを深く引っ被る。

「あら、ごめんなさい。起こしてしまいました?」
 聞こえたのはまだ幼い少女の声。
 恐る恐る、少しばかりフードの前を上げ、声のほうを見る。

 領主の末娘……?
 ここへは立ち入り禁止になっているはずだが……

 それより。
 今は、要するに真っ昼間の様だ。
 木陰だから、俺は難を逃れたらしい。
 眩しいのは、木漏れ日に少女の明るい金髪が輝いているせい。
 朝の名残の霧も、大分薄れ始めていた。

「あなたが、この森の魔物ですの?」
「……魔物?」
「お父様がおっしゃっていましたわ。北の森には魔物がいるから入ってはだめだ、って」
 そう言いながらも少女に警戒する様子は見られない。
 手にした花冠を頭に乗せて、微笑んでいる。

「あまり、お見かけしない方ね」
「……魔物だからな。そう人前には出ない」
 ……っ!! 何を口走っている、俺は!!?

「やっぱり!! あなたが魔物でいらっしゃるのね。道理で、とても人を惹き付けるお姿をしていらっしゃると思いましたわ」
 少女は碧く大きな瞳を輝かせて、ずいっと顔を寄せた。
 思わず身体を引く。

「……怖く……ないのか……?」
 少女はきょとんとした顔で一瞬俺を見詰め、少ししてぷっと吹き出した。

「怖くなんてありませんわ。あなたは、とても優しそうでいらっしゃるもの」
 そんなことを言われたのは初めてだった。
 姿勢を正そうと、樹に委ねていた身体を起こす。
 と、頭上から何かがばさばさと落ちてきた。
 花だ。
 見れば、周りも全て野の花で覆われている。

「これは……君が……?」
「ええ。あんまり、よくお似合いだったから」
 まだくすくす笑い続けている。

 神と太陽の加護を受けた少女は、俺の目には眩しすぎた。
 波を打つ、濃く明るい色のブロンド。
 透ける様に皓い肌。
 薔薇色の頬。
 真昼の光を映し込んだ碧い瞳。
 人を疑うことを知らないのか、その甘い線を描いた唇に浮かべた優しく暖かい微笑みが、呪われたこの俺には痛い。
 後十年もすれば、十分過ぎる程よい食料になる。
 幼女から抜け切らないふくよかな頬も引き締まった身体つきも大人の女へと移る頃……。

「……君のような子が、こんな所へ来てはいけない……早々に帰ることだ……」
 一瞬生唾を飲んだ自分が汚らわしくてならない。

「どうして? わたくし、よくここへ遊びに参りますのよ?」
 知らなかった…………のは当然か。昼間、こんな所にいたことはなかったし。
「魔物の住む森……わたくしにはぴったりの場所ですもの」

「……ぴったり?」

 碧の瞳が一瞬潤んだように見えたのは気のせいか。
 少女は変わらぬ微笑みを俺に送った。
「わたくしはリリム。アダムに逆らい、神に逆らって、ルシファーの妻となった、リリスの娘、リリムなのですわ」


 リリムは変わった少女だった。
 見かけよりずっと大人びて、物言いも子供のものではない。

 リリムと名乗っていたが、本当の名はフェリーシャというらしい。
 だが本人としてはリリムが一番しっくりくる呼び方の様だった。
 この国のを国教考えると、リリムなどとんでもない代物なのだが、さして気にした様子もない。

 まあ、俺自身、別に信者である筈もないのでどうでもよいことだが。

 フェリーシャがリリムを名乗るのは、どうやら姉達のせいらしい。
 姉達にリリムだと言われ続けている様だ。
 リリムとは悪名高いかのリリスの娘で、母よりも禍々しい、という話を聞いたことがある。
 勿論、そんなに詳しい話でもないので、少し違っているのかも知れないが。

 リリムの名の所以はどうやら母をリリスだと呼ばれたことに起因するらしい。
 何があったのかは聞いていない。
 そんなこと野暮というものだろう。
 俺も自分のことは話さないつもりなのだから。


 それから俺達は二人だけの秘密の時間を多く過ごすようになった。

 春は花の咲き乱れる野原で。
 夏は水面の煌めく湖で。
 秋は落ち葉の舞い散る梢の下で。
 冬は雪の降り積む樹のうろで。

 子供時代というものを過ごした記憶のない俺にとって、貴重な体験が続いた。

 ディースが死んでから、妙にゆっくりと流れていた時は、瞬く間に早く過ぎ去るようになり、出会ったときには八つの子供だったリリムは、いつの間にか十六になっていた。
俺の姿は変わらず、見た目的には同い年といっても通用しそうだ。

 リリムは相変わらず無邪気だった。
 出会った頃のまま利発で美しく、十六にもなったのだから嫁の貰い手でもあろうかと思うのだが、それでもリリムは幼いときとほとんど変わった様には思えなかった。

 俺はといえば、リリムと過ごすようになってから、夜昼逆転の生活を送るようになってしまっていた。
 リリムと夜を過ごす訳にはいかない。
 俺が生活を変えたほうがよいと思えたからだ。
 しかしそのせいか、このところ体調が思わしくない。
 食生活を改めていないのも一因なのだろう。
 リリムを見て時折理性を失くしかける自分が恐ろしくてならない。
 ひもじいなんて通り過ぎた。
 腹が空くという感覚さえ失いかけている。
 やはり、リリムはごちそうなのだ。気を抜けば殺してしまいかねない。


「イリア、お食事をお持ちしましたわ」
 大事そうにボヘミアカットグラスのデキャンタを抱えて駆けてくるリリムを見て、木の上から舞い降りた。
 丈の長いコートが空気の抵抗を受けて邪魔だ。

「はい。今日の……牛のものですわ」
 デキャンタの中身は深い紅。
 捌かれた折に流れた血を集めたものだ。
 俺が食事に困っていると知った時から、リリムはこうして俺に時々ではあるが、食事を持って来てくれていた。

「いつも助かる」
「いいえ。最近、殊にご加減が悪いご様子。精をつけなくてはいけませんもの」
 にっこりして差し出すリリムからデキャンタを受け取る。
 昼食分はありそうだ。

「夜、眠っていらっしゃるの?」
「ああ」
 デキャンタの中身を一気に飲み干す。
 身体の内から潤っていく様な気がする。
 決して長くは続かないが、かなりの足しになる。

「それで……よいの?」
「ああ」
 幾度となく繰り返される質問。
 答えはいつも同じ。
 それでもリリムは、飽きもせず続ける。

「わたくし達、本当にこのままでよいのかしら」
 これもそう。
 二、三年前から混じるようなった問だ。
 同じ答えを用意する。

「構わない。……少なくとも、迷惑ではない」
「ええ。あなたはそうなのでしょうけど……」
 顔を伏せる。
 なんだかいつもと違う反応に、一瞬戸惑った。

「君が困るのならば……」
「いいえ。わたくし自身は構わないのですわ」
「なら、どうしてだ?」
 リリムはいつになく真剣な目をして俺を見た。

「分かっておりますのよ。あなたのお身体が、弱り切ってしまっていらっしゃるということくらい」
 リリムは賢い娘だ。
 気づかれているだろうとは思っていた。
 だが唐突に一体何なんだ?

 花弁の様な唇が寂しげに微笑みの形をとる。
 しかしそれは途中で崩れ、歪んだ様にしかならない。
「……明日から、わたくしが夜に参りますわ」
「そんなこと……だめだ。君のような若い娘が……」
「わたくしがそうしたいのです。いけませんか?」
 真剣な瞳のまま、顔が近づいてくる。
「これ以上弱っていくあなたを見ていられません」
「今更だろう」
 『女』の顔をしてリリムは俺を見詰めた。
 思わず目を逸らせる。
 正直いって、俺は女というものが苦手だ。

「ええ。前々から思っていました。でも今は……」
 手を握られる。
 振り解こうとして、諦めた。
 その手がそのまま、リリムの胸元へ導かれる。
 いつの間にやら大人の女へと成長したその感触に、頭の中が真っ白になった。

「てっ……手を……」
「放しませんわ」
「リリム!!」
 強く手を握り締められ、そのまま柔らかな部分へ。
 全身が震えて拒めなかった。

「俺とお前とでは……その……添うことは……」
「分かっています。……あなたは吸血種ですもの」
「なら……」
 自分でも情けない状態だとは思うが、どうにも対処の仕方が分からない。
 リリム以外の女とは話をしたことさえないのだ。
 当然そんな所に触れたことだってなかった。
「わたくしをあなたの仲間にして」
「そんなこと!!……できるはずがないだろう……」

 俺の頭で処理できる範疇を大幅に越えている。
 何を考えているんだ、この少女は!!?

「お願いですわ。このままではわたくし……」
 リリムが僅かに震えているのを感じて、ゆっくりと手を解いた。
 何かがあったんだ、リリムに。

「何があった?」
「言えませんわ」
「言わなくては分からない。せめて、何故吸血種になりたいのか、説明して欲しい」
 リリムは俯いた。
 肩の震えは治まっていない。
「あなたのお側にいたいから……ですわ……」
「何故だ」
「それをお聞きになるの? ……残酷な方ね」
 泣くのを堪えている様な声が、俺に何かを予感させる。

「姿を消したいのです。家から。……結婚相手が決まってしまったのですわ。わたくしは嫌。けれど、お父様が……相手の方をいたくお気に召していらっしゃって……」
 それか。今日の奇行の原因は。

「わたくしはあなたが好きなのです。……女がこんなことを言うのは、はしたないとお思いでしょうけど……でも、気持ちを偽ることはできませんもの……」
「それは…その……」
 『女が』という特別な考えは俺の中にはない。
 女が貞淑でなければならないというのは、人間が信じる神と男が生み出した幻想に過ぎないからだ。

 俺がリリムを受け入れられないのは、この呪われた血を後に残さないため。
 俺達に人間でいう生殖に当たる行為は必要ない。
 しかし、吸血種の一部を体内に取り込めば受け継がれてしまう。
 四六時中リリムの行動を監視し、俺の髪なり爪なりを奪われないようにすることは不可能だ。
 こんなリリムだから、人間の恋人同士の繋がりなども求められたら…………必要ないだけで出来ない訳じゃない。
 そんなことにでもなったら……絶対に種を残す訳にはいかないんだ。

 それが、俺の誓い。

 考えを改めさせる他ないが、俺は口が巧くない。
 俺達の血が何をもたらすのか、見せるしかない。
「……リリム……俺の館に招待しよう」

 今までリリムを館に連れて行ったことはなかった。
 少女に見せるには、あまりに凄惨な物が数多く置いてあるからだ。
 けれど、仕方がない。
 いっそのこと、嫌われてしまった方が俺としても気が楽だ。

「ご招待、お受け致します」
「……では、日没後、またこの場所に。家を抜け出せるか?」
「ええ。大丈夫ですわ」
 リリムを残して、俺は木の上に飛び上がった。
 そのまま梢伝いに館まで帰る。


 館は、俺は建築なんかに詳しくないのでよくは分からないが、随分細かい細工が多い。
 そこに大層似つかわしくない鎧やら剣やらが飾られてある。
 初代の館主の趣味をそのままにしてあるらしい。

 玄関から暫く一本の廊下が続き、ホールに出る。
 まず目を引くのは、正面に飾られた大きな肖像画だろう。初代の館主の物だ。
 五、六百年程前のものらしいが、よくは知らない。
 そこから二階へ伸びた二つの階段。
 コレクションルームと書斎、客室などになっている。

 そこまでの壁には、等間隔で絵が掛けられてある。
 全てが、人間共の言う悪魔や異端者の儀式、異種族への偏見に満ちたものなどの絵だ。
 蘇る腐敗した死者達。
 死肉を喰らう魔女達。
 蛇や蠍が地面を這い回り、それと戯れる小さな悪魔達。
 黒と紅とに染められたキャンバスが延々と続いていく。
 真面目な宗教者なら通り抜ける間に気が狂うだろう。

 絵を除けようかと思って考え直した。
 これを平然と見られなくては、俺の仲間になどなれない。
 ……リリムにはきっと無理だ。
 諦めて、ここで引き返してくれればよいのだが。

 二階へ移って最初の部屋。コレクションルームには、数々の血に塗れた拷問具とその餌食になった者達の小さな肖像画が所狭しと並べられている。
 後は……タロットカード等の占い道具が少しばかり。
 それも妙におどろおどろしい柄の物が。
 明かりもランプくらいしかなく、俺だって長居はしたくない。

 そして書斎。
 ここには一万近い蔵書がある。
 ディースが生きていた頃は馴染みだったこの部屋も、十年も足を踏み入れていなければ廃墟も同然だ。
 ここには数多くの吸血種に関する資料が揃えられていた。
 五千冊は下らない。
 残りは神学や哲学、魔道書などが中心だが所々に小説の類いもあった。

 ディースはこの場所を好んでいた。
 姿が見えなければ必ずと言っていい程この書斎にいた。
 きっとここにある本をほとんど読んでいたのだと思う。
 俺は本など好まないからディースに押し付けられたものしか読んではいないが、それでも随分自分の血のことを知ることができたと思う。
 扉の丁度向かいの壁側に大きなマホガニーのデスクが置かれていて、それに見合う大きさの、俺が座ると埋まってしまいそうな安楽椅子が設えられている。
 デスクの上には、顔がすっかり入ってしまいそうな大きさの壷と、幾らか小さい瓶とが並んでいた。

 ここが最後の砦。
 俺の心と過去の、流れが滞って澱んだ淵の様な場所。
 リリムをここまで導きたくない。
 これ以上俺の醜さを知られたくない。
 けれど、ここまでリリムが逃げずについて来たら?
 ……巧く説明できなくても全てを話すしかない。
 そして俺を……。

 だが、リリムをここまで導く意味は?
 言葉で諌める努力すらせず。
 リリムの前から姿を消しもせず。
 いなくなればリリムの望みも潰えるものを。
 話さなくてはならないのか?

「──そーだ。お前は話さなけりゃならねー──」

 突然頭に響いた声にはっとして、慌てて部屋を見回した。

 今の……確かにディースの声…………

「──……おいおい。そんなにビビんな。俺がこの部屋にいることぐらい、覚えてんだろ?──」

 そん……な………。

 死んだ筈だ。
 あいつは。
 銀の矢で胸を貫かれ灰となって消えたはず。
 灰はデスクの壷の中に……。
 壷を掴んで蓋を開ける。
 中には想像どおり、半分くらいまで灰が入っている。

「──忘れようったってそうはいかねーよなぁ? お前にゃ──」

 灰はあくまで灰だ。
 何の力も、動きも感じられない。
 ならどこから聞こえる?
 いや、その前に本当にディースなのか?

「──それとも、マジで分かんねーって? 冷たいねぇ。たった十年経っただけで、思い出せもしないってのかよ──」

「……冗談は止せ。お前は誰だ」

「──冗談なんかじゃねーさ。オレはオレだ。忘れたなんて言わせないぜ。昔の親友をよぉ──」

 空気が動く。
 窓なんてない部屋だ。
 風じゃない。
 動いた空気は、ねっとりと俺に絡み付いた。
 背筋に悪寒が走る。

「お前は……お前は死んだはずだ。魂のないお前がどうして今頃出てくることができる! 誰なんだっ!! 俺をたぶらかして何が面白い!?」

「──魂じゃねー。意識の塊だ。……ちーっともオレが言うこと覚えてねーでやんの。ったく……だからちゃんと本読めって言ったろ?──」

 足が震えて仕方ない。
 立っていられなくなって、床に膝をついた。
 両腕で自分の身体を抱く。寒気がひどい。

「──お前がオレのことを忘れない限り、オレは消えない。いくら消えたくてもな。オレの十字架だって、後生大事に持ってるくせに──」

 ……これは確かにディースなんだ。
 ディースはずっと俺の側にいた。
 何をするにも常に一緒だった。寝るときさえ一緒だった程。
 そして今、共に暮らしていた頃と全く変わらない雰囲気が周囲を包み込んでいる。

「──オレはここでしかお前に話しかけることはできねーんだ。いつ来るかって待ってたんだぜ? 何せ、オレの意識が止まったのはこの部屋だからな。この部屋からは動けねーし──」

 ディースはここで死に、灰となり、ずっとここにある。
 忘れたわけじゃない。
 ただ……思い出す必要がなかった。
 リリムと出会って、ディースのことを思い出す必要なんてなかった。
 ディースを思うより、もっとずっと楽しい日々だったのだから。
 楽しみに耽ることは、そんなに罪なのか?

「──……まだ残ってんのか? 最期につけた傷──」

「……ああ…………」
 ボタンを外してコートを床に落とす。
 シャツの襟刳りを引き下げて、左の肩を出す。
 左の鎖骨の少し下。
 並の傷なら五分もかからず消えるこの身体の、唯一の傷痕だ。
 それは丁度、十字のようにも見える。

「──なのにここへは一度も来なかった。オレが死んで清々したんだろ?──」

「そんな……こと………」
 生温かい何かが傷に触れた。
 跡が残っているだけのはずのそこに、びりっと痛みが走る。
「っ……」

「──ひでーよなぁ、お前。自分でヤっといて──」

「言うなっ!!」
 傷痕に噛み付かれる様な激痛が襲う。
 ディースの声を聞いていられず、耳を両手で塞いで蹲った。
 全身が引き裂かれていくようだ。
 目の前が真っ赤に染まる。
 夢中で叫んでいた。

「……幻影よ、消えろっ!!」

「──幻影……ね。構わねーぜ、オレは。そう思いたけりゃ、別に。……仕方ねーな。いったん消えてやるよ。でも覚えとけ。あの女をここに連れてくるなら、オレもそれなりのことは言わせてもらう。いいな──」

 急に全身が軽くなる。
 絡み付いていた悍ましい空気が解け後に残った静寂の中、俺の荒い呼吸だけが響く。

 …………ディース…………

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