それからやっと俺が動く気になったのは、とっぷりと日が暮れてからだった。
夜気の寒さが身に染みる。
コート、来てから外に出ればよかった。
久々に出た月光の下は妙に息苦しかった。
真っ暗な森は庭も同然のはずなのに、リリムとの待ち合わせの場所までいやに時間がかかった。
「……来て下さらないのかと思いましたわ」
「すまない。……行こう」
リリムの手を取る。
どれほど待っていたのか。ひょっとして家に帰っていないのかと思う程、その手は冷えきっている。
「館に着いたら火を起こす。すまなかった」
「火は……大丈夫ですの?」
「……人間の間にある吸血種に関する伝承は、ほとんどがでたらめだ。現に、俺は今十字架を持っている」
ポケットから十字架のペンダントを引っ張り出してリリムの目の前にぶら下げる。
白金でできたもので、小さいものの随分よいものだと聞いている。一見銀の様で、月の光を弾いて鋭い光を放つ。
「……確かに銀はだめだがな。あと……樫の木の杭も、な。胸に打ち込まれたらまずは助かるまいが、それは人間も同じだろう? 銀も、確かに俺達を殺す道具はこれか樫でなくては作れないが、触った程度なら火傷を負うくらいだし、そう避けねばならないものでもない」
「そうですか」
リリムは何か不満げだったが、俺は敢えて聞かず館までの道程を慎重にエスコートした。
「わ……あ………」
玄関に一歩入り、リリムは歓声を上げた。
「これは、あなたのコレクションですの?」
「……いや。この屋敷を造った人物のものだ」
「凄いですわね……」
恐れるどころか目を輝かせているように見える。
「怖く……ないのか?」
「どうして? こんなに素晴らしい絵ですのに」
「気味が悪くないか? この絵は」
「題材は変わっていると思いますけれど」
リリムには絵の素養があるのだろうか。
俺には絵の区別さえまともにつかない。
そう言われてみれば、確かに何か芸術的なような気はするが……
とにかく、思惑は完全に外れた。
重くなるとの予想だった足は、進むごとに軽やかになっていく。
「君は神を信じていないのか?」
「何故そんなことをお聞きになられますの? 勿論、信じていますわ。神はいつでもわたくしの側におられますもの」
「これは、神に反する者が描いたものなのではないのか?」
リリムは驚いた様に俺を見詰め、吹き出した。
「違いますわ。そんなとんでもない。神を信じるからこそ、このような絵を描くのです。神がいるから悪魔が生まれる。光には必ず影が生じますもの。悪魔が醜悪であればある程、神はより崇高な存在となるのです」
笑いを含んだままだが、それでも言葉には説得力があった。
そんなこと、俺は考えたこともない。
「それに、わたくしは悪魔の娘ですわ。グロテスクな絵だとは思いますけど、怖いなんてこと……」
言葉が濁る。
一瞬俯きかけたが、気丈に真っすぐ前を向いて廊下を行く。
慌てて後を追いかけた。
ホールに出て、取り敢えず一階階段横の応接室に通す。
ソファに座らせて、暖炉に火を起こした。
「すぐに暖かくなる。……茶でも容れよう」
「いいえ。お構いなく」
間が持たない。
リリムに背を向けてしゃがみ込み、暖炉の薪をいじくり続ける。
菓子でも出せればよかったが、ディースならともかく俺にはそんなもの作れないしな。
そんな息苦しい沈黙を先に破ったのはリリムの方だった。
「イリア……わたくしに、何かおっしゃりたいことがあったのではありませんの?」
はっとして振り返った。
ソファから立って俺の背後にいたリリムの深い碧の瞳が真剣に、それでも優しく微笑んでいる。
視線に包まれ、俺は言葉を紡げなくなっていた。
リリムがかつてこんな目をしたことがあったろうか。
いつか見た、いつか感じたこの温もり。
ディースと同じ……────? いや、違う。
もっと昔に何か…………
「イリア……?」
呼びかけに、宙を彷徨っていた意識が現実世界へ引き戻される。
溢れそうになる涙を必死で押さえて立ち上がった。
このままだと、リリムにしがみついて泣き出してしまいそうだ。
「少しは暖まったか? ……では次の部屋へ行こう」
コレクションルームにおいてもリリムはいやにはしゃいでいた。
並べてある拷問具の数々は、随分と希少価値が高いものだとか。
しかし……血がこびりついたままの『鉄の処女』なんて、見ていてそんなに楽しいものか?
「これも、このお屋敷を建てられた方のものなのですか?」
タロットカードを指す。
「ああ」
「素敵……」
「よければ持って帰れ。俺には不要なものだ」
「本当に!? ありがとうございますわ!」
リリムはほくほくとしてカードを箱に収めた。
「さあ、ここはもういいだろう」
次……次の部屋…………
もう諦める他ない。
ここまできたら腹を括ってしまう他ないだろう。
リリムがここまで変わっているとは……大きな誤算だった。
薄暗い部屋で何人もの血を吸った拷問具を見て平然としているなんて、俺から見れば正気の沙汰じゃない。
リリムがいなければ誰がこんなところへ進んで訪れたりするものか。
……いつから俺は暗闇を恐れる様になったんだ?
そして、いつから人の死や、それに準ずる様なことを悲惨なものだと感じるようになったのだろう。
元々俺は夜行性で、人の死は生きて行く糧で、そんなこと、感じるはずない。
……なのに……
運命の扉が待っていた。
中に待ち構えている者があるのは分かっている。
けれど、ここにある本でしかリリムに俺達の血の凄惨さを説明できそうにはなかった。
それに……ディースなら、巧くリリムを納得させられるかもしれない。
意を決して書斎のドアを開けた。
………………──────────っ!!??
天井のシャンデリアに煌々と灯が灯っていた。
デスクの上にも幾つかのランプ。
暖炉にも火が。
その上のマントルピースにも明りが置いてある。
何もかもが、十年前と同じだった。
埃を払っていただけだったはずの室内は、何年もの生活感を感じるほど落ち着いて整っている。
デスクの向こうの安楽椅子は壁の方を向いていた。
それが……くるりと回ってこちらに向いた。
前と横は残して後ろで一つに束ねた銀の髪。
抜けるほど皓い肌。
紅い唇。
切れ長の緋の瞳。
整い切った細面。
それはかつて見慣れていた顔だった。
「よく来たな、イリア。そちらのお嬢さんを紹介してくれ」
「……ディ……ス……どうして…………」
ディースが好んで着ていた細かな刺繍の入ったベストも、俺の記憶の中にあるものと同じ。深い紅が目に映る。
「どうして、はないだろう? ここはオレの屋敷だ」
言葉遣いもそのままだ。
呆然と見詰めていると、ディースはデスクの上の小瓶の一つを手に取った。
愕然とした。さっき俺と話していたディースじゃない。
意識だけだったはずなのに、このディースには物理的な存在がある……?
「イリア、オレの顔に何かついてんのか?」
薄い嗤い。
仕草が一つ一つ視界に入る度、身体がどうしようもなく震えた。
「わたくしはフェリーシャ。けれどリリムと呼んで下されば結構ですわ。あの、あなたは?」
一歩前に進み出て、リリムが一礼する。
ディースは変わらぬ嗤いでそれを受け止めた。
「オレはディース。この館の主だ。悪ィが、ここにはこれしか椅子がない」
「構いませんわ」
頭の中が混乱し切っている。
何か言わねばと焦りながら、どうしても言葉が見つからない。
喉が焼け付く程、口の中が乾いてしまっていた。
「リリム……変わった名前だな」
「母がリリスですから」
「へぇ……面白そうな話だ」
ディースは促すような視線をリリムに送った。
「わたくしの父と母は不義の密通をしておりましたの。その末に生まれたのがこのわたくし。わたくしを生んですぐに母は亡くなり、わたくしは父の家に引き取られましたの。リリムという名は、家でわたくしのことを昔から姉達がそう呼んでいるからですけど、もうすっかり定着してしまいましたわね」
おかしそうに笑う。
自分の名について話すとき、何故リリムは笑えるのだろう。
悪魔と言われて、神を信じる者が納得していられるものだろうか。
「強い女だ」
ディースはあっさりと一言で片付けた。
「強くなんて……そんな……ただ、わたくしはリリムと呼ばれるのもやぶさかではないと申し上げているだけですわ」
「何でだ?」
「神がいるから悪魔がいますもの。わたくしは、深く神を敬愛し申し上げているからこそ、その神のために悪魔となってもよいと思っておりますの」
「信心深いことだな。だが、そのことを不敬だとは思わないのか? あんた達のカミサマってのは、こんな子供にまで堕ちてもらわなけりゃ、輝けもしない存在だって?」
「いいえ。ただ、自分自身が感じる為ですわ。より崇高な神の存在を」
廊下の絵画について言っていたのと同じ……なのか?
神と悪魔の関係……だからといって、信仰のためだけに自分が魔物となってもよいというのか?
「わたくしはきっと異端者なのですわね。こんなことを話せるのも、あなた方がわたくしの信じている神を信じていらっしゃらないからですわ」
「神を信じないオレ達をどう思う?」
「人それぞれですわ」
「これはいい」
さもおかしそうに笑う。
ディースの自然な笑みを、この前にはいつ見ただろうか……
「お前なんかより、よっぽど賢いぜ。少しは見習ったらどうだよ、イリア?」
「……俺は……」
まだ上手く纏まらない。
言わなくてはならないことがあるのは分かる。
だけどそれが何なのか、朧げな輪郭しか掴めていない。
今のディースの言葉に対する反論なんて簡単なものじゃない。
それは分かっているのだが……
「あなたも吸血種なのでしょう? なら、イリアでなくても構いません。わたくしをあなた方の仲間にして下さいませんこと? できることなら何でも致しますわ。だから……」
「何でも……か。お嬢さんに何ができる?」
「仰って下されば何だって最善を尽くしますわ」
「吸血種になったとして、あんたの信仰を捨てられるのか? オレ達はあんたの信じる神に、一番反した存在なんだ。何せ、神が自らを見本に造った一番近しい存在の者を糧としてるんだからな」
ディースは明らかに楽しんでいる。
「……努力いたします」
「言葉で言うのは簡単なことだ」
それまで手の中で弄んでいた小瓶の蓋を開ける。
デスクの引き出しから白い紙を一枚取り出して広げ、その上に瓶の中身を零す。
……粉?
「これを飲めば、あんたもオレ達の仲間となれる」
まさ……か……ディースの身体の灰か……?
「下さいますの?」
「ただで、という訳にゃいかねーな。……そうだな。取り敢えずは、まずあんたがオレ達の仲間になりたい理由でも聞かせてもらおうか。……大体の見当はついてるけどな」
「待て!! ディース、それは何だ?」
ディースは俺の方にちらりと視線をくれて指先に粉をつけ、それをペロリと嘗めて見せた。
「秘薬だ。お前にはこれがなんだか分かっているはずだぜ?」
「なら薬なんかじゃないはずだ! リリムにそんな妙なものを……」
「妙な……か。お前が作ったものだぜ? そんなに奇妙なモンかよ。ま、確かに、薬じゃねーけどな」
「……っ!!」
言い返せる言葉がない。
いや、言えることはあるはずだった。
もしディースと二人きりならはっきりと言っていただろうが、ここにはリリムがいる。
いつかは知られてしまうことでも、自分の口から打ち明けるだけの勇気はなかった。
「で、お嬢さん。どうして仲間になりたいって?」
リリムは俯いた。
皓い頬に仄かな赤みが差している。
「イリアがいたら言いにくいって?」
「そんな……そうですわね。でも、イリアにはもう申し上げていますわ。今更戸惑う必要もありませんわね」
「なかなか積極的なんだな」
「ええ。手に入れたいものは自分で掴み取らなくては。わたくしはにイリアのことが好きなのですから」
きっぱりとした瞳でディースを見詰める。
一点の曇りもない。
当然、迷いも何も感じていないようだった。
「それで吸血種に……ねぇ…………考えが甘ェな。しかも、イリアの気持ち、考えたことあんのか?」
「それは…………」
表情に動揺が走る。
そして暫く宙に彷徨わせた目を俺の方に向けた。
俺は……俺はリリムのことをどう思っている?
……分からない。
今まで考えることを避けてきた問題だ。
「イリア、はっきり言ってやれよ。愛せないって」
「違う……そうじゃない。そうじゃなくて……」
説明できない。
もどかしい。
自分の語彙の少なさが、つくづく嫌になる。
リリムのことは嫌いじゃない。
でも、愛とか恋とか、そんなこと……分からない。
知らない。
「答えて、イリア」
「俺は……」
俺は?
何と言いたい?
リリムが詰め寄る。つい後退りしてしまった。
「イリア!」
両手で耳を塞ぐ。
目をぎゅっと瞑って、頭を横に振った。
だめ……なんだ…………俺を責めるな。頼むから……っ……
──イリア──
嫌だ。
俺に話しかけるな!!
もう……何も……。
膝が崩折れた。
完全に倒れてしまいそうになるのを、必死で留まる。
蹲ってしまったのは仕方がない。
立ってなんていられなかった。
「「イリアっ!!」」
ディースとリリムの声がやけに遠い。
けれど意識が遠のくということもない。
頭の中まで声が届かない様だ。
どうして?
分からない……
「マズいな…………あんたのお陰で、余計な面倒まで起こっちまったようだぜ」
「どういうことですの」
「……この身体造るのに、部屋の力は全部使っちまったし…」
「だから、何だというのです?」
「黙ってろ! 考えてんだ!!」
声が途絶える。
震えている、両耳を押さえていた手を無理に離す。
ああ……耳を塞いでいたから聞こえにくかったのか…………?
手を下について顔を起こした。
足と手とで身体を支えて、床の上に座り込む。
「イリア。……どうなさいましたの?」
「……分からない…………」
「イリア!」
顎に手をかけられて、ぐいっと顔をディースの方へ向かせられる。
ディースはひどく険悪な表情をして俺を睨みつけた。
「馬鹿野郎! まだ早いんだよっ!!」
……何を言ってる?
抱き上げられて、椅子に座らせられる。
柔らかな椅子の背に身体を預ける。
包み込んでくれる暖かさが心地よかった。
「お嬢さん。あんたはもう帰った方がいい」
「嫌ですわ。イリアに何をなさるおつもりなの?」
「何が起こっても知らねーぜ」
「覚悟の上ですわ。家に戻る気なんて全くございませんもの」
「……聞き分けのないこった。わぁーったよ。好きにしろ」
ディースの表情は硬く、厳しかった。
何かが頭の中を過ぎる。
いつか、どこかで見た表情……
「イリア、オレの十字架を」
ポケットにしまってあったのを、黙って差し出す。
ディースはそれを受け取って、懐かしげに見詰めた。
「この女とお前が添うことについて、オレは何にも言わねーよ。リリムは、確かにお前に似合いの女だ。お前が惹かれるのも分かるしな」
リリムの方を向き直る。
「見れば見るほどそっくりだぜ。いい女だ」
「……誰……に……?」
聞いてはならないことのような気がする。
けれど、箱を開けてしまったパンドラのように、自分には逆らえなかった。
「お前の母親に、だよ」
「お前が思ってたように、さっきの粉は俺の身体の一部だ。十年前、お前がオレを殺したときにできた灰だよ。今の、この身体を構成するときに、少しだけ残しておいたんだ。…………初めはな、お前に飲ませるつもりだった。俺とお前の融合の為に。これから先も、お前と一緒にいる為に。まさかこのお嬢さんが、こんな女だとは思ってもみなかったからな」
リリムに十字架を差し出す。
躊躇いながらリリムはそれを受け取り、握り締めた。
「お前の母親と同じ目をして、同じことを言いやがる。生まれ変わりってやつの存在を、正直言って少し信じかけちまったぜ」
ディースは書架に掛けた梯子の段に腰を下ろし、デスクのカンテラを取って、自分の足元に置いた。
シャンデリアの蝋燭が一本消える。
後、九本。少し薄暗くなった中で、カンテラの明かりに照らされたディースの皓い顔がやけに映えた。
「ミーシャはな、吸血種の存在を認めてくれてたんだ。そのお嬢さんと同じように、な。自分の血を提供するとまで宣った。俺が牙を剥いても、逃げ出したりしなかった。誰よりも賢く、誰よりも奇麗な女だった」
抑えた口調の中に潜む情熱。
ディースは何かを耐えているような素振りを見せながら、言葉を続けた。
「女には子供がいた。夫には先立たれてて、所謂未亡人ってやつだった。今思うと自棄を起こしてたのかも知れねーが、そんなことはどうでもいい。オレこそが最後の純血種。独りで……仲間が欲しかった」
膝の上に肘を置いて、ディースは目元を覆った。
……泣いているのか……?
「ミーシャの子供は……あの頃まだ五つくらいのガキでさ、可愛げのないところが妙に可愛くて仕方ないってなやつだった。顔立ちだけは異様なくらい奇麗で、母親そっくりだったしな。それで…………ミーシャと、そのガキを……オレは喰らった。そして替わりにオレの血を与えて……仲間を作った」
蝋燭が、また一本消えた。
リリムはディースの話に聞き入っている。
「楽しかったぜ、あの頃は。三人で……人間の親子みたいで。ま、オレはこの通りの見た目だからな。多分、もうちょい別のように見えてただろうけどさ。オレは物心付いたときからずっと独りだったから……きっと、あれが幸せってやつだったんだろうな」
俺が知っているディースの姿はそこになかった。
ディースはもっと飄々としていて、何事にも動じないで、感情なんてものがあるのかどうかも分からないくらい冷め切った男だ……って……。
こんな、回想に耽って暗く沈むディースなんて、何か嫌だ。
聞きたくない。
「でも、ミーシャは決して血を口にしなかった。たとえ動物のものでもな。そのうち衰弱仕切って、動けなくなって…………オレはミーシャを殺した。彼女の灰なら、未だに地下に眠ってる。意識は、さっさと昇華しちまったけどな」
「その方が、イリアのお母様ですのね?」
ディースはリリムに頷きを返した。
「後はお前の記憶の中にもあるだろ。お前とオレとの生活のことは。……ああ、いや、まだだ。お嬢さんの知らないことがあった。……イリア、いいな?」
条件反射で頷く。何の了解を求められたのかよく分からなかった。
また一本、蝋燭が消えた。
「イリア、今だから言えるけど、オレぁ結構、お前との生活は楽しかったんだぜ? 悪かったな。結果としてお前をハメることになっちまって」
「どういうことだ?」
俺は思わず息を呑んだ。
ディースはオレの方を向いて、それは奇麗に……笑った。
「忘れちまってるもんな。仕方ねーか」
「何を? ……お前を殺したことなら覚えている」
「なんでオレを殺したのかは覚えてねーだろ」
どうしてか……?
記憶の箱を引っ繰り返す。
動機といえるようなもの…………思い当たらない。
今まで後悔と自責の念に捕らわれて来ているというのに、何故殺したのか……分からない……?
ディースの手が俺の方へ伸びた。
襟に手をかけられ、そのまま引き下げられる。
指が傷に触れた。
「っ……」
爪が、二本の傷の丁度合わさった所に喰い込む。
「ミーシャのこと、覚えてるか?」
ミーシャ……俺の母親……?
知らない。
俺の記憶の中には、ディースの存在しかない。
首を横に振る。
「そーだよなぁ。覚えてる訳ねーよな」
喰い込んでいた爪が離れる。
痛みは残っているのに……跡は残っていなかった。
いろいろと考え過ぎて頭が痛くなってくる。
「俺がこの爪でつけた傷。何で消えねーのかって、疑問持ったことねーの?」
ない……訳ではない。けれど、どれ程考えても分からなかったのだから仕方ない。
傷に触れる。
痛みではなく、もっと他の……痺れるような感覚……
「十字の傷……ですのね」
「ああ。……でも勘違いすんなよ。これはあんた達が信仰の対象としてるものとは全く別だ。昔から、二つの線が交わる所には特別な力が生じるってな」
「特別な……?」
リリムの問い詰めるような視線から顔を逸らせてディースは手を組み、口元を隠すようにした。
俯き加減なもので髪が重力に従い、俺の方からは表情が見えにくい。
「例えば何かを封印するとかな。十字の剣で吸血鬼退治っての、あながち間違っちゃいないんだぜ? 確かにあれで刺されたら一たまりもねーかんな」
「それで……イリアのこの傷は?」
「封印だよ。記憶の、な」
きっぱりと言って顔を起こす。
ディースの目は、真っすぐにリリムを捕らえていた。
リリムが息を呑んだのが分かる。
ディースの瞳の威力は、俺が一番良く知ってる。
射竦められたらまずは動けない。
暫くの沈黙の後、先にそれを崩したのはディースの溜め息だった。
「……イリア、ちょっとこっち来な」
「え? ……あ……」
腕を引っ張られ、よろけてディースに寄り添う形になる。
「封印を解いてやるよ。ミーシャのこと、オレのこと、全部思い出しちまえ。バカだよなぁお前も。このお嬢さんと馴れ合いさえしなけりゃ、辛いことなんてなぁーんにも思い出さなくてよかったのに」
「っあっっ!!」
返答する間は与えられなかった。
カンテラの蓋を取るや否や、中の蝋燭が十字の傷に押し付けられる。
突然の痛みと熱さに、思わずディースにしがみつく。
けれど本流はまだこれからだった。
ディースの亡霊に触れられた時のような、引き裂く痛みが襲う。
今度は激しい頭痛というおまけまでついてきた。
ずるずると床に座り込む。
「イリアっ!!?」
……誰……?
……お……母……さん…………?
「か……あさ……」
違う! お母さんはディースが殺した……。
殺した!!
急速に痛みが引いていく。
それと同時に、解けなかったパズルのピースがどんどんぴったり嵌まっていく。
気づいた途端、ディースを突き放していた。
「お前が……母さんを……」
楽しかった母との記憶。
それに突然ピリオドが打たれた日。
それから俺がディースを殺す時まで。
俺は母さんが死んだ本当の理由をしらないままに過ごした。
母さんはただ衰弱して死んだのだと。
なす術はなかったのだと……。
そしてあの日ディースは言ったのだ。
ミーシャを殺したのは自分だ、と。
人間に見つかりかけ自分が助かるために不要な足を切ったのだ……と。
表情は飽くまでもふざけていて、瞳さえも笑っていて……
咄嗟に、壁にあった銀の矢をディースの胸に突き立てていた。
そうして完全にディースが灰となって消える直前に残された十字の傷。
封印の証し。
封じられていたのは……俺の記憶……。
「でもお前も俺を殺したろ? それに嘘は言ってねー。ミーシャは確かに衰弱し切ってたし、あのときはああする他なかった」
薄笑いを浮かべた顔に平手打ちをする。
それでもディースは嗤っていた。
今度は拳で殴ろうとして、手を掴まれた。
「リリム………離せ」
「嫌ですわ。……あなたには見えませんの? ディースさんは泣いていらっしゃってよ」
思わずディースの顔を凝視する。けれど目には涙なんてなかった。
「曇った瞳では何も見ることはできませんわ。……やっと分かりましたの。わたくしは、お邪魔でしたのね」
ディースに向かって微笑みかける。
ディースは一瞬目を見開き、それから顔を歪めるようにして微笑んだ。
泣いて……いるのか?
「やっぱあんた、そっくりだよ。勘がいいところなんかもな」
何……?
「大好きでいらっしゃるのね。今もこうしてここに残っていてしまうくらい」
「半分は、な。もう半分はイリアに引き擦られてるからだ」
「本当、わたくしって馬鹿でしたわ。これでは、痴話喧嘩に巻き込まれた愚かな女じゃございませんか」
「悪かったな」
二人同時にくすくす笑い始める。
俺にはどうしてそんなことになっているのか全く見当もつかない。
けれど、さっき俺が作り出した剣呑な空気は、いつの間にやら払拭されていた。
「ミーシャもイリアも、俺にとっては大切だった。後々、ずっと後悔してた。仲間なんて、絶対作っちゃならなかったのに。ミーシャは俺の仲間にゃなってくれたが、自分を捨てることもしなかった。結局……殺すしかなかった。……お前も、俺を殺したあの日から、一切人間に手を出さなくなったよな。動物のも、くたばる直前のやつばっかで。記憶には残ってなくても、きっと意識の底にミーシャがいたんだろうぜ……って言うか、多分お前はまだ人間だったんだよ」
笑いを治めて呟くように……でもはっきりと言ったディースの言葉がやっと頭に届いた。
怒りがすうっと冷めていく。後に残ったのは……もっと別の深い、深い思い…………。
「泣いてんなよ」
「泣いてなんか……」
言われて頬に触れた。濡れて……俺の涙か……?
慌てて拭う。
どうして涙なんかが溢れてくるのか分からなかった。
悲しくなんてない。
何で……
「オレの未練って、これだったのか…………」
微かな呟きに、ディースを見詰めた。
姿が…………薄くなってる?
床には灰が薄く積もっていた
「素直じゃねーもんなぁ……お互いよぉ……」
ふわっと身体を包み込まれる。
……覚えてた。
幼い頃の温もりを。
母さんと、俺と、ディースとで、楽しかった頃のことを。
……俺は…………母さんと同じくらいディースのことが……好き、だった…………。
「じゃ……な。またすぐに会えるさ。そうだろ?」
「ディースっ……俺っ…………」
「ばぁーか。言わなくていいんだよ。そこのお嬢さんにゃ、刺激が強すぎるって」
どこからともなく風が起こる。
ディースの最期の力なのは、言うまでもなかった。
風に巻き上げられ、灰で構成されたディースの身体は跡形もなく消え去る。
その灰を手に取った。
鼻に近づけると……ディースの匂いがする…………。
「あーあ。わたくしって、本当、何をしていたのかしら。……それでイリア、あなたはこれからどうなさるおつもり?」
「俺…………?」
───マタスグアエル───
ディースの言葉がフラッシュバックする。
……そうか…………これはディースの望み…………?
「…………俺はそんなに強くない……」
側に屈んできたリリムを抱き寄せる。
母さんと同じような感触と温もりが心地いい。
「ディースの側に……行きたい…………」
「それがあなたの望みですのね。……そうですわね。好きな方のお側にいるってすごく素敵なこと。あなたが後悔なさらないのならわたくしは止めませんわ」
「リリム、悪いが……壁の矢を取ってくれ」
十年前に俺がディースを殺したもの。捨てずに置いておいたのは、いつかこの日が来ることを予想していたからなのかもしれない。
「はい」
「…………リリム…………」
「分かっていますわ。わたくしは罪悪感なんて感じませんから、心配なさらないで。これはあなた方の結婚式のようなものでしょう? やっと分かり合えたのですもの。昇華した意識が集う場所で、どうぞお幸せに」
リリムは、本当に心からの祝福を感じさせる笑みを俺に送ってくれた。
そして恭しく銀の矢を握り締める。
「誓いの口づけは、後でゆっくりとなさって。……では」
頷きを返す。
そして矢が俺の胸に深く……。
痛くも苦しくもない。
ただ急に身体が軽くなる。
にっこりと微笑んで見送るリリムに手を振った。
さらさらと消えて行くのが分かる。
そう思っているうちに、俺自身は部屋を擦り抜け、遥か高い所まで上っていた。
月が美しかった。
──終──
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