死に逝く事をお許し下さい。
何も叶へられぬ儘、死に逝く事をお許し下さい。
真っ先に目に飛び込んできた言葉にはっとして、思わず手を止めた。
一週間前に亡くなった祖父の遺品を片付けていたら、仏壇の隠しに敷いていた古い新聞の下から、更に古びた便箋が出てきた。
色褪せて茶色くなった紙に、黒の万年筆で書いてある手紙。
それと一緒に入っていた、同じくらいに色の褪せた古い古い写真。
母に聞いてみようと思ったが、何故だか言葉が出てこなかった。
聞いてはならない事の様に思った。
祖母はもう十数年も前に亡くなっている。
祖父が亡くなった今、母も知らない事かもしれない。
死に逝く事をお許し下さい。
何も叶へられぬ儘、死に逝く事をお許し下さい。
私は何を守れたのでありませう。
國、母、妹、そしてあなた。
國の為に死に逝く、其れを後悔しているのではありません。此の身が國家の礎となるならば、私は其れを喜びます。
しかし、國を形作る人々を直接には守る事もできず。
私が死んだ処で、戰局も変わらぬのでせう。
私や友の死が、あなたの今後を作つてくれるのでありませうか。
屹度、さうなのでせう。
さうでなくては、私の生きた意味がない。
私は最後まで、あなたを忘れる事などありませんでした。
其れを知つて戴きたくてこの書簡を認めております。
此の様な事を記しては、軟弱だとお怒りかも知れません。其れでも、私は今、あなたへ傳へねばならぬのであります。
母には申し譯無いとお傳へ下さい。
貴女の息子は、誇り高く、國の為に力を尽くし、貴女の為に力を尽くしました、と。
母はあなたが傳へるまでもなく、其れを知つているでせう。ですから、この最期の、秘密の書簡は私が家族の他にただ一人、愛した者へ送ります。
此は私があなたへ贈る事の出来る、唯一つの形あるものです。
あなたはご自分を恥じて下さいますな。
あなたのお仕事も、國にとつて必要な事です。
私が戰闘機に乗り、敵艦隊を駆逐する為に飛び発つのと同じ程、いいえ、それ以上に、あなたのお仕事は皆の為になる事なのであります。
あなたのお仕事は、この戰争が終わつた後に必ず役に立つのです。
兵役に就くばかりが、お國の為ではありません。生み育てて下さつた父母の為でもありません。
あなたは誇りを持って、あなたのお仕事を完遂して戴けますやう、私は、その為にも旅立つのであります。
あなたは生きて下さい。
生きて、此の國の今後を見届けて下さい。
あなたへの言葉を最期に残せた事を、何より嬉しく思います。
ありがとう。あなたを知る事が出来た。あなたを愛する事が出来た。
此の短い生の中で、此程の想いを知る事が出来た。其れは如何程の僥倖でありませう。
私は、あなたへ未来を捧げるのであります。
其の為に飛び立つのです。
あなたが充分に身体をいとい、此の後を生きて行かれる事を、切に願っています。
もう一度手紙をよく読んだ。
これは恐らく祖母に送られた手紙なのだろう。
祖父と結婚する前……戦時中に恋人が居て、その出撃直前に認められた遺書だ。
自分の母親に送るより優先するとは、婚約でもしていたのかもしれない。
何気なく写真に目を落とす。
二人の男が写っていた。
仲良く、満面の笑みを浮かべて寄り添っている。
どちらもなかなかの美形だ。
じっくりと眺めて片方には……それとない見覚えがある様な気がした。
皺を被せて少々背を丸め、老い窶れた風にすれば……先頃亡くなった祖父に似ていた。
隣に立つ精悍な男と楽しげに肩を組んでいる。男は昔の軍服の様なものを着、祖父らしき男の方は国民服というのだろうか、教科書で見た様な格好をしていた。
裏を返すと、撮影場所と写っている人のものであろう名前が片隅に書いてあった。
覚えのある名字だ。祖母の実家ではなかっただろうか。
それでは、この祖父の隣に立つ青年は、大伯父なのだろうか。
「そっちは終わった?」
箪笥の片づけをしていた母が、様子を伺いに来る。
傍らに膝をついて、私が手にしていた写真を覗き込んだ。
「あら…………お父さんの写真……若いわねぇ」
「ねえ、この人、知ってる?」
写真の裏を見せて名前を示す。
「…………? どうしたの、それが?」
「この写真の人。お祖母ちゃんの実家の名字と同じだと思って」
「ちょっと待って」
母は立ち上がり、側の書棚で何かを探し始める。
遺産だとか何だとか、そういう事に関わりのある書類を積み上げた中から一枚の紙を引き抜いた。
「ああ……何処かで見たと思ったの。これ……その人じゃないかしら」
見慣れない書類だった。
戦没者の遺族に対する特別な弔慰金について、そう読めた。
祖父が亡くなった事で失効するのか、それとも誰か伯母や伯父や私の父母が継げるものかなんて分からないが、確かに写真の裏にある名前と同じ名が、戦没者として記載されている。
祖母の、兄の様だった。
不思議な気がして、もう一度手紙に目を落とす。
「ねえ、お母さん。お祖父ちゃんって、戦争に行ったの?」
「いいえ。理系の大学へ行っていたのと、身体が弱かったのとで出征はしなかったって聞いたけど…………余り詳しく教えてくれなかったけどね。やっぱり、戦争って……誰にもいい事なんてなかったんだから」
もう一度便箋を見る。
古びているけれど、幾筋もの折り跡が見えた。こんな内容、検閲されたらお終いだ。直接手渡されたんだろう。
優しく穏やかな様子を崩さなかった祖父の顔が過ぎる。
目頭が熱くなった。
「どうしたの。おかしな子ねぇ……」
もう六十年以上も前の想い。
未だに、大切に奥底へと仕舞ってあった想い。
母に読ませるのは憚られて、便箋を折り目通りに小さく畳み、写真と重ねる。
「これ、一緒に燃やしてあげたかったな」
「友達との写真?」
「……うん」
「そう……今度、お寺へ持って行ってあげるといいわ」
「うん。……そうする」
仏壇の隠しの新聞の下に再び仕舞う。
邪魔は出来ない。
やっと、会いに行けたんだろうから。
終
作 水鏡透瀏