捻った蛇口から溢れる流水に両手を浸す。
指先から熱が逃げていくのを感じながら、私は吐息を吐いた。
「 はあ・・・ 」
・・・幸村くんと・・・キス、しちゃった・・・。
自然と蘇る記憶に・・・ここがトイレであることも忘れて蹲りたい気分だった( そこは我慢するけど! )
ゆ、ゆゆ幸村くんとはこいこい恋人同士、なんだしっ!?い、いつかこういう、こと、するって想像していなかったらうううう嘘になるけど!( 絶対市ちゃんの貸してくれた雑誌の影響だっ )
どっ・・・どうしよう、どうしようどうしよう!心の準備、というか・・・は、はじ、初めてのデートで、キ・・・。
あー!私の馬鹿!!これじゃあまるで後悔しているみたいじゃない!!
「 ( 本当は、本当は・・・嬉しくてたまらなかったくせに・・・っ! ) 」
今日は『 特別 』だから『 特別な私 』で幸村くんとデートしたかった。
期待してなかったら・・・リップなんてつけてこない、し・・・。
鏡に映った自分は真っ赤な顔をしていて、半分放心した顔をしていた。
当然、唇に視線がいく。とうにリップは剥げて、素の色をしていた。
触れずとも解る・・・そこに、確実に残っている自分以外の温度があった、と。
余韻に浸るようにぼんやりと鏡を見つめていると、背後で物音がして慌てて我に返った。
背後で閉じていた扉が開いて、ひとりの女性が隣に立った。
「 ( ・・・わ、綺麗な人・・・ ) 」
紅色の髪を靡かせた女性は、何気ない動作でかき上げた髪を耳にかけて屈んで手を洗う。
その行為すら様になっていて、思わず見惚れてしまっていた。
立ち尽くしていたのを誤魔化すように、私は持っていたポーチを漁る。
リップクリームを取り出して塗っていると、被せる予定の蓋が床に落ちた。
「 あっ 」
慌てて手を伸ばす、が、床に落ちる前にすっと手が伸びた。
長い指が蓋を掴み、口を開けたままの私のてのひらに、ころんと転がす。
「 ありがとう、ございます・・・ 」
「 いや、構わない 」
高いとも低いとも言い難い、強いて言うなら大人っぽい声で彼女が言う。
軽く頭を下げると、ふっと笑う。切れ長の目元に引かれた、落ち着いた色のアイシャドウが似合っていた・・・うわ、やっぱり美人だぁ・・・。
トイレを出ようとすると、彼女と同じタイミングで通路へと戻ることになった。
固い廊下に響くヒールの音。すらりとした背中を追いながら、私は自分の踵を少しだけ持ち上げてみる。
「 ( いつか、こんな素敵な女性になって幸村くんの隣に立てたなら・・・ ) 」
幸村くんって・・・すっごいもてるんだもん。バレンタインの時が集大成だったかもしれないけど、私みたいにアピールできなくて燻っている人を足せばもっと居るはず。
今は、付き合っていることがあまり公になっていないから騒がれないけど、いつか広まることは想定できる。だから『 その時 』が来た時に、周囲が認めてくれる・・・までは難しいとしても、彼が、隣に置いても恥ずかしくないと思ってくれる人間になりたいな。
そんなことを思いながら、また仄暗い深海フロアへと入っていく。
暗くなっていく足元から視線を上げて、幸村くんを探そうと・・・・・・。
「 ゆっ、幸村くんっ!? 」
さっきまで居た通路の入り口で、何故か戦闘態勢の幸村くん・・・を羽交い締めにする元親さんに、向かいには、拳を振り上げて暴れる政宗くんがいた。加えて、そんな政宗くんを、同じように羽交い締めで押さえる小十郎さんに、彼らの真ん中で仲裁しているのは、慶次さん・・・まで一緒だった。
「 ( い・・・一体、何が・・・!? ) 」
全く読めない状況に固まっていると、あ、ちゃーん!と慶次さんが私に片手を上げた。
「 さやか、ちゃんと一緒だったんだな 」
「 ・・・さやか?? 」
「 その名で呼ぶなと言っている 」
答えたのは前を歩いていた彼女だった。殺気立ったような、不満げな声が聞こえて、背中越しにもどれ程苛立っているか・・・解る。とてつもなく美人で、お手洗いでリップクリームの蓋を拾ってくれたこの女性が・・・。
「 さやかさん 」
口に出してしまった後に、慌てて自分の手で塞ぐ( うう、しまった! )上半身を僅かに捻り、きろ、と瞳だけ動かして見つめられると、先程とは打って変わった雰囲気に背筋がぴりっと凍った。
「 ・・・お前が、猿飛が妹同然の存在だといっていた、とやらか 」
「 は、はい! 」
「 私のことよりも、とりあえずは目の前の事態を収拾してはどうだ? 」
い・・・妹同然の存在、って佐助さんが?そんな風に、さやかさん(仮)に紹介してくれていたなんて・・・。
じーんと感動していたが、泡のようにすぐ弾ける。さやかさん(仮)の言う通り幸村くんたちを何とかしなきゃ!
睨み合った2人の前に駆け寄る途中、慌てたせいで何にもない場所で転びそうになる。
慣れないヒールがぐにゃりと曲がって、バランスを崩した身体をすかさず慶次さんが受け止めてくれた。
あああーッ!!!と政宗くんと幸村くんの息の合った悲鳴に、たまらず身体を竦める。
「 大丈夫かい?ちゃん 」
「 ありがとうございます・・・あ、あああの、それで、この状況は・・・ 」
「 !その大男から離れろ!!てめェ、俺のオンナに触れて、ただで済むと思うなよ!? 」
「 殿は某のっ!某の、かかっ、かの、じょッ!でござるぅぁああああ!!! 」
「 ・・・ってな訳さ。わかったかい?? 」
わ・・・からなかったけれど、首を振れない雰囲気だった。
曖昧に頷きもせずにいると、突然襟元を引っ張られる。
身体を支えてくれていた慶次さんの腕を離れて、背中にどん!と衝撃を受けた。
小十郎さんの隙をついて逃れた政宗くんが伸ばした腕が、私を吊り上げたのだ。そう気づいた時には、すかさず反対の手が腰に回っていて、背後から抱きすくめられてしまうと、女の私の力ではとてもじゃないけど抜け出せなかった。
「 あっ、あのっ、政宗くんっ!? 」
「 Say no more.帰ろうぜ、。話はそれからだ 」
心地良い低さの声で囁かれた上に、そのまま耳たぶを甘噛みされる( ひィっ! )
息を呑んだ私だけじゃなく、政宗くんを見ていたチカさんも慶次さんもぎょっとした顔をしていたけれど。
中でも、真正面に居た幸村くんの顔が歪むのを見て・・・胸が痛んだ。
・・・これじゃ、いけない!私は嫌がるように首を振って、背後の政宗くんに髪の毛を押し当てる。
「 ・・・わ、っぷ!! 」
怯んだ政宗くんの手が緩まったのを合図に、私はすかさず幸村くんへと手を伸ばした。咄嗟のことだったけれど、伸びた手をタイミングよく引っ張ってくれたおかげで、今度こそ・・・幸村くんの胸の中に飛び込む。
「 ま・・・政宗くん! 」
幸村くんと付き合っていることを知っても、政宗くんは今まで通りに接してくれる。
でも、その優しさの上に胡坐をかいてちゃだめなんだ。
恥ずかしがっていても何も変わらないし、何より・・・政宗くんに悪いもの!
「 私は、ゆき、幸村くんの『 彼女 』で・・・今日は、幸村くんと2人で過ごしたいっ!
だから、こ、これで失礼しますっ!! 」
勢いよく頭を下げて、私は繋いでいた幸村くんの手を引っ張る。
呆気にとられていたのは、その場にいた見知った顔だけじゃなくて・・・幸村くんも、だったみたい。
その場にいた全ての人たちの視線から逃れるために一気に突っ走った私は、出口の看板の下に着いた途端、とうとうしゃがみ込んでしまった。最後の力を振り絞って、通路の隅へ避難すると、よろけてぶつかった壁にそのまま凭れかかる。
「 殿!?大丈夫でござるか 」
「 はあ、はあ、は・・・だ、大丈夫・・・ 」
緊張が解れたことも手伝って、膝や足の力が抜けてしまっている。
上がった息を必死に整えながら、私を覗き込んでくる幸村くんと視線を交えた。
彼はにこ、と微笑んで、
「 ・・・嬉しかったでござる・・・ 」
と言った。
「 でも・・・当たり前のことだよ? 」
「 ・・・そう、でござるな。でも、その” 当たり前 ”がとても嬉しかったのだ。
殿が某を選んでくれて、2人で過ごしたいと言ってくれて 」
「 ・・・・・・?? 」
首を傾げるが、頬を染めてはにかむ幸村くんを見ていたら、正直どうでもよくなってきちゃった、かも・・・。
だって・・・本当に、本当に嬉しそうに笑うんだもん。私まで何だか心が温かくなってきた。
しばらくして、幸村くんの手を借りて立ち上がる。帰ろうか、と言われて素直に頷いた。
潜った時も、その美しさに目を瞠ったけれど。地上に出てみれば、水平線に浮かぶ夕焼けに目を奪われた。
海から上がったみたいだね、と呟く私の隣で、幸村くんが静かに微笑む気配がした。