「 ( 怖い ) 」
こわい、こわい、こわい。
前を歩く幸村くんの表情は読めない。先程まで引かれていた手もいつしか離れて、距離も広がる。
心臓の音が煩い。震える両手を組んで、胸の中に抱え込んだ。
こんなに『 怖れ 』を感じることは久しくなかった。そう、武田家にお世話になってから、だ。
・・・もうすっかり忘れていた。恐れ慄くって、こんなにも苦しい感情だったって今頃になって思い出す。
幸村くんがいて、お館様がいて、佐助さんがいて、政宗くんやかすがや、皆がいたおかげで。
砂糖菓子のように甘い幸福感に包まれていたのに、冷水を浴びせられたような感じ。
「 ( い、いや・・・また、あんな・・・あんな苦しい想いをす、するの、はッ・・・! ) 」
カラカラに乾いた喉が引き攣った。それは凄く小さい音だったのに、幸村くんが振り向く。
「 殿? 」
「 ・・・・・・っ!! 」
あんなに振り向いてほしいと思っていたのに、いざ見つめられると、どんな顔をしていいかわからなかった。
さっきまではちゃんと笑顔を作れていたのに。彼の瞳に映った自分は、どこか縋るような表情をしていた。
そんな私を見た幸村くんは怪訝そうに、だけど浮かない顔をした私を心配してくれていることは解った。
もっと冷酷な視線を向けられるかと思っていたのに。
彼の心が・・・100%自分から離れた訳じゃない。それが解ると、途端に安堵してしまった。
「 ・・・ふ、っ・・・うっく・・・ 」
ほっとしたら、とめどなく涙が溢れた。
幸村くんがぎょっとしていた。だ、だめ、こんなところで泣いたら迷惑になる。
その前に、一緒に居る幸村くんに恥をかかせることになっちゃう。それは嫌。これ以上、き、き・・・
「 きっ、らわれたく、ない・・・っ! 」
「 えっ!? 」
思わず声に出て、慌てて口元を抑える。指の隙間から入り込んだ涙が、掌を濡らした。
もう泣いちゃだめだと思うほど止まらなくて、私はぎゅっと瞳を瞑る。でもまた涙が零れた。
「 殿っ、な・・・泣かないでくだされ・・・! 」
蹲りそうなほど身体を丸めて嗚咽する私の両肩を、大きな掌が掴む。
「 ううっ、ご、ごめんなさ・・・っく・・・ぅえええ・・・ 」
「 某が・・・某が、殿を嫌いになることなど・・・、っ!? 」
と、そこで言葉を切って、彼はきょろきょろと辺りを見渡しているようだった。
突然の行動に、涙まみれの顔を上げて彼を見守っていると、幸村くんはその一点を見つけて、僅かに顔を輝かせる( ・・・?? )そして、こちらへ、と私の肩を抱いたまま暗い廊下を奥へと進んだ。
窪みの突き当りには蛍光塗料で書かれた『 STAFF ONLY 』の文字。
暗くてそれらしき影は見えないけれど、どうやら水族館の表裏を繋ぐ扉を隠すための空間らしい。
「 ( こ・・・こんな場所に立ち入っても大丈夫、なのかな? ) 」
促されるまま、廊下の奥に在った凹みの壁に身体を預けたはいいが、一抹の不安を覚えた私の耳に、わあ!と一際大きな歓声が聞こえた。
そういえば、見覚えのある大きなアクアリウムの脇を通った気がする。きっと最初の場所に戻ってきたんだ。
知らない場所じゃないと思うだけで、ほんの僅かだけど肩の力が抜けた。
「 ・・・・・・! 」
ふいに、ぐるりと視界が反転する。
あまりに驚いて涙も止まった。掴まれていた肩を壁に押し付けられて、その両脇を彼の腕で塞がれる。
ひくっ、と最後のしゃっくりが上がって、私は震える声を絞り出した。
「 ゆ・・・き、む、らく・・・ 」
「 そのように・・・そのように無防備に、泣かないで、くだされ。某だって・・・泣きたいくらいだ 」
「 ・・・え・・・? 」
予想外の答えに、きょとんとしてしまう。
視界が慣れてきたおかげで、おぼろげではあったが、俯いた幸村くんの顔がすぐ近くに在った。
泣きたい。そう言った彼の言葉に戸惑っていると、ゆっくりと面を上げる。
しな垂れた前髪の奥で、強い光を放つ双眸に心臓が震えた。
「 ・・・某は、殿が好きだ 」
ストレートな告白に、驚いて、嬉しくて・・・でも、焦った。
両腕の囲いの中、ただでさえ動けない私の膝の間に、彼の右足が割り込んできたのだ。
腿に張り付いたスカートの裾を直そうとするが、伸ばした手を幸村くんが掴んだ。
捻った手首を壁に縫い付け、彼の身体ごと押し戻される。彼も私も、僅かな吐息すら触れる距離。
余りの恥ずかしさに躱したくても、今度こそ身動きひとつ取れなかった。
「 あっ、あのっ!ゆ、幸村くん・・・っ!! 」
「 ずっと一緒に居たいと思う。片時も離れていたくない。独り占めしたい。某だけを見ていて欲しい。
でも・・・笑っていて欲しい。皆の為に全力を注ぐ殿の姿も・・・好きなのだ 」
「 ・・・・・・・・・ 」
怖かったはずの幸村くんの表情が、ぐしゃりと泣きそうな顔に変化する。
歯を食いしばったまま苦しむ彼に、私は言った。
「 私も、好き、だよ 」
拘束されたままの体勢ではちょっと苦しくて、ふ、と吐息を吐き出しながら微笑む。
「 私の方こそ、幸村くんに傍にいて欲しいって思ってる。なのに、今日はごめんね。
何か・・・一緒に出掛けられると思ったら、本当に嬉しくて・・・浮かれ過ぎちゃって。
幸村くんに不快な思いさせちゃったよね。ごめんなさい 」
「 殿・・・某の方こそ、すまぬ。つまらない意地を張って振り回したでござる 」
「 ううん、そんなことないよ!だって私の我儘で色んなものを見たいって・・・ 」
「 いや、某が・・・・・・・これでは水かけ論でござるな 」
「 ふふふっ、そうだね 」
張りつめていた空気が解けたら、途端におかしくなってきて。
肩を揺らして笑う私の手が、ゆるゆると解かれる。元の位置に戻った手をお互い重ねて、私たちの僅かな隙間に抱え込む。
とくん、と鳴る彼の鼓動がその手を通して伝わる。きっと・・・今、私の胸元に触れている彼の手にも、私の鼓動が伝わっているはずだ。
ちょっと恥ずかしいけれど・・・私がドキドキするのは『 一番大事な 』幸村くんの傍にいるから・・・。
「 殿、ありがとう 」
某の、身勝手な振る舞いも、心無い言葉も、受け入れてくれて。
彼らしからぬ、噛みしめるように呟いた言葉に・・・首を振る。
照れた様子の幸村くんと目が合い、今度は二人で頬を染めて微笑む。
すると、彼は固く繋いだ手を口元に持ち上げたて、私の手に、ちゅ、と吸い付いた。
一瞬にしてフリーズした私に、そっと唇が近づいて・・・。
「 好きだ 」
再度上がったアクアリウムの歓声の陰で。
幸村くんの甘い囁きは、初めて重なった唇の熱に・・・ゆっくりと溶けていった。