身体の揺れが治まると、重く閉ざされていた瞼を、ようやく開く気になった。






 薄く開いた視界に映るは、蒼い世界。
 染まって見える指先も、足元も、自分のものなのに・・・ぴくりとも、己の意思では動かない。
 頭が重い、そして時折痛む。考えることすら、今は拒否したかった。
 ゆらゆらと揺れる視界・・・まるで、冷えた湖の底にいるようだ、と思った時だった。


「 酔っ払いの旦那は、此処に下ろしていくから。あとはよろしくね、ちゃん 」
「 はい。佐助さんも、お仕事頑張って下さい 」


 ありがとさん、という佐助の嬉しそうな声と、彼女の、クスクスと笑う声がする。
 ( 頭でも撫でられたのかもしれぬ )( ・・・む、佐助のヤツ、勝手に触るでない! )
 佐助の気配が、完全に消える。彼女のひと息吐く気配がして、湖底にいる某の横に膝をつく。


「 幸村様、起きてくださいまし。お布団、整えましたから。そちらで横になってくださいまし 」


 の手が、某の身体に触れてくれるのが、嬉しくて。
 そのまま寝たふりをしていたかったが・・・あまり困らせて、泣かれたら某が困る。
 ゆっくり目を開くと、覗き込んでいたが微笑む。


「 ・・・・・・、 」
「 大丈夫ですか?お布団のところまで、歩けます? 」
「 無理だ・・・此処で、横になりたい・・・ 」
「 いけません!風邪なんか引いたら、私がお館様や佐助さんに怒られます!! 」


 さ、・・・と差し出された手を掴もうと、動かぬ指先に力を籠めた。ぎし、と音がした気がした。
 彼女の手に触れた途端、彼女の体温が、急速に某の身体を侵食する。
 湖面から抜け出したように、重力をこの身にどっと浴びて・・・横に倒れた。
 の小さな悲鳴。思うように身体が動かなかったが、必死に、悲鳴のした方角に顔だけ向ける。


「 っ! 」
「 い、たた・・・私は大丈夫です。幸村、様は? 」
「 す・・・すまぬ、怪我はないか? 」
「 はい、平気ですよ 」


 横倒しになった某につられて、彼女までそのまま転んでしまったようだ。
 ほ・・・と安堵の溜め息を吐いたのを見て、は心配し過ぎです、と苦笑を浮かべた。
 ( そなたに怪我などさせたら・・・悔やんでも、悔やみきれぬ )
 は、膝を突いたまま、器用に廊下を滑る。
 横倒しの姿勢から、未だ起き上がれない某に近づいて、ちょこんと正座した。
 首を傾げた某の頭を、両手で持ち上げる。そして・・・正座した自分の腿に下ろした。


「 な、ッ・・・!! 」
「 ふふ、久しぶりですね。こうやって、幸村様の頭を膝に乗せて差し上げるのも・・・ 」
「 ・・・そう、かも・・・しれぬ・・・ 」
「 酔いが醒めるまで・・・少しの間、こうしていようか、弁丸 」


 ・・・なんと。
 弁丸とは・・・随分、前の呼び名を( もう元服して、何年も経つというのに )
 砕けた口調のを見上げて微笑めば、彼女も照れたように笑った。






 は・・・幼い頃からずっと某の傍で、女童として仕えてきてくれた者だ。
 勉強するのも、遊ぶのも、悪戯するのも、何処へ行くのにも一緒だった。
 ・・・いわば、某と共に育った、姉弟のような存在。


 他の女人とは違う、もっと近くて、大切な・・・。






「 ・・・ 」
「 なあに? 」
「 そ、その・・・頼みがあるの、だが・・・ 」


 ただでさえ、久々の膝枕にこそばゆい気持ちなのに。
 『 頭を撫でて欲しい 』などと言ったら・・・顔から火が出てしまいそうでござる!
 ( でっ、でもっ!あの頃を思い出したら、急に撫でて欲しくなったのだ・・・っ! )
 あー・・・うー・・・と言葉にならない呻き声しか上がらない某の髪に、触れる手があった。
 その手の邪魔にならないように、目線だけ上げれば・・・。


「 撫でて欲しかったんでしょ?顔を見てれば、わかるわよ 」
「 ・・・うッ!! 」
「 弁丸は、考えが顔に出過ぎ。ねぇ、ほら・・・綺麗な月だよ 」


 が、視線を上げる。蒼い世界に、ぽつりと浮かんだ、白い月。
 神々しくさえ見えるその静かな月光に・・・某は、瞳を細めた。














 ・・・この月だけは、変わらぬ。




 幾月も、幾何年経っても、変わらぬ光で・・・某とを照らしている。
 某のことを、誰も好いてくれないと。母上はどうして傍にいないのだと泣いた夜。
 がこうして・・・膝に頭を乗せて、小さな手で頭を撫でてくれた。


『 弁丸には、がいるよ 』


 優しいてのひら。
 そのてのひらに甘えていたくて、泣いたフリをしたこともある。
 そんな某の思惑なんかに、欠片も気づかず・・・はいつだって某の傍にいてくれた。














 そうだ・・・某には、がいる。


 ずっと、ずっと・・・と唱えながら薬指を絡めた、永遠の、約束の相手。














『 幸村よ・・・そなた、いつまで独り身でおるつもりだ 』




 今夜・・・いつも呑まない酒を、ここまで深く呑んだのには・・・訳がある。
 わざわざお館様が、某の屋敷に足を運んでまで持ってきて下さったのは、とある姫との縁談。
 丁重にお断りさせて頂く旨を伝えると・・・頭を下げた某に、そんな言葉が降った。


 ・・・頭は、上げられなかった。






 皆が思う程、某は『 女子 』が苦手なワケではない。
 某が欲しいと・・・手に入れたいと思う唯一の『 女子 』は、この世に一人しかおらぬ。






 ただ・・・それだけのこと、なのだ・・・・・・














「 べ・・・・・・幸村、様? 」


 頭を撫でていた手を掴まれたからか、が驚いたような声を上げた。
 おろおろと伺うように、覗き込んでくるのその手に・・・縋るように唇を寄せた。


「 ・・・・・・ッ!! 」
「 ・・・どうか、頼む、某の・・・ 」
「 ・・・幸村様? 」
「 某の、手を・・・っ! 」






 は な さ な い で く れ






 某の顔を見るだけで『 何でも 』解ってしまうのなら・・・今の某を、見ないで欲しい。


 ・・・『 弁丸 』とは、もう呼んでもらえないのか。
 あの頃には・・・もう、戻れぬのか。


 変わらぬ月、変わらぬ彼女の笑顔。
 某との・・・どうにも変えられぬ、主従という関係。
 ( それを打破する方法が・・・今の某には、わからない )


 この気持ちがにバレてしまえば、きっと、何かが『 変わって 』しまう・・・。
 そなたは、恐れ多いと離れていってしまうだろう( そういう奴だと、某が一番知っている )










 それだけは・・・が、某の傍を離れてしまうことだけは・・・避けなくては。










 心の底の本音を飲み込んで、ぎゅっ・・・と彼女の腰にしがみつけば。
 いくつになっても、某の思惑に微塵も気づかぬが、優しい微笑みを浮かべて。
 自分の膝に、顔を埋めた某の頭を、優しく、優しく撫で続ける・・・。


「 まあ、大きな甘えんぼさんですこと 」
「 い、今だけ・・・特別、でござる・・・! 」
「 ふふっ、はいはい・・・今だけ、特別に、いっぱいいっぱい甘えていいですよ 」


 ・・・こんなに甘えられるのは、酒の勢いがなければ出来ぬ。
 小さい頃のように、を抱き締めて、彼女の香りにこっそり酔うなど・・・。


 ( 本当は・・・酒なんかよりも、出逢った時から『  』に酔っているのだから )


















 ならば、この機会、とことん生かすまで・・・と


 相も変わらぬ、卑怯な自分を・・・・・・月だけが、見ていた







( 不変のものなど、ないのは解っている。けれど、流れいく時間の中で、もう少しだけ・・・抗ってみたいのだ )



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