小鳥のさえずりが、意識の中で徐々に大きく響いていく・・・。




光の差し込む方向へと首を向ければ、朝陽の光が部屋に零れ落ちている。自然と頬が緩んだ。
強張った身体を伸ばそうとするが、腰の間に腕を通して抱きついたままの、彼の肢体。
零れる光に照らされ、夫の・・・伯言の白い肌に、睫が影を作っている。
時間を重ねてもまだまだあどけない寝顔に見惚れていると、その影が細かく震えた。


「 ・・・ん・・・・・・おはよう、ございます 」
「 おはよう、伯言 」


よく眠れた?と尋ねると、ええ、とても・・・とにっこり微笑む。


「 貴女が傍にいて、眠れない日なんかありませんよ 」
「 ・・・眠らせてくれない日はあるけれど・・・ 」
「 愛余って、という理由で許してください。が好きで、手を出さずにはいられないのです 」
「 軍師のくせに・・・もう少しまともな言い訳したらどうなの? 」
「 邸に帰れば、私もただの男ですから。それに、愛妻家として立派な言い訳だと思います 」


胸を張らんばかりの伯言に、照れて怒るフリをするのはとうに卒業した。
彼が私をどのくらい想ってくれているかなんて、今更確かめるまでもないから。ありがとう、と 素直に頬を染めれば、どういたしまして、と彼は瞳を細める。そして、私の口元へとそっと唇を寄せた。
ん、と唇の端から吐息が漏れる。伯言の身体がごろりと反転して持ち上がり、私を覆った。


「 ・・・ん、むッ!ふぁ、んあぅ・・・! 」


昨夜あれだけ愛し合ってもまだ足りないのだと、伯言が無言のまま求めてくる。
素肌が触れ合う度に鎮火したはずの熱が燻り始める。舌を絡めて、夢中になって応える私の身体へ 彼の手が触れた瞬間、ようやく理性を取り戻した。ぱっとその手を払う。


「 はっ、伯言ってば!今日はだめ!!予定があるでしょ!? 」
「 ・・・・・・・・・そう、でしたね 」


必死の訴えに、至極残念だと言わんばかりの表情で彼は項垂れた。いつもなら強行突破もあり得るのだけど 『 今日 』という日をどれだけ私が待っていたか・・・伯言は理解してくれている( はず )
それでも、肩を落としたままぶすっと頬を膨らませて牀榻から動こうとしないのは、せめてもの反抗・・・といったところか ( まったく・・・いつまで経っても、そういうところは子供なんだから・・・ )
やれやれ・・・と小さく溜め息を吐いて、


「 ・・・帰ってきてからの、お楽しみにしましょ? 」


と耳元で囁くと、こちらがびっくりするほど勢いで牀榻から起き上がり、さっさと身支度を済ませた。


「 その言葉を待っていましたよ、!さ、出かけましょうか!! 」


帯を結ぶと、今度は私の着物を持ってきてくれる。お手伝いしましょうか?と嬉々とした申し出を きっぱりと断って、私も自分の装いを整える。馬に乗るから裾の軽いものにしなきゃ。それから・・・。
髪をまとめていると、卓の上に置いていた『 それ 』を、伯言が手に取って格子の光にかざす。
朝陽を受けて光り輝いたそれを愛しそうに見つめると、私の首へと手を回した。


「 ありがとう、伯言 」
「 よく似合います。さて、冗談抜きでそろそろ出発しないと・・・行きましょう 」


一足先に部屋から出た伯言は、予め用意していたものを家人に持ってこさせると厩舎へと向かう。
かけてもらった琥珀の首飾りを胸奥にしまうと、私も彼を追った。
















目的地に到着すると伯言が降り、続いて私を鞍から降ろした。
短い芝地の上に降り立つと・・・『 そこ 』までほんの数歩の距離なのに、一瞬立ち竦んでしまう。


呉を離れた時には・・・ううん、陸家に捕らわれた夜から、私は『 私 』でなくなった。
いつぞや抜け出した時には、街から離れたこの場所まで足を運べる距離ではなかったし・・・。
ここに来れるとは夢にも思えなかったから、今こうして彼らの前に立てることが奇跡のよう。


「 ( ・・・でも、だからこそ、きちんと報告しなきゃね ) 」


鼻を啜って顔を上げれば、微笑んだままの伯言がとん、と背中を押してくれる。
家人が用意してくれた花束を、両親の墓に献花した。


「 お父さん、お母さん、しばらく全然顔を出せなくて、ごめんなさい。
  蜀から呉に戻ってからの一年間、色々合って・・・順番に報告していくね、まずは 」






まずは・・・私、戸籍を復活させて、お父さんとお母さんの『 娘 』に戻りました。






新しい戸籍を作ることもできたけれど、わざわざ死んだ戸籍を復活させるのには理由がある。
様々な手続きが必要で、それでも敢えて面倒な道を選んだのは、伯言が私を気遣ってくれたからだ。


「 愛しいを、この世に生み出してくださったお父様とお母様は私にとっても大切な存在。
  その『 子供 』として、には堂々と胸を張って私に嫁いでほしいと思うから 」


特に、形見である首飾りには救われましたから・・・と言った。その辺りの詳しい事情を聞いても、 伯言は『 内緒です。自分の、稚拙な葛藤なのでに語り聞かせるには恥ずかし過ぎる 』と 教えてくれないのだけど・・・要は、そのお礼らしい。


ただ、平民の私の身分で嫁ぐのには、伯言につり合わない。


最初からわかっていたこととはいえ、直面してみると思った以上に辛く、心苦しかった。 陸家の徳にならない婚姻をし、平民の私を正妻に据えることは陸家一族のみんなにも申し訳が立たない。
こればかりは伯言でもどうしようもなくて、困っていたところに手を差し伸べてくれたのが・・・練師さまだった。


「 その件に関しては私にお任せください。最後までさまのお手伝いをしたいのです 」


港まで迎えに来てくれた彼女は、力強く頷いてくれた結果・・・何と私の後見に孫権さまが ついて下さることとなった。さすがの伯言もこれには目を見開くほど驚いて、私は卒倒しそうになった。
あ、あまりに恐れ多くて、何度も丁重にお断りしたのだけれど・・・。


「 孫権さまはさまに、非常に感謝していらっしゃいましたからその功績を称えたいと。
  また、今なら孫家の庇護を与えても誰も文句はいえまい、と仰っていました 」


『 陸家の令嬢 』は火災で亡くなったことになったため、蜀との同盟は変わらずだ。
また陸家の繁栄を願う陸遜さまにとって、孫家の後ろ盾以上の縁談はありますまい、と満足げに微笑む。 嫌な汗が背中を流れる中、伯言は驚愕などすぐに引っ込めて隣で涼しい顔をしていた。
練師さまに向かい合った卓の下で、汗まみれになった私の手をこっそり握ってくるけど・・・ い、今はそんな気分にないんだけどっ!( 何なの、どうしたのよ!? ) 窘めるように視線を投げると、伯言は手を離す。椅子から降りて最敬礼である稽首をし、深く頭を下げた。


「 孫権さまと練師さまのご厚意を心より感謝いたします。この陸伯言、ご恩を一生忘れません。
  今後はより一層、孫呉のために全力を尽くす次第です・・・と、共に 」
「 れ、練師さま、ありがとうございます。孫権さまにも、私、何てお礼申し上げたらよいか・・・! 」
「 よかったですわね、これで心置きなく陸遜さまの・・・本当の妻になれるのですから 」


愛に身分など関係ない、と言うのが簡単だけど、陸家だけは特別だから。
練師さまは優しい口調で、以前のような仲睦まじい御二人の夫婦姿を見られるのは私も幸せですわと言った。 感動して胸が震える。その間もずっと私の手を握っていた伯言・・・表に感情を出さない彼なりの興奮 表現だということは、後から気づいた。






「 華燭の典の前に、と思ったけれど準備に手間取っていて・・・ようやく3日後、儀式に臨むの。
  もっと早く此処に来ようと思ったけれど、落ち着くまではいいかな、と思うだけの理由があった。
  此処に来ることは、過去のすべてを受け止め、前に歩き出すことだもの。
  いつか必ず訪れる日だとしても・・・今が幸せ過ぎて怖かった。
  過去を受け止め現実に戻った時、この夢のような日々も覚めてしまうような気がして・・・ 」
「 ・・・・・・ 」
「 両親を亡くして女将さんの元で働いて、伯言に出逢って、一度は子龍さまに嫁いだ。
  毅然として見えたかもしれないけど、辛くて、悲しくて、何度も自分の運命を呪いそうになったわ。
  でも・・・『 過去 』が今の私の為に『 在る 』のなら、あの苦しみも一つも無駄じゃなかった 」


両親の墓を前にこみ上げる想いが止まらない。語るうちに、いつの間にか泣きじゃくっていた私は、 一歩後ろで控えていた彼に顔を上げて向き合う。そんな私を伯言は真摯な眼差しで見つめていた。


「 私だって、同じです。貴女がいなくても陸家は栄えると他人はいうかもしれません。
  けれど、貴女がいなくて陸伯言の幸せはあり得ないのです。この想いは永遠に変わりません。
  ・・・貴女と出逢えてよかった。貴女に出逢えた私は、最高に幸せな男です 」


だから、とくるりと振り向くと墓標に頭を垂れた。


「 3日後の華燭の典の前に、今ここでと貴女のご両親に誓います・・・ 」
「 え・・・あ、は、はい! 」


急な展開についていけずに、つい大きな声で返事をしてしまった。
緊張に背筋を伸ばした私を見て苦笑しながら、そっと包み込むように抱き締められる。
彼が甘えるように私の肩に頬をすり寄せた。胸が高鳴ると同時に、愛しい彼の声が静かに耳元で響く。


「 永久(とこしえ)に幸せにします。だから、ずっと傍にいてください・・・それが私の幸せなのです 」
「 伯言・・・私も貴方の傍で、幸せになりたい。ううん、幸せに、なってみせる! 」
「 ふふっ、それでこそ貴女らしい 」


えへへ、と頬を緩ませて笑うと、彼も嬉しそうに微笑んだ。
再びお互いの背に手を回して、きつくきつく抱き締めあう。伯言はそんなに大柄な方じゃないのに、 抱き締められるとまるで丁度良い大きさだとばかりに、私の身体はすっぽりと包み込まれてしまう。
不安も焦燥も、嫌な気持ちから全て無縁だと思えるのは・・・この腕の中だけ、だ。




「 、愛しています 」




ずっとずっと探していた私の『 居場所 』は、此処なんだって・・・そう思えるから。




「 私も愛してるわ、伯言 」


















だから私、貴方の傍で幸せになる・・・今度こそ、永遠に。


















初恋は、燃え盛る炎のような恋だった。


突然自分を襲った業火に、身も心も焼かれた。 巻き込まれれば、自分だけじゃなく彼自身をも焦がす結果にもなる。それでも惹かれて止まない。 初めて手に入れた恋心は、互いを不幸にするだけだった。
だからこそ・・・離れた。
陸家の『 再興 』と軍師としての『 地位 』、それに対して一介の街娘である『 私自身 』。 天秤にかけるまでもないのに、彼は私を選ぼうとしてくれた。 彼に望まれて純粋嬉しい・・・でも今、心を引き裂けば痛いのは私だけだ。 彼に傷ついて欲しくなかった。私を選んだことを後悔して欲しくなかった。


この世の誰よりも、自分よりも、幸せになって欲しかった人・・・伯言。
まだ子供だった自分に、自分以外の誰かを愛する気持ちを教えてくれた。






二度目の恋は、流れる水のような恋だった。


穏やかなその流れは、最初の恋で傷ついた心を時間をかけて癒してくれた。 泣いて、泣いて、涙も枯れ果てたはずなのに優しい泉が心を満たしていく。本来の『 自分 』が生き返るようだった。
・・・彼の手をとったのは、誰でも良かったからじゃない。
他の人じゃだめだったの。子龍さまだから、好きになったの。
誰よりも私を想い、私だけを慈しんでくれる子龍さま・・・彼だからこそ。


涙が出るほどの幸せって・・・こういうこと言うんだ・・・。
彼の無償の愛に包まれて、私は心から幸せだった。
本心からずっと一緒にいたい、と想った。傍で、彼の支えになれればって・・・。






散る花は流水に身を委ね、流れ去る水がそれを乗せて運びたいと想う、相思相愛の気持ち。
平凡な生活を送るはずだった運命の輪から滑り落ちた私は、花びらのようにくるくると回って、 流れ流れて行き着いた先は・・・忘れられない初恋の相手、陸伯言。
今此処に、伯言と私の慕情は永年の絆を手に入れて、叶わぬと思っていた夫婦の縁で結ばれた。


















両親の墓標の前で抱き合った私たちは、惹かれあうように自然と唇を重ねる。
無意識だったからか、異様に恥ずかしく感じたのは伯言も同じだったようで、 お互い頬を染めてクスクスと微笑むと額を合わせた。吐息が触れるこの『 距離 』に、ずっといたい。


死が二人を分かつその日まで、私らしく、伯言と手を繋いで過ごしていきたいから。










私たちを取り巻く爽やかな風は祝福の嵐となって・・・晴天の空高く、呉の地へと吹き抜けていった。










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