ぱたぱたと慌ただしい足音が、廊下の奥へと消えていく。
 聞こえなくなってすぐ、1、2、3・・・10まで数えたところで、ストンと膝から床に落ちた。
 ぜえぜえと肩で息をするなんて、戦場以外であり得ないと思っていた、なのに!


「 ( あ、あれは・・・反則です!! ) 」


 瞳を大きく見開いた彼女は、酷く狼狽していたようだった。
 ・・・それもそうでしょう。私も、これまでを追い詰めたことなどありませんでしたから。
 けれど、沐浴後の濡れた髪も、ぽかんと少しだけ開いた唇も色めいて見えた。
 ほんのりと染まる上気した肌に触れてみたいと思った・・・見えすいた口実を使ってでも。
 なのにあっさりとひっかかるものだから、つい、止まらなくなってしまった。
 ( 教育不足は否定できません。もう少し人を怪しむことを教えないと・・・ )


 思い出しただけで、頬が熱を孕む。
 誰が見ていなくても本当に恥ずかしくて、片手で口元を覆った。


「 ( ・・・こんなに・・・意識するだけでこんなに、を見る目が変わるなんて ) 」


 が『 降ってきた 』翌日も、同じように沐浴を手伝ったことがある。
 寝顔を見守った後だ。確か、肩も胸も露わにした状態で袖を引っ張られて、思わず振り払ったのだ。
 あれは単純に、女性が、何てはしたないことを!と動揺した結果だけど。
 ・・・もし今、同じ状況になっても、ぞんざいに振り払えるだろうか・・・。


 さっきだって、正直・・・抱き締めたい、と思った。
 濡れた服が張り付いた彼女の身体は、思いの外細く、絶対的に男のそれではない。
 身体の線を隠す官服に見慣れていたせいか、余計彼女の『 女性的な部分 』を意識してしまった。


 まあ、は女性ですから至極当然のことかもしれないんですけど・・・と内心突っ込んで、強張りを解く。
 長い吐息を吐いて、天井を仰いだ。


「 ( これが・・・世間で『 恋 』と呼ばれる感情でしょうか ) 」


 胸の奥が疼く。
 服の上から掴んでも揺すっても、びくともしない熱量が、彼女を思い出すたびに勢いを増す。
 こんな自分、には見せたくない。だって、彼女を前にどんな顔をしたらいいのかわからない。
 でも傍にいれば触れたい、抱きしめたい、彼女の視界に入るのは私だけでありたい。
 強い独占欲と羞恥の狭間で、自分の理性が揺れているのがわかる・・・。


「 ・・・はあ・・・ 」


 世の男性は、女性は、こんな気持ちで相手を想うのでしょうか。
 家族や同僚に向ける信愛とは違っていて、戸惑いを隠せない。それに・・・。






 瞼に浮かぶ月夜。昨晩流した、の涙を・・・私は一生忘れないと思う。






 好意を伝えるか、伝えないか。伝えても、実っても、その恋は・・・。






 私は・・・案外、臆病な人間だから。
 自分の気持ちに気づいた以上、に、傍にいてほしいと願う。離れていくのが怖くて堪りません。
 けれど、引き留めて自分の世界に繋ぎ止めることを、いつか彼女が後悔してしまうのも、怖い。
 そんな気持ちにさせません、と断言できない私は、弱い男でしょうか・・・。


 だって、人の気持ちがいつ、どんな方向に転がるかなんてわからない。
 私がに恋をするだなんて、昨日まで想像すらしていなかったというのに。


 頬杖をついていた手を解いて、自分の頭をくしゃりとかいた。
 ぼんやりと残っていた、彼女の首筋を撫でた親指の温もりがこそばゆかった。


「 陸遜ー!どこだぁ!? 」


 その時だった。甲板から響く地鳴りのような声に、思わず眉を顰める。
 ・・・相変わらず、武人としての気品の欠片もないけれど、思考を断ち切るには有難かった。
 肺の奥の空気を吐き出して、とん、と床を蹴って身軽に立ち上がる。
 彼女の軌跡を辿るように、扉を出て甲板へと続く階段を上ると、豪快な風に髪が靡いた。
 その風の先の、舳先にあった大きな背中に近づく。


「 甘寧殿 」
「 お、陸遜来たか。港に着くぞ 」


 くいと視線だけを投げる。その先には見慣れた土地の姿が在った。


「 はどこですか? 」


 何気なく聞いただけなのに、彼女の名前に反応してか、甘寧殿は怪訝そうな表情を浮かべた。


「 陸遜、お前、また何か言ったのか? 」
「 ・・・は? 」
「 は?じゃねえよ。の野郎、湯に浸かって落ち着いただろうと思ったのに、そのまま部屋に籠ったぞ。
  腹が痛ぇから誰も部屋に来るな、だそうだ。俺もお前も含めてな。
  真っ赤な顔してたが、腹痛って感じじゃなかったぞ・・・原因にあんだろ 」


 ったく、何のための気晴らしだかわかりゃしねぇ・・・と呟く。
 大きな溜息を遠慮なく吐くところが、甘寧殿らしいと思う。
 無言で素知らぬ顔ですましていると、隣で、あのなあ、と続くような声がした。


「 可愛がってんのはわかるけどよ、愛情表現を間違えんなよ 」
「 ・・・は? 」
「 だから、は?じゃねえよ・・・好きなんだろうが、あいつのこと 」


 と言われて、驚愕に二の句が継げなくなった。
 ・・・か・・・甘寧殿から、ま、さかそんな台詞を聞くことになるとは・・・!?
 いや、論点はそこではなく、甘寧殿は、どうして、私がを好き、だと知っ・・・!!!
 青褪めてよいのやら、赤らめてよいのやら。ただ冷や汗が背中を流れていく。
 先程とは真逆で、動揺する私を見て何もかも悟った様子の甘寧殿が、すまし顔で静かに語った。


「 凌統の言う通り、お前が男色だとは信じられなかったが、ま、幸せにn「 待ってくださいッッ!!! 」


 自分でも驚くくらいの声量に、甘寧殿がきょとんとしていた。
 ・・・そうか・・・そうでしたか・・・そうですよね・・・。
 あの凌統殿のことですから、そういう推測を勝手に言いふらしてしまうんですよね・・・っ!!
 焦りが萎えて、心底湧き上がってきた怒りに、拳が震えた。
 目の前にいるのが凌統殿であれば「 では歯を食いしばってもらいましょうか(ニコ 」となるのですが。


「 違うのか? 」
「 違いま、っ・・・いえ、違いません・・・いや、そうとも言えない、ですけど 」
「 どっちだよ、面倒だな 」


 煮え切らない私の言葉に、甘寧殿は舌打ちする。
 その時、船が大きく揺れた。どうやら接岸の準備に入ったようだ。
 にわかに騒がしくなる周囲の気配に、頭である甘寧殿は重い腰を上げた。


「 ・・・愛情表現を間違えない、というのは肝に銘じておきます 」


 とだけ告げた。
 それに満足したのか、彼はにやりと笑うと、


「 は俺の部屋にいるから、引っぺがしてちゃんと持ち帰れよ 」


 じゃないと、今度は俺の執務室で飼うからな。
 そう言って、野郎共!と忙しない動き出した船員に声をかけながら去っていった。
 ・・・さて、私は私の私のなすべきことをしましょうか。凌統殿に続いて、甘寧殿に攫われても困りますからね。
 喧騒に背を向けて、甘寧殿の部屋を目指す。
 彼女のすごいところだな・・・と驚嘆するのですが、上司の部屋でも遠慮なく飛び込んでいくんですよね。


 私の立ち位置が『 恋人 』でなくても、彼女の『 上司 』で『 保護者 』ならば。
 やはり、こういった教育的指導は必要なのです!


「 ひぇ、っ 」


 ばん!と乱暴に開けた部屋の隅で、小さな悲鳴が上がる。
 声のした方角に早足で近づき、丸まったぼろ布を引き剥がした。


「 見つけましたよ! 」


 舞い上がった風の中、ぼさぼさの髪の向こうで情けない顔をした少女。
 りくそん、とその唇が動き、顔を真っ赤にして慌てて俯く。


「 誰にも近寄らせないで、って甘寧様にお願いしたのに・・・ 」
「 おや、そうでしたか。でも、私は特例です 」
「 認めない! 」


 ぷぅ、と頬を膨らませて恨めしそうに睨んでくる
 おやおや、そんな顔をしても可愛いだけなのに。そういってからかってやりたい気分でしたが・・・。


「 腹痛だと聞いて、心配になったので。川の水をだいぶ飲みましたからね 」


 緊張させないよう、一等上品ににっこりと微笑んで見せる。
 ・・・そうすると、が一瞬、見惚れてくれるんだって、実は最近気づきました。
 瞠った瞳に満足すると、縮こまった彼女を抱き上げる。
 当然、悲鳴も散々上がりましたが、船の揺れの助けもあって、すぐ近くの牀榻にすとんと腰を下ろす。


「 も、もう、大丈夫だから、降ろして。陸家で休めば大丈夫だから 」


 恥ずかしそうに、もじもじと私の膝の上で身を捻るは大層愛らしかった。
 ふふ、と無意識に笑みが零れて、でも先程みたいに止まらなくなることはなかった。
 距離を詰めることも、抱きしめることもせず、むしろちょっと距離をあけて、肩を竦めて見せる。


「 それは残念。擦ってさしあげましょうと思っていたのに 」
「 何を? 」
「 お腹を 」
「 それセクハラ・・・ 」


 せく・・・恐らく、私を侮辱する言葉であろうことは理解できたので目を細めると、ひぇっともう一度悲鳴を上げた。






「 ・・・覚悟、していてくださいね 」






 何を、と問われなかったのは幸いですが、何かを感じ取ったは嫌そうに顔をしかめた。
 今はその反応で間違っていません。教育的指導といえば、教育的指導ですから。


 でも、いつか・・・と夢を抱いてしまうところが、やはり貴女の虜になった証拠、なのでしょうね。






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