落ちた時の記憶はおぼろげだ。
全身を鞭で打たれたような( 打たれたことないけど! )激しい衝撃に襲われたことは覚えてる。
水の冷たさが一気に体内を侵食して、気が遠くなって・・・次に目を開けたら地上にいた。
傍らの陸遜が、まるで置いていかれた小さな子供のような瞳で、私を覗きこんでいた。
・・・どうして陸遜がいるんだっけ?私、どうしたんだっけ?と思考が働くのは、もっと後のこと。
彼の、真っ赤に腫らした瞳が、必死に私の魂を揺さぶっていた。『 存在 』を確認するみたいに。
だから・・・手を伸ばして触れた。ここにいるよ、って。私はここにいるよ、って伝えたくて。
そうしたら私の努力は実って、ちゃんと伝わったみたい。
雲ひとつない晴天を思わせる彼の笑顔に、微塵の陰もなくなっていたから。
「 ねーねー、陸遜、陸遜ってばー 」
「 ・・・・・・・・・ 」
「 聞いてるー?陸遜陸遜陸遜ってばー 」
「 聞いてますよ。まずは、身支度を整えてください 」
「 ・・・はぁい 」
そのまま馬で都へ帰るには距離があり、私たちはずぶ濡れのまま一度甲板に戻ることになった。
陸遜は、甘寧さまからの謝罪もおざなりに、水夫さんたちに湯を頼むと速攻で私を浸けた。
戸惑う私に『 濡れたままだと、その・・・ 』と言い難そうにしている赤面の陸遜は珍しかったけど。
要は、服が張り付いてボディーラインが出てるってことを言いたかったらしい。
・・・そういやまだ女だって内緒になってるんだった。
「 だから勝手に遊びに行ったのは悪かったってば。でもさ、私、ちゃんとメモ置いてきたよ? 」
船の一室を借り、盥の湯に浸かって身体を温めると、冷たくなっていた身体が解れていく。
( 川岸で火を起こして、わざわざ用意してくれたみたい。後でよくお礼を言わなくちゃ! )
肌に張り付いていた砂を払い、髪を濯いで、程よく力が抜けたところで借りた服に着替えた。
その間の見張りは、陸遜がかって出てくれた。
私たちの間は背の高い大きな衝立で仕切られていたけれど、彼が首を傾げたのは気配で解った。
「 めも? 」
「 竹簡、侍女さんから受け取らなかった?慌てて書いたからちょっと汚かったかも、だけど。
『 親愛なる陸遜へ。甘寧さまに誘われたから遊んでくるね 』って書いたつもりで・・・」
「 ・・・親愛なる、という意味で書いたんですか?もしかして 」
「 え 」
陸遜に素で驚かれて、衝立を振り返る。
彼の言おうとすることがわからなくて、すかさず解説を求めた。
「 だって相手に文章を送る時は、まず宛名を書くでしょ。だから・・・ 」
「 いえ、問題はそこではなくて・・・が『 めも 』に書いた言葉です。
国が違うから一切知らないと言っていたのに、貴女の言う『 親愛なる 』という言葉が・・・ 」
と、彼はそこで一度言葉を切って、その、と少し恥ずかしそうに口籠ってから続けた。
「 こ、こちらの言葉だったから驚いてしまって。よりによって、どうしてこの言葉を? 」
「 ああ、漫画・・・っと、私の世界で読んでいた物語に中国語があったのを思い出したの 」
「 、もしかしてそれは恋愛物ではありませんでしたか? 」
間髪入れずに陸遜に尋ねられて、ふと気づく。
・・・あーそうかも。うろ覚えだけど、確かに恋愛ストーリーだった。
主人公は女の子で、中華系の恰好をした男の子と試練の果てにくっつくお話だ。
ふむふむ、と納得して頷く私の耳に、衝立の向こうから盛大な溜息が聞こえた。
慌てて顔だけひょいっと出したら、びくっと肩を震わせた陸遜がちょっとだけ頬を染める。
身支度を整えたことを伝えると、陸遜はほっとしたような、呆れたような表情で衝立を畳んでくれた。
「 ねえ、もしかして間違ってた?親愛なる、って意味じゃなかった?? 」
怒られるのが好きな訳じゃないけど、怒られないのは何だか気持ち悪い、というか。
間違ってるならちゃんと直したいし、これ以上陸遜に嘲笑われるのはちょっと・・・。
( ただでさえお家に匿ってもらっている上に、仕事上でも迷惑かけてるし )
おずおずとその背中に問うと、彼は考えるように手を止めて、うーんと唸った。
「 そうですね・・・あの言葉では、の意図を誤解する人もいるでしょうね 」
言葉を選んだのか、しばらく間を置いて教えてくれた。
どうして言葉がわかるのか、国や世界が違っても意思疎通に困らないのか未だに不思議だけど。
ここが中国なら、私も覚えてる言葉があった!ってウキウキしながら書いたのになぁ。
( そしてその神通力的なモノは、間違った言葉を訂正してくれなかったらしい・・・ )
しゅんと肩を落とした私に、彼は優しい声音で、、と名を呼んだ。
「 『 私 』に言う分には問題ありませんよ。
あの言葉が、の『 親愛なる 』という意味だと解ったことですし 」
「 ほんと? 」
彼はええ、と頷いて、そっと私の手を引っ張る。
自分の正面に立たせると、私の両手を自分の手で包み込んで私を見つめた。
「 ですから・・・約束してください。あの言葉を私以外には使わないでください、決して 」
それは注意喚起というより、懇願に近かった。
いつも以上・・・ううん、こんな陸遜は初めてかも、ってくらいまじまじと見つめられた。
陸遜の真剣な眼差しに、瞳を逸らすことも許されず、そのまま頷くことしかできなかった。
「 わ・・・かった。陸遜以外には使わない。ご、誤解されても嫌だしね 」
「 そうですね。私と貴女の約束、ですよ 」
嬉しそうに薄ら頬を染め、ふわりと微笑んだ陸遜。
その瞬間、彼の周りにキラキラと星屑が舞ってスパークした・・・ような気がした。
その欠片が目に入ったかのように、私は固まったまま、ぱちぱちと数度瞬きを繰り返す。
・・・え、え?なに、どうしたの?私、ミスったんだよ!?怒られるようなことしたんだよ!?
いつもなら『 貴女という人は!! 』とガミガミ言われるのに、さっきから怒号のひとつもない。
水に落ちたことも、誤字も、責められるだろうと覚悟していたのにお咎めなしとは・・・。
それどころか、し、至近距離で手を取り合って見つめ合う展開なんか、誰が予想しただろう。
「 ( や、だな、私、今・・・すっごい、どきどきし、てる・・・ ) 」
彼との距離が近いから?見つめられてるから?手を握っているからなの・・・?
でも、それこそ今更で特別なことじゃない。
似たような状況は今までもあったし、甘寧さまになんか胸を触られたことだってあるのに!
・・・それでも、こんなに息苦しくなるほどドキドキしたことはない。
陸遜を・・・今まで一番近くにいてくれた彼を意識した瞬間は、ない。
「 ( 陸遜が握る私のてのひら、も、熱い・・・って!わ、わたしっ、どうしたら・・・! ) 」
戸惑い以上に心の中でざわめく何かに・・・耳を塞ぎたくなった。
自然と俯いた顔を上げられず、着付けた着物の腰帯ばかり見つめていると。
「 ・・・襟、曲がってますよ。直しますからじっとしていてください 」
ふいに響く彼の声は冷静で。私が我に返るには十分だった。
「 あっ・・・えっと、う、うん。ありがと、陸遜 」
耳まで真っ赤になっていたけど、この距離では隠しようもない。
せめて、内心の動揺だけでも隠したくて、私は堂々としてる” フリ ”をすることにした。
彼に言われた通り、両脚を踏ん張ってその場で背筋を伸ばしてピンと立つ。
彼の指が私の項へと伸びた。つ、と襟にかかると、反射的に瞳を閉じる。
・・・けれど、これがいけなかったのか。
折れて内側に入っていた襟を指で摘んで直してくれた、ところまでは良かったんだけど。
「・・・・・・っ!!」
ほんの一瞬、だった。
襟から離れる親指の腹が項に触れた。てか、な、撫でた!?( ヒィ! )
瞳を閉じていたせいで、全神経が彼の指に集中していた。
びくんっ!と大きく全身を震わせると同時に、体温が一気に上がる。
声を上げそうになった口元を咄嗟に抑えると、涼しげな声が耳元で響いた。
「 どうしました、 」
「 ッあ・・・あ、のっ!い、いいいいまりく、陸遜の指、指が・・・!!」
「 私の指が・・・何ですか? 」
金魚の如く、真っ赤になってパクパクと口を動かすだけで、それ以上言葉が続かない。
肝心なことは何ひとつ言えない私とは対照的に、爽やかに聞き返してくる陸遜。
ずっ・・・ずるい!説教しない代わりの悪戯ってこと!?
文句のひとつでも吐いて睨んでやりたいけど、今度は距離が縮まりすぎて顔が上げられない。
耳元に触れる吐息。目の前でこくりと上下する喉元。
なぜか私は陸遜の胸元に居て、彼との距離はほぼゼロだった( いつの間に!? )
これじゃあ、きっと顔を上げたら・・・・・・キ・・・・・・。
「 ( うああああ、ダメダメダメ!絶対っ!顔上げられないーっ!! ) 」
意識しすぎだとは分かっていても、どうにもこうにも止まらなかった。
パニック状態の脳内を処理できなくて、ぎゅっと唇を引き締めて氷のように固まっていた。
そんな私を見てか、頭上でくすりと笑う気配がしたけれど、腹を立てる余裕もない。
ただ・・・その後、ゆっくりと開いていく距離に気づいて、ようやく彼を見上げることができた。
「 直りましたよ。今日はすぐに屋敷に戻って、よく休みなさい。明日からまた仕事ですから 」
「 ・・・う・・・うん、そ、だね・・・ 」
陸遜は、特に変わらぬ様子でそう言って、私の両手を解放する。
かろうじて答えたものの・・・内心、既に抜け殻状態だった。
「 ( ・・・疲れてる・・・? )」
だから、こんな過敏に反応しちゃってるの?彼を変に意識しちゃってるっていうの?
・・・・・・う・・・うんうん、そうかも。疲れか。だよね、疲れてるのかもなー。
間違ってたとはいえ中国語書いてみたり、水に落ちたりでさ。余計な体力知力使っちゃったのかも。
ああもう、早く都につかないかなー。そんでもって一刻も早く陸家で休みたい。
早く休んで・・・いつもの私に戻ろう。
そうじゃないと・・・どうしてかわからないけれど、このままじゃ、私が、私でなくなる気がする。
未だ混乱する頭を強引に納得させて、甲板見てくる!と告げて早々にその場を後にした。
陸遜が追ってくる気配はなかった。それでも、甲板へと続く階段下まで駆け続ける。
誰もいない踊り場は、板の隙間を縫って射す陽の光に照らされていて明るかった。
光の中心に辿り着くと、ようやく足を止めて甲板へと伸びる階段を仰ぎ見る。
青空が見えた。白い雲が見えた。風を受ける帆の音、そして鳥の声が聞こえた・・・。
私を取り巻く空気が変わったのを実感すると・・・両頬を押さえて、その場にへたり込んだのだった。
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