こつり、こつり、こつり。


 暗闇の中に響く靴音。私は・・・その靴音の主を知っている。
 近づいてくるたびに胸中を支配していく絶望感。最後の一音に、は重い瞼を持ち上げた。




「  」




 慈愛の篭った声音にも、今は恐怖しか覚えない。
 部屋の隅に座り込んだままのの正面に、彼は膝を折った。長い指が静かに伸ばされる。
 は逃げることも、顔を逸らすこともできず・・・ただ小刻みに震えてそれを受け入れる。
 唯一、彼を隔てていた髪の簾を抜け、そっと顎に添えられた。
 暗い部屋の中だったが、顔を持ち上げると小窓から差し込む光に瞳を射抜かれ、僅かに眉に皺を寄せる。


「 おかえりなさい、。姜維との僅かな逢瀬は楽しめましたか? 」


 寄せた皺を解く間もなく投げかけられた問いかけ。
 だが、目の前で浮かべられた笑顔の裏で見え隠れするものを捕えて、は内心戦慄した。


「 ・・・こう、めい、さま・・・ 」
「 けれど、いずれは戻ってくる。貴女は私の手の中から逃げられない宿命なのですよ 」


 諸葛亮はにっこりと笑みの皺を深くする。
 神々しさすら感じる微笑みに、彼女は何も言えず、無言で涙を零した。


「 おや、何故泣くのですか? 」


 興を削がれた、とでもいうように、顎の拘束が解く。
 その場に崩れ落ちたは、ず、と重い身体を引き摺って、そのまま彼の足元に平伏する。
 額を地面に擦りつけて懇願する姿に、諸葛亮が首を傾げた気配がしたのをは感じた。


「 ・・・お願いです。姜維を助けてください、彼を、殺さないで、くださいっ! 」
「 姜維は、師である私の婚約者である貴女を誘惑し、挙句の果てには攫って逃亡しようとしました。
  どれだけの罪が彼の肩にのしかかっているか、賢い貴女に解らないはずがないでしょう。
  死罪は当然免れません。残念ですが諦めなさい 」
「 孔明さま、私、私は・・・っ!誘惑などされておりません!!
  私は、自分の意思で姜維についていっただけです。彼と・・・この先も一緒に居たいと思ったから! 」
「 ならば別の方法があった・・・と、どうして思わないのですか?
  婚約する前に、もしくは正式な手続きを踏んで婚約を破棄すればいいだけのこと。
  ・・・貴女も姜維も、もう子供ではない。解らないはずがないでしょう 」
「 ・・・・・・・・・ 」


 愕然とする。は色を失った瞳を床に落とした。
 ・・・子供ではない。孔明さまの言う通りだ。そう、私たちは” もう ”子供ではない。
 お互いを必要だと気付いてしまった私たちは、一組の男女として求めあってしまった・・・。
 養父として、師匠として。私も姜維も、心から孔明さまを尊敬しているのに。


 無意識に握った拳が床を掻く。
 諸葛亮はその手を取って、傷ついた爪を柔らかな嘆息で包んだ。
 遅れて擡げたの頭の乱れを少し直すと、貴女次第ですよ、と言った。


「 わたし、次第・・・? 」


 意味が解らず、その先の言葉を待つ。ええ、と頷く諸葛亮は、の手を握った。




「 次第で、姜維の未来は変わるでしょう 」




 それは『 予言 』でも『 提案 』でもなく『 宣告 』だった。




















 こつり、こつり、こつり。


 暗闇の中に響く靴音。私は・・・その靴音の主を知っている。
 近づいてくるたびに、まさか、と思う。最後の一音。扉の前で躊躇う気配に、姜維は確証を得た。




「  」




 的中したことに驚いてか、じり、と一歩後ずさりする砂音がした。
 姜維は急ぎ立ち上がると、鍵のかかった扉へと体当たりするように駆け寄った。


「 身体は!?具合の悪いところとか、痛いところとか、傷ついたりしていないか? 」
「 ・・・・・・ありがと、私は大丈夫だよ 」


 必死の呼びかけに、躊躇ったような返答があったのは少し間が空いてからだった。


「 そうか・・・が無事なら、それで良い 」
「 姜維こそ、大丈夫?どこか悪くしていない?? 」
「 いや、私のことなら心配無用だ。どこも悪くしていないよ 」


 そう言うと、扉の向こうで彼女が胸を撫で下ろしている様子だった。
 あんなことがあったのに・・・お互いに、互いのことだけ想ってる。
 今は隔てられているけれど、愛しい彼女の気配を想って姜維の方こそ胸を撫で下ろしていた。
 気の緩みが顔に表れて、口元が緩んだ時だった。
 先程、後退った一歩を踏み出したが、姜維の名を呼んだ。




「 姜維、よく聞いてね・・・私、貴方のこと、もう好きじゃないみたい 」




 小さい声だったのに、それは姜維の胸に直接届いた。
 一瞬、の言葉の意味が解らず息を呑む。すぐに問い正しかったが、喉が渇いて声が出なかった。




「 今まで色んな約束したけれど・・・全部、なかったことにしたい。全部、交わさなかったことにしたい。
  全部全部忘れて、私はこれからの人生を歩いていくから。だから姜維も、そうして 」




 淡々としていて、まるで用意された台詞を唱えているだけかと・・・最初は思ったのだ。
 ・・・でも、これが彼女の本心だったら?そう疑ったが最後。今の姜維には冷静な判断が下せなかった。
 扉に添えた指先が、白くなっていく。
 きっと顔面も蒼白だっただろう。全身の血の気が引いていき、心臓の音だけが鼓膜を満たしていった。


「 ・・・・・・ぜ、 」


 何故なんだ、


 ようやく絞り出した声は、声にならなかった。
 姜維の動揺など意に介した様子もなく、絹を翻す音がした。
 信じられなかったが、最悪の予想通りその音は遠ざかっていく。姜維は必死に訴えた。


「 !どうして・・・っ、どうして、そんなことを・・・!! 」
「 どうして、って、理由は姜維にもわかってるはずだよ 」


 沈黙の後、静かにが言い放つ。


「 ・・・疲れちゃった。私を育ててくれた孔明さまや月英さまに背くことに。ただそれだけだよ 」
「 そ、それは・・・でも、何故こんな急に!?丞相に何か言われたのか!? 」
「 ううん。だけど浮かされていた熱から、幻のような夢から醒めてみたら、こんなものかって思ったの。
  そうしたら、誰に背いても姜維と居たいと思った『 私 』が・・・私の中から消えてしまった・・・ 」


 『 天才軍師・諸葛亮孔明の弟子 』という肩書きなど片腹痛い。
 こんな時、潮のように引いていく彼女の気持ちを留める言葉ひとつ思い当らなかった。
 絶句した姜維に、だから・・・とが静かに紡いだ。










「 だから、お願い。あの日のことはもう、忘れてください 」










 懇願を最後に・・・の気配は消えていった。


 震えていた膝ががくりと落ちる。石床の冷たさなど気にならなかった。
 幾つもの戦を乗り越えてきた姜維にも、かつて感じたことのないほどの絶望感。
 もう、何を信じたらいいのか解らない。姜維は初めて・・・に憎悪の念を抱こうとしていた。






「 ( あんなに愛していたのに。どんなことがあっても、彼女を信じると決めていたのに・・・! ) 」






 を信じたい気持ちと、湧き上がる愛憎に葛藤する自分自身が情けない。
 解っていても、それを師のように律することが出来ないのは・・・甘さか、若さ故か。


 喉の奥から上がったのは、物狂おしい程の絶叫だった。












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Material:"青柘榴"