April 2015


夜桜に酔わせて with 徐庶


「それで、何も言わずに、逃げ出したのですね、あなたは」
「逃げ出したなんて、人聞き悪いな」
「事実でしょう。その男の妬みを真に受けて敵前逃亡したのですから」

 電話先の友、諸葛孔明の鋭い言葉が、徐庶の胸に深く刺さる。事実なだけに痛い。
 携帯を握り直し、どうすれば良かったのかと聞くと、友は嘆息して答えを教えてくれた。

「何を言われても、と付き合っているのは、あなたなのですから、堂々としていれば良かったのです」
「その場に居続けて、作り笑いをしていろと?」
「男の言うことは、所詮、負け犬の遠吠えに過ぎないのですから」
「確かに……」
「あなたは少しでも脅されれば、を簡単に渡してしまうのですか?」
「そんなことしない! 俺は、そんな軽い気持ちで彼女と付き合ってない!」

 つい、大きな声を出してしまい、辺りを確認したが、幸い退勤時間を過ぎているだけあって、会社の廊下には誰もいなかった。
 孔明がまたも溜め息をついた。

「あなたをに引き合わせたのは私なのですから、しっかりしてくれなければ困ります」
「俺なんかをあんな素敵な子に紹介してくれた孔明には、とても感謝しているよ」
「あなたを恋人に選んだ私の姪の目を、節穴にしないでくださいね。私も黙っていませんが、私よりも周瑜の方が恐ろしいと思いますよ」
「あ、ああ……気をつけるよ」

 電話を切り、ふうっと一息吐いた。
 孔明よりも恐ろしいのは、の従兄の周瑜の方だ。それは間違いない。挨拶に行ったときの美しい修羅の顔は何年経っても忘れることが出来ない。

 (本当に、俺のどこを好きになってくれたのやら……)

 と出会ってから四年目、付き合って一年が経つというのに、徐庶は未だに彼女が自分を好きになってくれた理由が思い当たらない。





 との出会いは孔明が紹介してくれたアルバイトがきっかけだった。
 当時、知人を助けるためとはいえ、義憤にかられて大事をやらかしてしまった徐庶は解雇され、路頭に迷っていた。再就職先もなかなか見つからず、途方に暮れていた徐庶を見かねた孔明が声をかけてくれたのだ。

「姪の大学受験の家庭教師をして頂けますか」

 家庭教師などやったことはなかったが、提示された給料が高額だったので飛びついた。一人だけなら貯金を切り崩しながら暮らしていけたが、故郷に残した母に仕送りをしなければならなかったので、毎月安定した収入が必要だった。
 志望大学が徐庶の母校だったから、学力的には問題なく教えられる範囲だったのが幸いした。十数年ぶりに問題集を買い、毎日それを解きながら過ごした。無職だったから時間だけはあったのだ。
 話は順調に進み、4月初旬に顔合わせをすることになった。
 スーツを着ていくべきか、いや、女子高生に会うのにスーツ姿は固いかもしれない。どちらかといえば、畏まった雰囲気よりも、質問しやすい柔らかな雰囲気になった方がいいだろうし、こちらもその方が緊張しなくて助かる。そのためには、やはり第一印象が重要だろう。ワイシャツにライトグリーンのニットベスト、その上からグレーのジャケットを着て、カジュアルな服装で出掛けた徐庶だったが、に会って、その選択を呪うことになった。
 孔明と一緒に待っていたは、今までお目にかかったことがない超絶美少女だった。思わず心中で感嘆の声をあげてしまうほど、瑞々しい花のつぼみのようで美しかった。
 今思えば、徐庶は相当間抜けな顔をしていたと思う。
 の声は期待を裏切らない澄んだ美しい声で、いつまでも聞いていたいと思えるほど甘美だった。
 一方、自分はひどい有様で、動揺しすぎて何を話したかも覚えていない。唯一覚えているのはの笑顔で、家に帰ってからも繰り返し浮かんでは夢見心地になった。

 は孔明の母親代わりだったお姉さんの忘れ形見で、大きな屋敷に従兄と住んでいた。
 物覚えがよく、順調にいけば志望校に合格可能だったが、苦手科目の点数にばらつきがあったので、そこを伸ばすことが徐庶に与えられた家庭教師としての使命だった。
 週に三回、決まった時間に屋敷を訪れ、家政婦に案内されての部屋に通されると、はぺこりと頭を下げて笑顔で迎えてくれる。きちんと挨拶が出来て礼儀正しく、とびきり可愛い彼女は、徐庶の話すことを良く聞き、素直に受け入れる。姿だけでなく、心も美しいから、なんの疑いもなく、スポンジのように全てを吸収するのだろう。その純粋さは徐庶には尊く見えた。
 本当に孔明の親戚なんだろうかと疑ったこともあった。二人の顔は、全然似ていないからだ。孔明は不機嫌そうに眉をひそめ、お姉さんとは血が繋がっていなかったと明かした。

の顔立ちは義姉によく似ています」

 雰囲気や髪型は違うが、面差しはそっくりらしい。

「父親に似ていたら、姪とはいえ、会いもしなかったでしょうね」

 穏やかそうに見えて、実は人の好き嫌いが激しい孔明は、大恩ある義姉の娘であっても父親に似てしまったら間違いなく冷遇しただろう。この友は意外とはっきりした態度をとるということを、徐庶は知っていた。
 が純情可憐な理由は、育った環境が影響しているようだった。孔明が可愛がっているのもそうだが、それよりも、父母を亡くした彼女と同居している従兄の周瑜が、それはそれは大切に慈しんで育てていた。
 その溺愛ぶりは、徐庶に向ける視線があまりにも鋭いことからもうかがえた。と血が繋がっているから、彼もまた目を奪われるほどの美形で、ふっと笑う顔は男とは思えないほど妖艶だが恐ろしい。唇は笑っているのに、視線は射殺されそうなほど鋭利だった。
 あとになって知ったことだが、周瑜は孔明のことを嫌っていて、ただでさえ男の家庭教師には反対だったのに、それが憎んでいる男の紹介で尚更気に食わなかったらしい。が喜ぶから仕方なく雇ってやっているに過ぎないのだから、くれぐれも手を出してくれるなよ、という声を態度から読み取りながら、徐庶は滅相もないと、周瑜の前では決まって体を竦めた。
 周瑜の心配は杞憂で、徐庶との間には何も無く、休憩時間を除く授業中は、勉強に関すること以外は一切喋らなかった。
 先生と呼ばれることが、こそばゆくも嬉しい半面、女子高生にこんな気持ちを抱く徐庶を戒める。こんなにも可愛い子に頻繁に会えるだけでも奇跡なのだから、と己に言い聞かせ、あくまでも教師と生徒として接し続けた。

 一年はあっと言う間に過ぎ去り、は志望校に無事合格した。徐庶も再就職先が決まったので、これ以上会う理由はお互いになくなった。
 喜ばしいような、寂しいような気持ちで最終日を迎え、今までの努力を褒めて別れの言葉を告げたとき、は大粒の涙をぽろぽろとこぼした。慌てふためく徐庶に彼女は、「先生がずっと好きでした」と告白した。初めて見たの涙に動揺し過ぎて、幻聴が聞こえたのかと思った。
 しかし、は真っ赤な顔で見つめている。細い肩が震えていることから、彼女が本気なのだと知った。
 本当はすぐにでも抱き締めたかったが、相手は未成年の箱入りお嬢様。一時的な恋である可能性は十分にあった。大学に入れば、年頃の男が可愛い彼女を放っておかないだろう。色んな男から惚れられるはず。徐庶以上の男が、ざらにいることに気づくのは時間の問題だ。
 だから、付き合えない。入学して魅力的な男と知り合えば、はきっと後悔する。徐庶と付き合っていなければ、彼と恋人になれたのにと。
 どうせ振られるのなら、初めから付き合わない方がいい。徐庶はに惚れてしまったから、ほんの短い間のお付き合いでも舞い上がってしまうだろう。そうなったとき、別れを告げられるのは辛すぎる。しばらく、仕事も手につかなくなるくらいに落ち込んでしまうだろう。立ち直れないかもしれない。せっかくの再就職先でも、すぐに首が飛ぶだろう。それは困る。

「こんな俺を好きになってくれてありがとう。でも、君の気持ちを受け入れるわけにはいかない」
「わたしが子どもだからですか?」
「それもあるけど、大学に入ったら、俺なんかより、もっといい男が現れるよ。そして、必ず君を好きになる。そうなったとき、君は……」

 ――俺を忘れてしまうだろう。たった一年だけ関わった冴えない家庭教師のことなんか、新生活を始めたら真っ先に記憶から消えてしまうだろう。に相応しい、かっこ良くて自信溢れる男を愛するようになって、この想いは勘違いだったと気づく日が来る。

「わたしが大人になっても、先生のことをずっと好きだったら、お付き合いしてくれますか?」
「そうだね……君が二十歳になっても、まだ俺なんかを好きでいてくれたら……」

 そんなことは絶対にないだろうけれど、と心の中でだけ付け足す。

「約束ぜったいに守ってくださいね。ぜったいですよ」
「うん。約束するよ」

 何度も念押しするに、徐庶は頷いた。そうは言うけど、
 人の気持ちは変わるものだ。ましてや、若い少女の恋心なんて綿毛のように、ふわふわとどこへでも飛んで行く。
 美少女に告白されるという貴重な経験をさせて頂いたことに感謝し、美しい思い出として記憶に留めておこう。いつかが結婚するときには、その報告だけでも孔明から聞けたら嬉しい。

 ――と思っていた徐庶の予想は大いに外れた。
 それから二年後の春、二十歳になったは、大人っぽく清楚な美女になっていた。
 柔らかく優しい雰囲気はそのままだが、「可愛らしい」と褒めるのは憚れるほどに綺麗な女性に成長していた。『士別れて三日なれば刮目して相待すべし』というが、女性にも言えることなのかもしれない。
 目元の化粧や口紅は、女子高生だったときにはなかったもので、とても色っぽくを飾り、徐庶を落ち着かない気持ちにさせた。

「二十歳になりました。先生が大好きです。お付き合いしていただけますか」

 今度こそ、断る理由はなかった。

「君が本当に、俺なんかとでいいなら……」

 ぎこちなく頷けば、「先生がいいんです」と、は淀むことなく言い切って微笑んだ。

- continue -

2015-04-01