April 2015


溶けゆく欲情、どろり with 関興


 ここがバスの中で、乗客は自分たちだけではないというのに、関興はの目をじっと見つめて、何を考えているのか分からないいつもの無表情で、のたもうた。

「あなたが……好きだ。私と付き合って欲しい」

 青天の霹靂とは、このことを言うのだろう。
 青空だったの頭上には、突如として暗雲がかかり、ピカッ、ゴロゴロ、ピシャンと、雷が落ちた。
 何を言ってるのだろう、彼は。

「あの……お気持ちは嬉しいです。でも、わたし、あなたのことを、よく知らないので、その……」
「私も……あなたのことを、よく知らない」

 それは、そうだろう。互いに、ほとんど接点がないのだから。
 知っているのは名前と通っている大学くらいだ。
 平日の朝にバスで隣り合うだけの仲で、会話らしい会話なんてしたことがないのに。
 ――いや、待てよ。毎朝隣の席に座る偶然なんてあるのか。
 が乗車するのは、旧家が並ぶ住宅地の中にあるバス停だから、バスより車を移動手段に使う住人が多く、必ずと言っていいほど、席に座ることが出来る。タイヤの上や入り口に近い一人用の座席は落ち着かないので、は中央より後方の二名がけの窓側に座る。
 関興が乗るのは、それからいくつものバス停を通り過ぎた後で、それでも満席ではないのだから、わざわざの隣に座らなくてもいいのに、彼は毎回隣に座る。
 「おはよう」と挨拶を交わし、今日の天気など、たわい無いことを一言二言交わして、関興が目的地の大徳体育大学で降りるまでは沈黙する。
 関興は寡黙で会話が長引いたことはなかったが、不思議と居心地が良く、朝のぼんやりした頭にはちょうど良くて、は彼との短い朝の時間を気に入っていた。
 しかし、それは恋愛感情ではなく、純粋な好意であり、例えば賢い大型犬に懐かれているような、そんな感じであって、関興を“かっこいいな”と思ったことはあっても、異性として特別に意識したことはない。
 関興だって、のことを“たまたま通学時間が重なるから話しているだけに過ぎない同世代の女子大生”としか思っていないだろう。
 それが、どうしてこうなった。

「あなたのことを知りたい。もっと、たくさん……だから……」

 そう言って、の手に己の手を重ねた関興は、真剣な目をして、先程よりも大きな声で、はっきりと言った。

「私の恋人になって欲しい」

 車内にどよめきが起きた。こんなところで他人の告白を目撃出来るとは思わなかったと、彼らは驚きつつも興味津々に二人を注視する。
 頷くのか。頷くんだよな、当然。こんな好青年の告白を断るはずがないよな。
 受け入れるよう促す乗客たちの心の声が聞こえてくるようで、は口をぱくぱくさせて混乱する。
 だって、そんなこと考えたこともなかった。互いのことをよく知らないのに。なんで、どうして――
 ああでもないこうでもないと、思考回路は大忙しで、そうこうしているうちに、運転手が関興が降りるバス停の名前をアナウンスした。
 タイムアウトが迫る。
 しかし、心は決まらない。

 (でも、わたし、わたし……)

 まだ異性と付き合った経験がない箱入り娘に、いきなり恋人を作れるものか。無理だ、無理。だって、こんなの急過ぎる。



 関興が、じっと見つめてくる。
 ああ、そんな顔をしないで。垂れた犬耳と尻尾が見えるようではないか。良心がちくちくと痛む。こんなの耐えられない。

「……よろしくお願いします」

 朝のバス内に割れんばかりの拍手が響いた。





 次の日から、バス車内の空気が変わった。
 乗客たちは、と関興をちらりと盗み見ては、先日誕生した初々しいカップルだと、ほっこりする。
 若いっていいわね。近頃珍しい真っ直ぐな好青年だ。美男美女で羨ましいわあ。
 本人たちには聞こえていないと思っているのかもしれないが、ばっちり聞こえている。
 落ち着かなくて肩を竦めるの隣で、関興は相変わらずの無表情で座っている。あなたのせいで、こんなことになっているのにと、少し恨めしく見つめると、視線に気づいた関興は、嬉しそうに微笑んでくる。

 (いつもは無表情なのに、そんな顔するなんてずるい!)

 関心のないことには、眉一つ動かさない彼が、と目が合っただけで破顔するなんて、本心から嬉しがっていることが分かるではないか。そんなの可愛すぎるではないか。

 そうなのだ。は関興を可愛いと思えるくらいには好いている。
 しかし、この気持ちが恋なのかは、には分からない。
 というのも、恋とは落ちるものだと、小説や映画で学んだは、全身が震えるような衝撃を受けなければ、それは“恋”とは言えないのではないか、という考えがあった。
 関興を見ても、そのような衝撃を経験したことはない。付き合ってはいるが、これが恋なのか、友情の延長のような気持ちなのかは不明だ。
 嫌いではない。それだけは、はっきりしている。
 手を繋いでも嫌じゃない。恥ずかしいけど、嬉しい気持ちがした。
 不意打ちではあったが、啄むようなキスも嫌じゃなかった。恥ずかしいけど。

 では、恋なのか。

 恋なのかもしれないし、違うのかもしれない。
 “これが恋だ!”と分かるものがあればいいのに。如何せん、心は不可視だ。
 告白されて舞い上がっているだけで、本当は関興に恋していないのかもしれない。
 男性に慣れていないから、ドキドキしているだけで、他の人に告白されても同じように付き合っていただろうか。
 ……否定は出来ない。もしかしたら、そういう未来もあったかもしれない。
 告白をして来たのが、たまたま関興だったから。嫌いじゃないから頷いた。嫌いじゃないからキスもした。
 キスをしてもいいかと聞かれたとき、従兄がしてくれる額や頬へのキスだと思い、少し恥ずかしかったが許可をしたら、唇にキスをされたのでとても驚いた。彼氏なのだから、唇にキスをするのが当然とはいえ、まったく予想をしていなかったので取り乱した。
 何をするのと責めるのは筋違いなのでしなかったが、不思議なことに、唇にキスをされるのは嫌ではなかった。知らない人が相手だと想像するだけで悪寒がするのに、関興は平気だった。少しだけ嬉しいと思った。

 好きなのだと思う。恋だという確証はないけれど。
 だから、早く恋に落として欲しい。
 そうすれば、全てを受け入れられる気がするのだ。

- continue -

2015-08-02