夏のビーチといえば、青い空、照りつける太陽、白い砂浜と広い海、水着姿の男女の満面の笑み……というイメージをテレビや映画で植えつけられていたのだが、どうやらそれは違ったらしい。
いや、全く違う訳ではないか。映像では伝えられないことが抜けていた。
暑さというやつだ。
水着に着替えて、陽の光の下に一歩踏み出した瞬間、頭上から熱、足元からも熱が、これでもかと一斉攻撃して来て、は驚愕した。
なんだ、これは。灼熱地獄か。みんな何故こんな中で笑っていられるのだ。暑すぎて頭がおかしくなってしまったのか。これが夏のビーチなのか。
違う。ここは、鉄板の上なのだ。肉や野菜を焼くために、こんなに熱くなっているのだ。でなければ、この砂浜の熱はなんだというのだ。
親代わりの従兄、周瑜は人混みが嫌いで、日中の海水浴場には一切近寄らなかった。そのため、の夏休みの過ごし方は、敷地内のテニスコートやプールで遊ぶことがほとんどだったし、それも日焼けを気にして早朝か夕方だけで昼は外に出ず、もともとスポーツは得意な方ではないので、別荘のサンルームで読書したり、お手伝いさんたちと森で採った木の実でジャムを作る方が好きだった。
だから、こんな体験は初めてだ。
まさか、ここまで熱いとは。ビーチサンダルがなかったら、足の裏が焦げてしまいそうだ。
正直言って、日陰から出たくない。どうして皆、平気な顔して裸足で砂を踏んでいるのだろう。特殊な訓練でも受けたのか。
驚きなのは、水着だ。下着同然、もしくは下着よりも露出の多いものを着ている。ほとんど紐だ。三娘が「これくらいの露出は普通だし!」と、お店で言っていたことは正しかったらしい。
確かに、あんなのからしてみれば、は露出が少な過ぎる。
女性たちだけでなく、男性も見ることが出来ない。水着が問題なのではなく、上半身裸であることが、旧家の出で世俗のことに疎い純情なには目の毒だ。
「、どうしたの」
三娘と銀屏は元気よく太陽の下に駆け出していったのに、更衣室の入り口からなかなか出ようとしないに星彩が優しく問いかけた。
なんでもないと無理やり笑顔を作り、は覚悟して灼熱地獄へと足を踏み出した。
もしかしたら、そんなに暑くないのかも、という僅かな期待は幻だった。
思った通りに暑い。とにかく暑い。全身から汗が吹き出る。背中と胸の谷間を川のように伝い流れていく。
大きなつば付きの帽子を被ってくれば良かった。それか日傘を持ってくれば良かった。海に入るにはどちらも邪魔になるからと別荘に置いてきてしまったが、これでは海に入るどころではない。
もう帰りたいと肩を落としたまま、人だらけの砂浜の合間を縫うようにして進む三娘と銀屏の後に続くこと数分、パラソルを準備していた男性陣と合流した。
「関索〜! 見て見て! どう? 似合ってる? あたし、かわいい?」
こちらに背を向けていた関索が振り向くよりも早く、三娘は彼の前に駆け込み、激しく肩を揺さぶった。
「うん。あなたはいつも可愛いけど、今日は特別に可愛いね。その水着も似合っているよ」
「やった! ちょー、うれしい! ねえねえ、あたしのこと好きになってくれた?」
「皆、とても綺麗だね。四人とも太陽よりも眩しくて悩殺されてしまいそうだよ」
「ちょっと! なんで、みんなも褒めるの!?」
振り向いた関索が三娘以外の女性陣に気づき、いつものように彼曰く正直な感想という名の口説き文句のようなことを言ったので、三娘は頬を膨らませた。三娘の悩殺作戦は今回も失敗のようだ。
「あの、星彩、その水着は少々刺激的過ぎる気が……いや、似合っていないわけではないんだ! とてもよく似合っている! だからこそ、困るというか……」
「おい、星彩! そんなんじゃ腹冷やすぞ! オレの上着貸してやるから羽織れ!」
「兄上、余計なことしないで」
真っ赤になって、わたわたしている関平を押し退けて、出発日ギリギリになって飛び入り参加した星彩の兄、張苞がパーカーを差し出す。心配性の兄の手を、星彩は冷たく払った。
さて、関興はというと、直立不動で黙ったまま、を凝視していた。
(どうしよう……やっぱり変だったのかも……)
いくら周りの露出がすごいからといって、思い切り過ぎたのかもしれない。
一目惚れの恋も冷めてしまうくらいに幻滅されてしまっただろうか。
「ねえ、兄上。じっと見てばかりいないで何か言って。ちゃん、かわいいでしょ?」
銀屏が関興に感想を急かしたので、は内心悲鳴をあげた。
銀屏の一言で、どこかに飛んでいた関興の意識は戻ってきたようで、はっと瞠目すると、次の瞬間、を正面から抱き締めた。
熱を含み汗ばむ肌と肌が触れる。関興の胸板と鍛えられた腹筋が、の柔らかな胸をむにゅっと潰す。剥き出しの背中とうなじに手のひらを当てられ、しかと引き寄せられている。
これまでにも、関興に抱き締められることはあったが、服を着ていたし、こんなに密着はしていなかった。おまけに汗ばんでもいなかった。
経験にない椿事に、は叫び出してしまいたかったが、口を開けば息が関興の肌に触れてしまいそうで我慢した。これ以上何かが触れては、恥ずかしさで頭が沸騰してしまう。
「あ、兄上!?」
「、駄目だ。こんな姿、私以外には見せないでほしい」
「関興! 公衆の面前で何をやってるんだ!」
さっきよりも赤面した関平が叫ぶ。
関興は尚もを抱き締めたまま、首だけで振り向き、眉をしかめて暴言を吐いた。
「兄上、関索、張苞、眼球を抉り出させてくれ」
独占欲が招いた恐ろしい対処法に、一同は全員凍りついたのだった。
正午を過ぎても、陽射しは変わらずにギラギラしていた。
はパラソルの下、タオルにくるまり、関興と二人で、海ではしゃぐ他人たちをテレビ画面でも見るかのように、ぼんやりと眺めていた。
暑さでくらくらしていたに、海に入れば涼しくなるからと、三娘と銀屏に腕を引かれて、一度は海水に浸かってみたものの、浅瀬は海水浴客が芋洗い状態で、ちょっと動けば他人と濡れた肌がぶつかりそうで恐ろしく、とはいえ、人が少ない沖までは泳げそうにない。
自分に構っていては、せっかくの海を思う存分楽しめないからと、気持ちは嬉しいがお断りをした。
関興はが海に入ってから、すぐに戻ってくる間、ずっと後ろにぴったり張りついていて、ボディーガードのように四方を警戒していた。自分のことは気にせず、関興もみんなと遊んで来たらどうかと勧めたのだが、彼は絶対に傍から離れないと拒否した。
冷たい飲み物で水分補給をして、強烈な日光を避けたおかげで、ようやく体が暑さに慣れてきたようだ。それでも涼しいということはないけれど。
若い男女の笑い声、子どもたちの叫び声、どこかから流れているヒット曲らしきポップス、それら喧噪に乗って届くソースの香り。五感のうち、視覚・聴覚・嗅覚の三つが刺激されている状態は、決して良いとは思えない。
普段の生活が、いかに静かで穏やかなものかを思い知らされる。全ては過保護な従兄のおかげだ。それゆえに、まだ恋人が出来たことを伝えていないのだけれど。まあ、そのうち伝えればいいか。
「」
横を向けば、関興がじいっと見つめていた。
「指先に触れてもいいだろうか」
「え? あ、はい。いいですよ」
なんで指なんかに触れたいのだろう。しかも、なんの前触れもなく。
許可すると、関興はレジャーシートの上に置かれたの指先に、自分の指を絡めた。
本当にそれだけで、彼は再び口を閉ざした。
やっぱり無表情で、感情は読み取れない。
長く節くれだった手は、女のの手とは違って、ほんのちょっとドキドキする。
砂浜と海に集まった若い男女は、惜しげもなく肌をさらして、ナンパをしたりされたり、カップルは羞恥心がないのか、所構わずいちゃいちゃしているというのに、自分たちときたら、彼女はてるてる坊主のようにタオルを巻いているし、彼氏はその隣で指だけ触れて黙り込んでいる。
夏の海に若い恋人同士と条件は同じはずなのに、別世界のようで、不思議な光景だ。
ひょっとしたら、関興も他の人たちのように、水着姿でベタベタしたいのかもしれない。
は絶対に嫌だけど、関興は羨ましいと思っているのではないか。
「関興は……」
「ん」
「周りの人たちみたいに、いちゃいちゃしたいですか?」
関興の眉がやや上がった。どうやら驚いたらしい。
「したい……けど……が嫌ならしない」
ゆるゆると眉が元の位置に戻った。
やっぱり、したかったのか。
それはそうか。男の人はそういうことに興味を持って当然だろう。
なんだか申し訳ない気がして来た。
恋人同士が二人で海に来たら、普通は水の掛け合いや、かき氷の食べさせあいや、うっかり肌が密着してドッキリみたいなことを堪能するのだろう。今、周りの男女たちがしているように。
本人たちはいいが、第三者からしてみれば、この上なく見苦しいものだ。裸みたいな格好で、いちゃいちゃベタベタしないで欲しい。そういうことは、家に帰ってから、誰も見ていないところでやってくれ。それとも見せつけているのだろうか。その感覚はには理解出来ないが。
溜め息を吐いて、何とはなしに砂浜を眺めていたら、とあるカップルが目についた。
「行くよ! あんた!」
「おっしゃ! 来い! かあちゃん!」
小麦色の肌、水着からこぼれそうな豊満な胸、鍛えられて引き締まっている腰と脚をした、ナイスバディのお姉さんが、ビーチボールを高く上げてジャンプした。
びゅんと空気を切る音がして、お姉さんがアタックしたボールは、同じく小麦色の肌の巨漢に向かって飛んでいき、顔面に見事命中した。
(すごく綺麗な体……)
健康的で美しい。同じ女性から見ても魅力的に感じる。
「あのビーチバレーをしているお姉さん、綺麗ですよね。セクシーな豹柄のビキニで豊満なバストですし、小麦色の肌も素敵で――」
「あなたの方が素敵だ」
綺麗なものを綺麗だと正直な感想を言っただけなのに、関興が何故かを褒めたので、は思わず笑顔のまま赤面してしまった。
「えーと……」
「の方が素敵だ」
二度も言わなくても聞こえている。恥ずかしげもなく繰り返す関興は、至極真面目だ。
居た堪れなくて、他の女性を探した。
「うふふ、奉先様〜! こちらにおいでくださいませ〜」
「待て、貂蝉! おい、そこの虫ケラども! 俺の貂蝉を汚い目で見るな!」
次に目に入った美女は、白い肌が眩しい人だ。
先程の女性のように、水着から零れ落ちそうな胸と……いや、あれはほとんど下から食み出していないか。
「あの叫んでる大きい男の人に追いかけられているお姉さんはどうですか? ジュエリー付きのビキニに、綺麗に引き締まった腰のくびれに、白く輝いている肌が美しいですよ。まるでモデルさんみたいで――」
「の方が美しい」
またも、恥ずかしいことを言われてしまった。
この美女も関興の好みではなかったか。
さあ、次だ。次!
なんだか意地になってきた。
「あらあら、旦那様。早く泳がないと沈んでしまいますわよ」
「やめろ、春華! 浮き輪を返せ! それがないと私はっ!」
うっとりするほど美しい微笑みで、夫を励ます人妻を発見。
スタイルも文句なしに、出てるところは出て、引き締まっているところは引き締まっている。
「あの浮き輪を持って、にっこり笑っているお姉さんはどうですか? ヴァイオレットのパレオがよくお似合いですし、非の打ちどころのないくらいの美貌で、優しそうですし――」
「の方が優しい」
駄目だ。何を言っても無駄だろう。
関興がどんな美女よりも、の方がいいと言ってくれるのは嬉しいけど、どうにも納得がいかない。
それほど一目惚れとやらは、効果絶大なのか。
「は私に……別の人を好きになってほしいのだろうか」
絡められた指先が、きゅっと握り込まれた。
関興が別の人を好きになってしまったら……もしそうなってしまったとき、自分はどう思うだろう。
今ここで別の美女を追いかけていってしまったらと想像する。
それは嫌だ。
自分を好きでいて欲しい。
「……ごめんなさい。他の人を好きになってほしくないです」
「私を好き?」
「好き……だと思います」
嫌いじゃない。好きだ。
でも、それは、関興が向けてくれている愛情と同じくらいの想いだろうか。
どんな美女も眼中にないほどに、を好きでいてくれるこの人の想いに、恥じないくらいに真剣な想いだろうか。
(……自信がない)
関興はそれから何も言わず、ふいっと視線を外して、いつもの無口な彼に戻った。
絡められた指先だけは、ずっと繋がったまま、二人は賑やかなビーチを静かに眺めていた。
- continue -
2015-08-02