April 2015


甘く苦しい執行猶予 with 甘寧


 クローゼットからコートを出して袖を通し、肩にはストールをかけた。ピンクベージュの手袋をつけて、鞄を手にして忘れものがないか確認。最後に姿見で全身を映して、本日の服装や髪型、メイクにおかしなところがないかチェックし、はブーツを履いて家を出た。
 空気の冷たさに身震いを一つ。いつの間にか秋は終わり、もうすっかり冬になったのだと実感する。
 思えば、今年の秋は早かった。
 紅葉もサツマイモとカボチャのスイーツも楽しむ余裕がにはなかった。
 それもこれも、付き合っている彼氏の一言が引き金だった。

「しばらく距離を置かせていただけませんか。三ヶ月過ぎたら、また連絡しますから」

 なんの前触れもなく、彼はの前から去っていった。
 はて、何が悪かったのか。原因はさっぱりで、理由を聞いても、彼は“なんでもない”と首を横に振るばかり。
 理由すら言いたくないほど、嫌われてしまったのだと知り、は彼のジャケットに伸ばしかけた腕をおろした。
 それから三ヶ月、彼とは会ってもいなければ、連絡も取っていない。人伝で聞いたところによると息災らしいが、新しい彼女が出来た様子はないとのこと。原因は浮気ではなかったようだ。以前よりも仕事に打ち込んでいるそうなので、単にの存在が邪魔だっただけなのかもしれない。

 彼――楽進と付き合い始めたのは一年前、同じようにクローゼットからコートを引っ張り出して数日が経った冬の初め、情熱的に告白をされた。

「あなたを全身全霊で愛しています。どうか私と付き合っていただけませんか」

 これまでにも男性から告白された経験はあれど、騎士のように跪いての告白は、彼が初めてだった。そして、告白を受け入れたのも、彼が初めてだった。
 その勢いに負けて仕方がなく、ではなくて、楽進の誠実な人柄を信頼しての返事だ。
 の容姿の虜になり、その体を貪りたいと欲情にかられている人にあらず、をよく知りもせず、“自分の理想の”を勝手に妄想している人にあらず、そのままのを好きになってくれたのだろうと分かる澄んだ目と心を持っていたから、恋人になることを受け入れたのだ。
 楽進は恋人になってからも豹変することなく、真面目で優しい人だった。
 が嫌がらないよう、怖がらないように、気遣ってくれた。手を繋ぐのも、抱き締めるのも、キスをするのも、事前に確認をしてから行動に移した。
 それがには、とても嬉しかったし安心した。
 男の人は、従兄の周瑜や親戚以外は、一様に馴れ馴れしかったり、色目を使ってきたり、あからさまに口説いてきたりして辟易していた。
 だからこそ、楽進の今時珍しい清く正しいお付き合いは、有り難かった。
 もしかしたら、それが嫌で楽進は去ったのかもしれない。健康な成人男性ならば、欲求があるのは当然で、いちいち恥ずかしがる女は面倒くさい以外の何ものでもないのだろう。
 告白してきたのは楽進からだが、いつしかも彼を好きになっていた。
 それでも、どうしても全てを曝け出せないのには訳がある。

 の心の中には、楽進の他に、もう一人いる。
 その人は、楽進よりも前から、そこにいて、消そうとしても、なかなか消えてくれない染みのように、何年も前からずっと居座っている。
 楽進のためにも早く追い出さなければいけないのに、その“彼”を引き止める“”が言うのだ。

 『まだ何も始まっていないし、終わっていない』と――

 このままではいけない。そう思い続けて、何年が経ったのか。長過ぎて考えたくもない。
 楽進が示した約束の三ヶ月目は、明後日に迫っている。
 それまでに、この気持ちを整理して、楽進に縒りを戻してくれと頼み込むか、別れを告げられるのを承知するかを選ばなくては。

 そう思っていた矢先、絶好の機会――当人には最悪の再会――が訪れる。





 今日の夕飯は何にしようかなと、のん気に献立を考えながら歩いていた仕事帰り、突然、何者かに背後から羽交い締めにされた。
 叫ぼうとした口は片手で塞がれ、逞しい体が背中に当たる感覚に恐ろしくてパニックになる。
 こんなところで暴漢に襲われるだなんて思いも寄らなかった。街灯がたくさんある大通りで、薄暗いとはいえ夕方で通行人もいるのに。なんで、今、ここで。口を覆う指に歯を立てれば、放してくれるだろうか。それとも肘で相手の腹を打つべきか。そんなことをしたら、暴力をふるわれるかもしれない。どうしよう、どうしたら。ああ、耳元に顔を近づけられた。何を要求されるのだろう。お金だろうか、命だろうか。今、手持ちはあまりないし、自分の命を奪ったところで何も得られないと思いますけど犯人さん!
 ……あれ? この香りは、どこかで――

「よお、お嬢。こんなとこで、なにしてんだ」

 低い囁きに、ようやく犯人の正体が分かった。
 分かれば遠慮はしない。纏わりつく腕を、ぺいっとはがして振り向いた。

「……甘寧こそ、なにしてるんですか」

 こんな暴漢まがいなことをして、と睨みつけても、甘寧は変わらぬ笑顔で、にいっと歯を見せて笑った。

 (ああ、もう、この人は――)

 どうして、こうも容易く、の心をかき乱してくれるのか。
 きゅんと、ときめいてしまった自分の胸が憎らしい。
 まだ、彼を好きなのだと気づいてしまったことに落胆する。

「久々に会ったってのに、つれねえな、お嬢は」
「突然後ろから羽交い締めにされたら、誰だって怒ります! 殺されるかと思いました!」
「悪い。そんなに怖がると思わなくてよ」

 甘寧は笑うばかりで、まったく反省していない。怒るのも馬鹿らしいので、は溜め息を吐いて怒りを逃がした。

「仕事帰りか?」
「はい」
「飯は?」
「まだですけど」
「そりゃ、良かった。行くぜ」

 言うやいなや、甘寧はの腕をつかんで歩き出した。

「ま、待ってください! どこに行くんですか!?」
「いいから、黙ってついてこい。悪いようにはしねえから」

 行き先は教えてくれぬまま、は強引に連れ去られることになった。

- continue -

2015-12-01