甘寧との出会いは、もう十年ほど前になる。
が中学生の頃、従兄の周瑜が重役を務める会社の社長が、スカウトして入社してきたのが甘寧だった。
甘寧は型破りな人物で、教育係の呂蒙が頭を抱えてしまうほどだったが、彼はその裏表のない性格で、すぐに社員に溶け込んでいた。
口は悪いが仕事は出来るとあって、周瑜と呂蒙は彼の実力を認め、一緒に仕事をすることが多かった。
そのため、周家にも頻繁に顔を見せることになり、そこでは彼に出会ったのだ。
ある日、学校から帰って来たら、リビングに見慣れぬ男が我が物顔で座っていたので、ひっと声を上げて飛び跳ねた。
金髪で入れ墨をした若い男など、周囲にはいなかったので、とても恐ろしかった。
「え、あの……どちらさまですか?」
壁の裏に隠れて、顔だけ出して尋ねると、甘寧は声を上げて笑った。
「甘興覇ってんだ。取って食いやしねえから、こっちこいや、な?」
ドキドキしながら向かいに腰かけ、早く従兄が帰って来て欲しいと願うばかりで、甘寧との初めの会話は全然覚えていない。
周瑜が呂蒙を連れて帰って来たとき、周瑜に勢いよく抱きつくくらいに、甘寧との二人きりは怖くてたまらなかった。
そんな失礼なことをしたを、甘寧は気にすることなく、むしろ反対で、次に会ったときには、長年の知人のような馴れ馴れしさで話しかけてきたので、は驚いてしまった。
「お嬢」と呼ばれたのも二度目に会ったときで、彼に呼ばれると堅気ではないところの娘さんのような気がしたが、悪気なく何度も繰り返し呼ばれるので、まあいいかと許した。
甘寧はが知らないことを、たくさん経験していて、色々と教えてくれた。
周瑜から遠ざけられていた俗っぽいことを、甘寧の乱暴な言い方で聞くのが面白くて大好きだった。
高校生になってからは、実際に様々な場所に連れて行ってくれるようになり、周瑜はいい顔をしなかったが、それでも甘寧が見せてくれる新しい世界の扉を叩くのをやめられなかった。
過保護な周瑜に大切に育てられたが、初めての体験に躊躇するとき、甘寧は決まって肩を抱いて、
「安心しな。何が起きても、俺が絶対ぇお嬢を守ってみせっからよ!」
と言ってくれた。
甘寧に対する気持ちは、いつしか恋に変わっていき、気づいたときには彼を好きな気持ちを止められなかった。
初めての恋に大騒ぎする心が面白くて楽しくて、甘寧と会える日はとても幸せな気分になれて、甘寧と会えない日は何も手につかないくらいに沈んだ。
甘寧に彼女はいるのだろうか。これだけに構ってくれているのだから、誰とも付き合っていないはずだ。
もしかしたら、のことを好きなのかもしれない。告白されたら、どうしよう。どんな顔をすればいいのか。嬉しくて倒れてしまいそうだ。ああ、早く、そんな日が来ればいいのに。
期待は膨らみに膨らんで、いつか甘寧は好きだと言ってくれるのだろうと、根拠もなく信じていた。
要するに、夢見る乙女だったのだ。
だから、まさか甘寧が告白もせずキスをしてくるなんて思わなかったし、失恋するなんて微塵も思わなかったのだ。
出世するにつれて甘寧が周家に顔を見せることが減っていき、寂しさを感じていたとき、甘寧はふらりと訪れた。
その日はの二十歳の誕生日で、甘寧は知ってか知らずか、連れ出した先でデザートにケーキを食べさせてくれた。
ついに、甘寧が告白してくれるものだと、の期待はこれ以上なく膨らんでいた。
きっとが二十歳になるまで待ってくれていたに違いない。が大人になってから、お付き合いをしてくれるつもりでいたのだろう。彼にしては古風な考え方だが、そのギャップもまた良し。さらに好きになった。
心配しないで。もう大人になったから、甘寧の彼女にして欲しいの。
そう伝えたくて、でも恥ずかしくて言えないから、お酒を飲むことで大人の証明をしてみせようと、ビールを飲んだが苦くて一口で降参してしまった。大笑いした甘寧が残りを飲んでくれた。
その後は甘いお酒を少しだけ飲んで、これからはお酒に慣れるために飲む機会を増やそうと決意し、のお酒初体験は幕を閉じた。
夜が更け、甘寧が車で家まで送ってくれる間、いつ告白が来るのかと楽しみにしていたのに、車内での甘寧との会話は、色恋とは程遠くて、いつもどおりだった。
いつだいつだと待っていたら、車は家の前に着いてしまい、甘寧は「またな」と別れの挨拶をした。
ちょっと待て。なんだ、それは。おかしいだろう。今こそ告白のときではないのか。
こちらから告白してしまおうか。いや、それだけは恥ずかしくて出来ない。
もしかして、甘寧はのことを好きじゃなかったのだろうか。いやいや、まさか、そんなこと。
迷った末、告白をしてもらえるような台詞をは絞り出した。
「……帰りたくないです。甘寧と、もっと一緒にいたいです。お、大人になったので……」
訳の分からぬことを言ってしまった自覚はあった。
しかし、そんな言葉の意味よりも、羞恥で潤んだ瞳、赤くなった頬、スカートを握った指の震えが、の想いを甘寧に伝えることに成功した。
沈黙が数分続いてから、甘寧がライトを消して二人の間を暗闇にした。窓ガラスの向こうの街灯にぼんやりと照らされた甘寧の横顔は、ぞっとするほど真剣で、男の顔をしていた。
「甘寧、どうし――」
言葉ごと飲み込むようなキスをされたと気づいたときには、甘寧は助手席に片手をつき、もう一方での顎を固定していた。
角度を変えられて何度もキスが降る。
突然のことに、体は全くついていけなかったが、心は嬉しいと喜んでいた。
夢にまでみた甘寧とのキスに、うっとりして目を閉じて、感覚を追う。
ずっと、こうなることを望んでいた。ああ、やっと、叶ったのだ。そう思うと、涙が浮かんでくるほど幸せで。
「ん、はあ……甘寧……わたし――」
好きです。ずっと前から好きだったんです。だから、嬉しいです。
そう伝えようとしたが、それは荒々しい息をした甘寧のキスに阻まれてしまった。
唇を甘噛みされ、強引に舌を入れられて、少し怖いくらいのキス。それが彼らしくて、やっぱり好きだ。
ようやく唇が離れた頃には、すっかりとろけてしまって、は、はふと息を吐いた。
ぼーっとする頭で、熱い呼吸していると、甘寧がスカートの中に手を入れて来て我に返った。
「だめ!」
力いっぱい彼の胸を押した。
あれほど、とろんとしていた心地良さは一瞬にして消え、身の危険を感じた。
冷静に考えてみれば、何をしているんだ、こんなところで。
キスされて嬉しいけれど、まだ甘寧は告白していないではないか。順番が逆だ。
「……悪い。どうかしてた。酔ってるみてえだ」
甘寧が、そっと離れて運転席に戻った。
「早く降りてもらえねえか?」
「あ……」
「さっきみてえなことは、簡単に男に言うなよ。な?」
再びライトが点灯した車内で、にっと笑った甘寧は、いつもの妹を見るかのような顔だった。
何も言えなくて、は素直に頷くことしか出来なかった。
それから直ぐ、甘寧は本社とは別の場所で勤務することが決まったらしく、周家には全く来なくなり、が送ったメールに返信はなく、電話しても繋がらなかった。
会えなくなって、連絡も出来ないようになって、やっとは甘寧との関係を客観的に考えることが出来た。
両思いだと疑うことなく信じていたが、何を根拠にしていたのか。甘寧が、そうだと言ったのか。はっきりとした態度で示したのか。
否。すべてはが拡大解釈した妄想に過ぎない。
そうと気づいたら、とてつもなく恥ずかしくなった。
それでも甘寧のことが好きだなんて、もうどうしようもない。もっと早く気づけば良かった。こんなに好きになってしまっては戻れない。
嫌われてしまったかもしれないが、せめて、もう一度、会って話がしたい。彼の勤務地に行って待ち伏せようか。いや、それは迷惑だろう。
毎日考えて、時には涙を流して、いっそ忘れてしまおうかと思うものの忘れられなくて。そんな日々を過ごしているうちに、就職先を考える年になって、彼を追いかけて周瑜の会社に入社しようかと悩んでいたころ、街で偶然、甘寧を見かけた。
視界に入れた瞬間に、心は色んな感情で乱れた。
懐かしい。嬉しい。憎らしい。寂しかった。ずっと好きだった。
湧き上がる恋心に押されるようにして駆け出した。行き交う人の合間を縫うようにして走って、彼に届けと腕を伸ばして名前を呼んだ。
しかし、近づいて見えてしまったものに、心臓を撃ち抜かれたような衝撃を受けて、は立ち止まった。
甘寧の隣で笑う女性。色っぽい服装に、抜群のスタイルで、真っ赤な口紅をさした彼女は、甘えるように甘寧の腕を取り寄り添っていた。
いくら鈍いにだって、彼らが恋人同士なのだと一目で分かった。
分かってしまったから、人前だというのに涙が止まらなかった。
何もかも遅過ぎたのだ。
甘寧を恨む資格などない。が勝手に期待して、勝手に好きだっただけだ。
告白もしていないには、失恋という言葉すら似つかわしくないけど、そのとき確かに、の恋は破れたのだ。
だから、甘寧が長期の海外出張に行くときも、周瑜に同行して、空港まで見送ったが、何も言えなかった。
「いい女になれよ。お嬢」
それが甘寧が、あの夜以降初めてにかけた言葉であり、最後の言葉だった。
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2015-12-01