……はずだった。今夜までは。
まさか再会するとは思ってもいなかったし、その再会が背後から忍び寄られて、口を封じられて羽交い絞めにされるとは思ってもなかった。
会いたかったような会いたくなかったような不思議な気持ちだ。
甘寧と決別しようと思って、周瑜のいる会社ではなく、関係ない今の会社に就職したというのに。
それなのに、どうして、この男は、またしてもを悩ますのか。しかも、最悪なタイミングで。
これが三ヶ月前だったら良かった。
三ヶ月前だったら、楽進と付き合っているという事実が壁になり、甘寧に何を言われても、“今のわたしには楽進という素晴らしい彼氏がいる!”と跳ね返して気にならなかったはずだ。
「違いますよ。わたし、甘寧のことなんて……なんとも……」
思っていなかった――と続けるつもりが、胸が締めつけられたように苦しくなった。
(どうして? なんで、こんなに苦しいの?)
たった一言の小さな嘘をつくだけなのに、何故こんなにも辛いのだろう。
「なんとも思ってなかったわけねえよな。お嬢は俺に惚れていた。だから、大人しくキスされたんだろ?」
その通りだ。なんとも思ってない男からのキスを受け入れるほど、奔放ではなかった。それは今も同じだ。
あのときの甘寧への想いは、本物だったから、だから、その気持ちをなかったことにするのが嫌なのだ。
(だって、あのときの気持ちは、嘘じゃなかった)
本当に、甘寧のことが大好きだったのだ。
何も知らない子どもだったけれど、それでも、本当に――
だから、たとえ、自分であっても、甘寧であっても、あのときの想いを馬鹿になんてさせない。
「わたしの気持ちを知っていたのなら、どうして……あんなことして……」
「あのくらいで、降参しちまうような初心に手を出すのは気が引けちまった。お嬢には俺なんかより他の奴が似合いだって思ってよ」
が慣れてないから、甘寧は手を出さなかった。ということは、ではない、男慣れしている他の人だったら手を出していたということか。
「わたしが、あのとき照れずにいたら、甘寧はわたしのことを……」
「抱いたな。あんな据え膳食わねえ方が恥ってもんだ」
「す、据え膳……」
否定出来ないところが少しだけ悔しい。
あの頃のには、甘寧の彼女になりたい、あわよくば抱き締めて欲しい、キスをして欲しいと願ってはいたが、その先は思いつかないほどに子どもだった。今は、あのときの言動は、本人にその気はなくとも、襲って欲しいと誘っているようなものだったと分かる。
「だがよ、お嬢が欲しかったのは、別のもんだっただろ」
「……はい」
が欲していたのは、甘寧の心だった。好きだという告白だった。
「それに、俺は応えられねえと思った。あんときの俺は、野郎どもを守っていくことしか考えられなかったからよ。お嬢が思っているような愛だの恋だの甘っちょろいことに構う暇はねえ。お嬢を抱いて泣かせるくらいなら、後腐れねえ女を抱いた方が都合が良かったからな」
そうだろうとは思っていたけれど、面と向かって言われると悲しくなってしまう。遅れて来た失恋にの目尻に涙が溜まる。
「おっと、泣くなって」
「泣いてません」
「泣き虫なとこも変わってねえな」
「だから、泣いてません」
「お嬢、話は最後まで聞くもんだぜ」
甘寧はの涙を親指で、ぐっと強く拭って笑った。
「俺の女になってくれねえか?」
長年待ち続けていた告白は、ロマンチックの欠片もなかった。
「はい?」
そのため、も憧れの告白台詞への返事とは思えない声を出してしまった。
「どこで何見ても、隣にお嬢がいたらいいのによって思っちまう。それくらい、俺はお嬢に惚れてる。だから、俺の女になってくれや」
出会ったときから、突拍子もないことを言う人だったが、数年会わないうちに、さらに磨きがかかっていたようだ。
「それは……甘寧がわたしを好きってことですか?」
「おう」
どうして、今なのだ。
三ヶ月前だったなら――いや、それよりも、もっと前、あのときに言ってくれたら良かったのに。
盛大に鼓動し始めた心臓を押さえて、は一度深呼吸をしてから声を出した。
「あの、わたし、付き合っている人がいて……」
「知ってる。お嬢のことは、野郎どもから聞いてたからな」
「なら、どうして……」
「そいつと、上手くいってねえんだろ?」
「っ!」
「図星か。そうだろうな。そうでなきゃ、お嬢はここに来てねえよな」
甘寧は最初から、に恋人がいると分かっていて、ここに連れて来て告白をしたのか。
よくぞ、そんなことが出来たものだと感心するに、甘寧がふっと笑って頭を撫でた。
「声をかけて、お嬢が来なかったら諦める。お嬢が誘いに乗ってきたときは、まだオレがお嬢の中にいるってことだ」
来たというか、連れ去られてたというか。本気で抵抗すれば、いつでも逃げられたのに、そうしなかったのだから、結局もここに来ることを良しとしたと言えば、そうなのだが。
「なあ、俺のことが、まだ好きなんだろ」
「わたしは……」
「忘れられねえんだろ」
「ち、違います……」
の隣に移動した甘寧が、じりじりと距離を詰めてくる。
おしゃれなソファ席に境はない。そして、ここは個室だ。と甘寧以外に人はいない。
壁に追い詰められ、頭を挟むようにして手をつかれてしまっては、身動きが取れない。
「だって、わたしには、付き合ってる人がいます。彼のことが好きです。だから、甘寧のことは――っ!」
甘寧から目をそらした一瞬に、顔を近づけられた。キスをしようとしているのだと分かって、反射的に顔をそむけて、間一髪のところで接触は免れた。
甘寧は、くつくつと笑う。
「からかわないでください! 冗談でも、こういうこと……」
「平手が飛んでくるかと思ったが、顔をそむけるだけか。お嬢、やっぱり、お嬢は俺のことが好きだと思うぜ」
の胸の上に人差し指を置いて、軽く二度打った。
「お嬢の心ん中に、少しでも俺を残したままにした野郎が悪い。好きな女の心は全て、てめえで支配しねえとな。お嬢みてえないい女と付き合うんなら、特にだ」
甘寧はの顎を優しく持ち上げた。
「お嬢、お前が選べ。俺や付き合ってる奴のことは考えねえで、お嬢がどうしたいかを決めろよ。お前がきちんと考えて出した答えなら、俺はどっちでも構わねえ」
「甘寧……」
「だから、これは――前払いってやつだ」
甘寧はの頬に、羽根のように軽いキスをした。
次の日、の頭の中は楽進と甘寧のことでいっぱいになり、仕事に集中出来ず、同僚の蔡文姫に体調が悪いのではないかと心配されるほどだった。
たまたま通りがかった廊下で、楽進と出くわした。互いに目を合わせたまま、数秒固まる。
先に動いたのは楽進で、優しく微笑んで、こちらに近づいた。とすれ違うギリギリのところで身を屈め、「明日、待っています」と耳元で囁いて去っていった。
それからは、デスクに戻っても何も手につかず、蔡文姫の強い勧めもあり早退した。
社会人として、こんなことで仕事が出来なくなるなんて、どうかしていると思うが、長年蓋をしてきた恋心を一息に解放したのだ。今日くらいは大目に見てもらおう。
帰宅後、ご飯も食べずにベッドに伏した。
(苦しい……)
恋って、こんなに苦しいものだっただろうか。
楽進と付き合ってからは、春のおひさまのように暖かく優しい恋をしていたから、本来はそういうものなのだと考え方を変えていたが、よくよく思い出してみると、甘寧に片思いしていたときは、彼の仕草や言葉に一喜一憂して、甘い中にも苦しいものがあった。
好きになってくれない甘寧なんか嫌い、と思うときもあれば、やっぱり大好きと思うときもあって、彼に恋をしていたときの心は大忙しだったが、とても幸せだった。
しかし、楽進と付き合ってからの幸せも嘘ではないのだ。
甘寧に告白する前に玉砕し、自分には魅力がないのだと思い続けていたを、誠心誠意愛してくれた。
こんな自分でも大切にしてくれる人がいる。
楽進が恋人になってくれて良かった。甘寧と付き合っていたら、こうはいかなかっただろう。
だから、あのとき何も伝えなくて良かったのだ。
(……本当に?)
本当に、これが最善だったのだろうか。
あのとき告白しても甘寧に迷惑だったから告白しなかった。
誠実な楽進が告白をしてくれたから付き合った。
誰も傷ついていない。困らせていない。だから、最も良い選択だった。
(違う……)
甘寧のため、楽進のためなんて嘘だ。
ただ、自分が傷つきたくなかっただけだ。
相手からの行動に期待して、何もせず待っていただけ。
“相手に嫌われたくないから”というのもあるけど、それ以上に自分を守りたかったから。
付き合っている楽進に悪いから、甘寧の告白を断るのではなくて、自分がどうしたいのかを考えて選ばないと駄目だ。
他のせいにするのは簡単だし楽だ。でも、それでは、またずっと後悔したまま過ごすことになる。
(わたしが……本当に選びたいのは……)
どちらを選んでも、誰かが傷つく。それは避けられない。
それでも自分で選んで受け入れなければならない。
これは今まで本当の恋心に目を瞑ってきた自分への罰であり、最後のチャンスだ。
今度こそ、ちゃんと自分で選んで行動するのだ。
その結果、どちらかを傷つけることになっても選ばなければ、きっとどちらにも進めない。
一晩中考えた翌朝、はゆっくりと起き上がった。
冷たい水で顔を洗って着替えて、朝ご飯を食べ、メイクをし、コートに袖を通してストールを羽織って、楽進に会うため、12月の寒空の下へと飛び出した。
- continue -
2015-12-01