さっきから、涙が止まらない。
いい大人がぼろぼろ泣きながら歩いているなんて恥ずかしいにも程がある。
けれども、止められないのだ。
「そうですか……それがあなたの気持ちですか」
楽進の傷ついた顔が忘れられない。
「あなたに必要とされたかったのですが……残念です」
とても辛そうなのに、笑顔を作るところが、彼の優しい性格を表していた。
「今まで、ありがとうございました。どうか、お幸せに……」
感謝の言葉をかけてもらう資格なんて、にはないのに、楽進は最後まで微笑んでいた。
あんなに優しい人を、あんなに愛してくれた人を傷つけてしまった。
に泣く権利はないのだが、涙は出続ける。
楽進がどうして長い間会わずにいたのか、その理由を聞いて、何故もっと彼を信じてあげられなかったのかと悔やんだ。
もっと楽進を信じていれば、甘寧への想いに区切りをつけて、過去のものに出来たはずなのに。
しかし、もう遅い。
どれだけ甘寧を好きなのかに気づいてしまった今、前と同じように、楽進を愛することなんて出来やしない。
何度謝っても足りないだろう。許されないだろう。
でも、それでも、選んでしまったのだ。
今度こそ、ちゃんと、自分自身で。
「なんて顔してんだよ、お嬢」
連絡を入れて数分してから到着した甘寧は、車から降りて開口一番に言った。
楽進と別れた足で、ここまで泣きっぱなしでいたは、うさぎのように目を真っ赤にして、鼻をすすり、勢いよく甘寧に頭を下げた。
「ごめんなさい! わたし、嘘をついてました!」
「あ?」
今度は、ばっと顔を上げて、息を大きく吸い込んだ。
「本当は、ずっと前から、甘寧が好きだったのに、傷つくのが怖くて、好きじゃないって思い込んでました!」
泣きながら大声を出すものだから、時折、呼吸が乱れそうになるのを整えつつ、想いの丈を吐き出した。
「甘寧が他の人とお付き合いしていることが、すごくすごく嫌で、悲しくて、苦しくて、そんな気持ちに耐えられなくて、逃げていました!」
あんなに甘寧を好きだったのに、思い出すと辛いから、それを無かったことにして忘れたと思い込んでいた。
甘寧に恋していたことを忘れることで、告白もせずに諦めてしまった恋に気づかないふりをした。
そうすることで、傷つくことから逃げていた。
新しい恋の居心地の良さに逃げて、中途半端なまま、甘寧への恋心を隠していた。
隠すくらいなら、消滅させてしまえば良かったものを、そうしなかったのは、が何も行動に移していなかったから。
何もしなければ、傷つかない。
それは最も安全な方法で、自分を守れるけれど、想いだけは残ってしまい、終わりのない迷路を永遠に彷徨うことになる。思い出の中で、ずっと甘寧を好きなままでいることと同じだ。
ふとしたときに思い出しては、彼に何度も恋してしまう。
だって、終わっていないから。告白していないから。振られていないから。
だから、まだ想い続けていたって構わないでしょう。
そんな言い訳を与えて、ずっと大事に抱え込んでしまうことになる。
が本当に楽進だけを選ぶのあれば、もっと早くに甘寧への想いを断ち切るべきだった。
再会しても、甘寧の誘いに乗らなければ良かったのだ。
すうっと大きく息を吸い込んで、は今まで使わずにいた勇気を精一杯投げ出した。
「わたし、甘寧が好きです! ずっと、ずっと前から、すごく好きでした!」
「おう、知ってたぜ」
一世一度の本気の告白は、にっと微笑まれて受け流された。
肩透かしを食わされたは、次に何をすればいいのか分からず、目を白黒させた。
「えっと……」
「それだけか? 足りねえな。俺がお嬢を欲しがってるのと同じくらい、お嬢も俺のことを欲してくれねえか?」
これ以上のことを言えと言われても思いつかない。
好きだと伝えるだけでは駄目なのか。
甘寧の求めている答えが分からない。
なら、自分の中から答えを探さなければならない。
(わたしが、甘寧に望んでいることは……)
好きだと言ってくれるのであれば、他に望むことは、これだけだ。
「どこにも行かないで! わたしだけを見ていてください!」
「俺にすべてを差し出せるって、覚悟出来るか?」
そんな自信ない。甘寧の期待に応えられるだけの魅力が、自分にあるだろうか。
いや、悩んでも仕方がない。出来る出来ないを考えるのではなくて、考えなくてはいけないことは、自分の心が選びたいものはどちらなのか、そのことだけだ。それだけを考えれば、答えは簡単だ。ずっと前から、恋心が訴えていたのだから。
「はい。甘寧のものになります。だから――」
だから、どうか、のことだけを愛してください。
甘寧は涙を流し続けるを静かに見つめていた。やがて、彼の唇の端が上がり、自信に満ち足りた笑みで、の頬を撫でた。
「上出来だ、」
いつもより低い声が、初めての名前を呼んだ瞬間、の胸は高鳴り、熱を持った体は動けなくなってしまった。
その隙に、甘寧は一度屈み、の膝裏をすくうようにして片腕で持ち上げ、バランスを崩して後ろに倒れることを待っていたとばかりに、もう一方の腕で支えて、一息に膝を伸ばして立ち上がると、お姫様抱っこを完成させてしまった。
「え? あの、甘寧?」
「このまま、さらうぜ」
「え? ええ!?」
「俺のものなんだろ? 俺と一緒に来るのが当然だろ。それとも、嫌なのか?」
「い、嫌じゃないです! あの、嬉しいです!」
「つまり?」
「好きです!」
素直だなと笑いながら、甘寧はを抱っこしたまま、車に乗り込んだ。
楽進への罪悪感が消えたわけではない。
けれど、もう思い出しては駄目だ。
自分は甘寧を選んだのだから。
もう迷ったりしない。これからは甘寧だけを想って生きていく。
そう誓って、は甘寧の首に、しかと抱きついた。
***
お嬢ことが自分に惚れていることに、甘寧は早いうちから気づいていた。
の表情や仕草に好意が見え隠れしていたから、とても分かりやすかった。
好かれるようなことをした覚えはなかったが、悪い気はしなかったので、周瑜に嫌みを言われてもを連れ出すことはやめなかった。
出会ったときは小娘だったも、一年二年経つにつれ、女らしい体になっていった。中身は相変わらずの世間知らずで純粋なお嬢さんだったが、二つに結んでいた黒髪をほどいて背中に流し、眉を整えると、それだけで大人っぽく見えた。
甘寧の好みには、まだ足りないが、胸や尻も膨らみ、丸みを帯びた。今後の成長が楽しみだと思っていたら、顔に出ていたらしく、怖い顔をした周瑜に肘鉄を食わされた。
そんなに警戒しなくても、ガキに手を出すほど、女に困っていないと言っても、周瑜は聞き入れてくれなかった。今からこんな調子では、が嫁入りするときは一体どうなってしまうのやらと、周瑜の過保護っぷりには呆れた。
そのときは、まさか自分がに手を出すとは考えもしなかったのだ。
自分を慕ってくれる舎弟たちのため、甘寧は早く出世する必要があったので、周家にお邪魔する回数は徐々に減っていった。
久しぶりにを連れ出すと、その日はちょうどの二十歳の誕生日だったらしく、彼女は目を輝かせて喜んだ。
誕生日などの記念日ごとには、全く興味がない甘寧がの誕生日を知っているはずもなかったのだが、喜んでくれるのであれば、まあいいかと思い、面白がって酒を飲ませた。
予想通り、は苦い顔をしたので、甘寧は遠慮なく大笑いした。あまり飲ませては周瑜に怒られるから、少しだけにさせて、遅くならないうちに車で家に送ってやるつもりだった。
「……帰りたくないです。甘寧と、もっと一緒にいたいです。お、大人になったので……」
家の前に着いたとき、がそんなことを言って誘った。
魔が差したというのだろうか。本意ではなかったというのだろうか。
そのどちらも違ったように思う。少なくとも、あのときはを上司の従妹ではなく女として欲した自分がいた。
匂い立つ色気にあてられて唇を奪うと、は抵抗せず受け入れた。
それをいいことに、好き勝手口内を嬲り、満足したところで顔を離すと、は真っ赤になり涙目でうるうるしていた。
さっきは、たった一口の酒に参っていた子どものくせに、こんな顔も出来るのかと驚きつつ、行為を進めていくと、に強く拒まれた。
「だめ!」
顔は上気していたが、目は怯えていて、腕を伸ばして必死に甘寧の胸を押すに、これ以上することは出来なかった。
この娘は、甘寧に惚れてはいるが、他の女のように体を貪るだけの愛し方を望んではいない。大切に、丁寧に、それこそ、従兄の周瑜のような深い愛情に溢れた愛し方を望んでいるのだ。それは甘寧には出来ない愛し方だ。
ここで無理矢理抱いてしまうことは出来る。出来るけれども――
「……悪い。どうかしてた。酔ってるみてえだ」
甘寧は、しなかった。
他の女にだったら、簡単に出来るようなことだが、には出来なかった。
の想いに応えられない甘寧ではなくて、に似合いの真面目な好青年と一緒になった方が幸せだろうと思ったからだ。
それからは、と会うのを避け、仕事に没頭した。
自分が昇進することで、慕ってくれる舎弟たちを守れ、夢を叶える支援をしてやれた。
全てが順調に進み、やっと目標としていた場所に立つことが出来たのだと感慨にひたる頃、ここにがいればいいのに、と思うようになった。
何故、を思い出したのか。欲求不満なら別の女でもいいではないか。
そのとき身近にいた女は少なくなかったが、どいつもこいつも物足りない。
でなければ意味がないように思えた。
自分から避けておきながら、やっぱりがいいと思うなんて、我ながら笑ってしまうが、それが本音なのだから仕方がない。
自分の気持ちに嘘はつけない。そんなことをするくらいなら、素直に従ってしまった方がよっぽどいい。
思い立ってから、すぐに動いた。
を避けるために、連絡先は一切消してしまったから、一から調べることになった。
周瑜に聞けば早いだろうが、従妹を口説き落としたいので連絡先を教えてくれと言ったところで教えてくれるわけがない。むしろ、自殺行為だろう。
幸い、舎弟の中に、と同じ会社に通う奴と繋がっている者がいて、そこから情報を得た。
そいつによると、は一年前から付き合っている男がいるとのこと。
舎弟たちが不安そうに、こちらを見て来たが、甘寧は一笑に付した。
「どいつと付き合ってようが関係ねえ。問題はお嬢がそいつを選ぶか、俺を選ぶかだろ」
舎弟からは拍手喝采されたが、そんな特別なことではない。
が自分を選ばなかったときは、そういうものだったのだと素直に受け入れるだけで、が自分を選んだときは自分のものにすればいい。
難しく考えることはない。とてもシンプルなことだ。
あれこれ考えて、自分の本音を言えないことの方が、よっぽど面倒で厄介なことなのだから。
自分の気持ちに素直でいること。きちんと自分で選択をして行動すること。この二つを守って来たからこそ、今の甘寧がある。
(俺を選ばねえなら、お嬢のことは諦める)
たった、それだけだ。
の連絡先を手に入れて、電話をかけて呼び出してやろうかと思ったところで、ちょうどよく、帰宅途中のが甘寧が乗っていた車の横を通り過ぎた。
舎弟に待っているように告げて、車を降りると、の後を追った。
久々過ぎて、どう話しかけていいものか悩むが、あの頃と同じように接すればいいかと決めて、甘寧は含み笑いをしてに背後に近づいていった。
- written by 未花 -
2015-12-01