姜維は文を書いていた。
たっぷりの墨が入った硯の縁で、筆先を整える。
真っ新な竹簡に数文字書いては筆先を整え、足りなくなれば墨を浸し、整えるを繰り返した。
ふと窓の外から、烏の鳴く声が聞こえた。思わず手を止めて窓の外を見やる。
夕方だというのにもう薄暗い。
早く書いてしまわねばと再び手を動かそうとしたとき、背後に立つ存在に気が付いた。
「鍾会殿」
一体いつからそこにいたのか。
驚く姜維の姿に、鍾会は鼻で笑って応えた。
「そんなに帰るのが楽しみなんですね。ただ文を書くだけなのにそんなに時間を掛けるなんて、私には到底考えられません」
「見ていたのですか」
「私が来たというのに気付かない貴方が悪いんですよ」
そう言って空いた席に腰かける鍾会に、姜維は内心溜め息を吐いた。
「ほら、私の存在は気にせずさっさと書いて下さい。そうしないとこちらの用件を済ますことが出来ません」
「……いえ、迷惑を掛けるので先に用件を聞きます」
「貴方のその大事な文に比べたら大した用でもないので、後で結構です。さあ、ほら早く。私を待たせる気ですか」
もはや仕方ない。
隣で踏ん反り返る鍾会を、姜維は敢えて意識しないようにして、文の続きを綴った。
鍾会はその様子を見て、楽しそうに薄笑いを浮かべていた。
夜。
日にちももうすぐで変わるという頃に、姜維は帰路を辿っていた。
寒さが頂点に達する時刻である。吐く息は白く、手綱を握る指は凍えていた。
月の光や星も隠れた黒い頭上から、白い雪がゆるゆると落ちてくる。
街の灯りは消え、人々の声や物音も聞こえない。
ただひたすら真っ暗で、白い雪と静かな街並みだけが視界に広がっていた。
ぞっとした。
まるでこの世界に自分一人だけが取り残された気分になって、馬の進みを少し早めた。
(早く帰りたい)
あの人のいる、私の居場所へ。
自邸に着くと、眠たげに立つ門番が主人に気付いて、門を開けてくれた。門番に早く休むよう声を掛け、騎乗したまま厩舎へ向かう。自然と気持ちが早まる。
厩舎を照らす灯りの前に、一人の姿が見えた。
その姿に見覚えがあって、姜維は思わず下馬をして、馬を引きながら駆け寄った。
その者もこちらに向かって歩いてくる。
深緑の外套を纏い、頭には白い布巾を被って、白い息を吐きながらこちらに向かってくる。
その姿に無性に愛しさが込み上げた。
「」
妻の名を呼ぶ。
声に出して名を呼べることの尊さに、姜維は震えた。
「伯約」
駆け寄った妻――の白い手が、姜維の頬に伸びる。
あたたかいの手は、姜維の顔を綻ばせた。
「、ただいま」
頬にある手の上に、姜維は己の手を重ねた。
「おかえりなさい、伯約」
そう言って、は微笑む。
愛おしい妻の笑顔に姜維の顔が更に緩む。それと同時に、不意に頬に痛みが走った。
何事かと思ったら、その妻が自分の頬をつねっていたのだ。
「おそい。もう深夜よ」
頬を膨らます妻が可愛くて、姜維はそのまま妻を抱き締めた。
【 変わらないものはひとつだけ 】
数ヵ月前、蜀は滅亡した。
劉禅は魏に降伏し、魏はそれを受け入れた。
姜維も断腸の想いでそれを受け入れ、魏の降将となった。
ここ成都は魏領となり、新しく太守としてトウ艾が赴任している。その補佐として鍾会が在籍しており、更にその補佐として姜維が就いている。
不思議なものだった。
成都は蜀の地である。この城で蜀の文武官と執務を行い、盃を交わし、夢を語り合った。
その場所でいま姜維は魏の官吏に囲まれ、降将として今だ拘束された日々を過ごす。
踏みにじられた遺志、守れなかった後悔、募る罪悪感。残された責務。批判。重圧。
何度も何度も歯を噛み締めた。
何度も何度も吐きそうになった。
気が狂いそうになった。叫びだしたくなった。
虚しくて、苦しくて、痛くて、だけどどうしようもなくて。
それでも姜維はこの場所で生きるのだ。
生きていかねばならぬのだ。
ふと、姜維が眠りから目を覚ます。
悪夢をみたわけでもないのに、息苦しい。
思わず喉をつねる。ただただ呼吸がしにくかった。
ふと、隣を見る。
そこには同じように瞼を閉じ、身体を丸めて眠るの姿があった。
それだけで、呼吸が楽になった。
規則正しく寝息を立て、上下するその身体が無性にたまらなくなって、思わずその首もとに顔を寄せる。
肌から伝わる温もりに安心して、姜維は瞼を閉じた。
部屋が薄暗いことから、朝までまだ時間がある。
もう少し、眠ろう。
かじかむ足をに寄せて、姜維は再び眠りについた。
冬の朝は寒くて、布団から出るのが辛い。
鳥の微かな鳴き声と薄ら明るい室内に朝だと気付きながらも、姜維は布団から出られずにいた。
ぎしりと、寝台の端に重みが加わる。
隣で寝ていたが少し前に布団から抜け出して、今また戻ってきたのだ。
目を合わせると、は困ったように笑った。
「お湯、沸かしてます。起き抜けに冷や水を飲むのは辛いでしょう?」
そう言ってはもう一度、寝台に横たわる。
お互い寝台の上、向かい合って同じように二人布団にくるまっていた。
「寒いな、今朝も」
「ええ。でも昨日や一昨日の方がもっと寒かったわ」
「そうかな」
「だって、伯約があったかいから」
そう言って、は嬉しそうに顔を赤くする。
姜維もなんだか恥ずかしくなって、同じように頬を染めた。
そも姜維が自邸に戻って休めれたのも、春節休み以来の実に十日ぶりであった。
この成都が蜀のものから魏のものとなってから、その体制の立て直しのため暫く激務が続いていた。
普段は城内にある自室で寝泊まりしているが、自邸に戻れるのは規則で五日に一日だけである。
元宵節前に一度帰りたいと願っていたが、幸いにも帰ることを許されたため、昨日の夕方に急いでに文をしたためた次第である。
「昨夜はありがとう。暗くて寒い中、待つのは辛かっただろう」
あの後、が用意していた夜食を食べ、たっぷりの湯を溜めていた風呂に入り、そのまま寝台に横になった。
早朝から続いた激務により、身も心もくたくただったのだ。
「伯約こそ、毎日お疲れさま。今日は一緒に過ごそうね」
そう言って、は柔らかく微笑む。
姜維にとってその言葉は、極上の褒美に思えた。
「今朝なにが食べたい?」
「うん、あたたかいものがいいな」
「お粥にしようか? 野菜たっぷり入れて。あ、鶏肉もあるから入れようかな」
朝、鳥が鳴く声。
窓から差し込む明るい日差し。
寝台の上、妻と二人で布団にくるまる。
それのなんと幸せで、甘美なことか。
いつもは張り詰めた表情を浮かべる姜維の顔が、笑顔で綻んだ。
湯が沸いたという使用人の声に、のそのそと二人して起き上がる。
ぬくぬくから出るのはいつもは億劫だったが、二人なら平気だった。
は扉から顔を出し、使用人に何か指示を出している。
その間姜維は装束棚から普段着を取りだし、寝間着をほどいていた。
少しして、が戻ってくる。
「まあまあ!」
大袈裟にが声を張り上げて、着付けをする姜維に近付く。
「せっかく私が着付けをしようと思ったのに、ひどい人!」
ぷっと、姜維は笑う。
「貴女も早く着替えないと、使用人に示しがつかないぞ」
「まあ! 今日は特別な日なのだから、皆だって分かってくれてます!」
奥様、という扉越しの声に、は勢いよく振り返ってそちらに走っていった。
面白いほど忙しなくて、姜維は思わず笑う。
は扉を開けると、何やら膝下ほどの桶を使用人から受け取っていた。
重たそうにへっぴり腰になりながらその桶をこちらに移動する姿に、姜維はぎょっとして近づいた。
桶の中を見ると、たっぷりのお湯が入っていた。
思わずから桶を奪い取る。
「女人がこのような重いものを持ってはいけない」
「私があなたの侍女時代だった頃はイヤというほど持たされましたから慣れてます」
いまそれを出すのか。
「だけど今は、私の妻だろう」
それはそうですけども。
ぷうぷうと頬を膨らますが、憎たらしくも愛らしく感じる。
は元々侍女であった。
元は諸葛亮の侍女であり、諸葛亮が亡くなったあとに姜維の侍女となった。
紆余曲折を経て夫婦となった二人であるが、確かに彼女の侍女時代は、使い走りや雑用がとにかく多く、彼女の言うように重いものなど嫌というほど持っていたことは間違いない。
の指示で、重たい桶を寝台の淵まで持っていく。
一体何に使うんだと疑問に思っていると、不意に拗ねたがぼそりと呟いた。
「寒いから、足湯をしてもらおうと思って」
その配慮が嬉しくて、姜維は思わず笑顔になった。
寝台に座し足元をまくりあげて、両足を桶に浸ける。
心地よい温度と、浮遊する足の感覚。
じんわりと爪先から温まっていく感覚に、ほっと息がもれる。
朝からこんなに贅沢をして、いいものなのか。
「じゃあ私、ご飯作ってくるから、ちょっと待っててね」
そう言って立ち去ろうとするに、姜維が声を掛ける。
「貴女も入らないのか?」
「え」
そう言ってからなぜか、姜維は赤く頬を染めた。同じくも一瞬で頬を染めた。
夫婦というのに、夫婦だというのに、初なところがある二人は、ちょっとしたことでもすぐに頬を染める。
は「あー」とか「うー」とか意味もなく呟きながら、のそのそと近付き、そして姜維の隣に座した。
姜維も少し横により、二人が足を浸けれるように場所をあけた。
は観念したかのようにそろそろと足元をまくりあげる。
それを隣で感じながら、姜維はごくりと唾を飲み込んだ。
の白い足が露となり、しなやかな爪先が湯に触れる。ふと、の息がもれた。
筋肉がついてしっかりした男の足と、白くて華奢な女の足。
桶の中で二人の足は、お互い触れないように遠慮がちに縁に寄って、浸かっている。
ちらりと姜維が横を見る。は変わらず緊張している。
それを見て余裕が生まれたらしい姜維が、足を少しの方へ動かした。その動きで波紋が生まれ、の足に寄ってぶつかった。
それを見たも、戯れに少し足を横に動かしてみる。波紋が生まれて、姜維の足にぶつかった。
そのさまが面白くて、姜維が足を動かす。
が足を動かす。
姜維が足を動かす。
段々大きくなる波紋に二人して面白くなって、が不意に大きく足を横に動かした。
「あ」
結果、姜維のすねを足で攻撃した。
姜維は声もなくうずくまって痛がっていた。
「やっちゃった」
「……」
「ごめんごめん」
「痛い……」
「大丈夫大丈夫、痛いのは一瞬」
そう言っては横から布巾を取り出すと、さっと足を桶から取り出して拭った。
そして靴下を履き、「ご飯作ってくるから」と部屋から飛び出して行ったのだった。
姜維は声もなく、うずくまっていた。
桶と一緒に運ばれてきた白湯を飲み、洗顔を済ませ、姜維は少しぬるくなってきた足湯を眺めていた。
こんなに朝から贅沢していいのかと、再びそう思った。
そんな時だった。
扉を叩く音がして、次の瞬間には盆を持ったが姿を表した。
「お待たせしました。ご飯できました」
いつの間にかは普段着に着替え、簡単に髪を結っている。
寝台に座したままの姜維の隣に、は盆を置いた。盆の上には蓋をした鍋と二人分の食器が置いてある。食欲を掻き立てる匂いが鍋から漂い、ごくりと思わず唾を飲み込んだ。
は胸元から布巾を取り出すと、姜維の足元に跪いた。
「もうぬるいでしょう。足、拭きますからね」
「いや、自分でやるからいい」
「これは私の仕事です」
「もう侍女ではないだろう」
「侍女じゃなくても、あなたの妻だから」
そう言われたら、断れない。
に言われるがまま桶から足を抜き、左足、右足と、されるがまま優しく拭われる。
足のコリを解しながら丁寧に拭うその様に、姜維はが愛おしくなった。
長いようであっという間だったその時間は終わり、使い終わった布巾は桶に沈められる。
は立ち上がると、そのまま姜維の隣に座した。
「お待たせしました。あたたかい内に食べましょう」
が蓋を開けると、ふわっと蒸気が上がる。
中から、たっぷりの野菜が入った粥が見えた。
それを食器二つに分けて、一つを姜維に手渡す。匙も受け取り、二人で「いただきます」と言って粥を口に含んだ。
米と粟、野菜と豆が入ったとろとろの粥は、疲労で荒れていた胃に優しく染み渡った。
「伯約、今日の予定なんですけど」
同じように粥を頬張るが、嚥下してから口を開く。
「お家での仕事、溜まってます。伯約に見てもらう書類とか、買わないと間に合わない調度品の見積りとか、使用人への賃金とか」
「暫く留守にしていたから、仕方ないだろう」
「はい。よろしくお願いします」
器を持ったままひょこりと頭を下げるに、姜維は少し笑ってしまう。が侍女だったときもこんな風景だったなと思い出したからだ。
あっという間に朝食を平らげて、片付けに入る。
使用人に食器と桶を下げてもらい、は姜維の頭髪を結う。
「少し癖になってますね」
「昨夜風呂に入ったあと、眠るまでに完全に乾いてなかったからかな」
「でも相変わらず櫛に引っ掛からないのが憎らしい」
こうやってに髪を梳いてもらうのも、実に十日ぶりだ。
毎日がこんなだったら良いのに、と姜維は思う。
でもこんな一日のために苦悩の日々を過ごしているというのなら、やはり生きねばならぬと思った。
胸がちくりと、痛んだ。
- continue -
2016-02-01