どこか遠くで、鐘の鳴る音が聞こえた。
この鐘は夕と夜の境に鳴らされる鐘である。
その音にはっとが目を覚ましたとき、案の定辺りは既に暗くなっていた。
「伯約起きて! たいへん、もう夜よ!」
隣で眠る姜維の身体を激しく揺さぶり、慌てたようにが叫ぶ。
姜維はううんと唸って、身体を胎児のように丸めて眠っていた。
「夕方までって言ったのに、夕方までって言ったのにー!」
そう言って、起きない姜維の頬をぺちぺちと叩く。
天灯作りと湯円作り、各々の作業を終えた二人は、意外にもくたくたにくたびれていた。
両者とも気合いを入れすぎてしまった次第である。
おやつに茶と果物をつまみながら、うとうとし始めた二人は「夕方まで昼寝をしよう」と決めて、仲良く揃って寝台に横たわった。
そして、この様である。
「」
重たい目蓋をようやっと開け、姜維がのそのそと身を起こす。
そしてと視線を合わせると、寝起きの掠れた声で「おはよう」と挨拶をした。も負けじと「おはようございます!」と返す。
「すまない。寝すぎた」
「寝すぎましたよ、それはもう!」
「腹が減ったな……」
「私だって空いてます!!」
もー、と牛のような悲鳴を上げながら、ばたばたとが室から出ていった。
姜維はのそのそと寝台から出ると、の後を追った。
の手早い動きと指示により、あっという間に夕餉の仕度は整った。
そして大鍋いっぱいに浮かぶ白玉を目にしたとき、姜維の中で過去の記憶が鮮明に甦った。
(丞相――)
亡き師にすがり付きたい気分でいっぱいである。
それに追い打ちをかけるように、が声を掛けてきた。
「あ、それともうひとつ同じ鍋があるから、そっちも運んでね。そっちはぜんぶ甘い湯円よ」
言われるがまま振り向くと、そこには同じような大鍋に同じような白玉がぷかぷかと浮かんでいた。湯が見えくなるほどの白玉たちが、鍋の中でひしめき合っている。
(月英殿、なぜあなたは――)
姜維はの師を恨みたくなった。
少し遅めの夕餉であるが、食卓は豪華だ。
食卓の上には湯気が登る大鍋が二つと、魚の煮付け、野菜を酢と醤油で味付けたものなどが並ぶ。
ちなみに湯円は「使用人にも振る舞う」と言って取り除かれて量は少し減ったが、それでもぷかぷかと浮かぶ白玉の姿に、姜維は戦いていた。
食事も揃ったということで、姜維が二つの天灯に火を灯す。
そうすると蝋の灯りだけであった室内が、随分と明るくなった。
「なんだか、不思議な気分ね。いつもの食卓じゃないみたい」
はそう言って、姜維の湯呑みに茶を注ぐ。
「あ。春節のときの椒柏酒が残ってるんですけど、飲みますか?」
「いや、いい、やめておく」
「そんなに気にしなくても」
「、私をからかっているだろう」
そんなことありません、とにやにやするを横目に、姜維は茶を一気に飲み干した。
春節では椒柏酒といって、山椒と松柏の実を酒に浸した酒を飲むしきたりがある。
元日休みとして帰宅した姜維もまた、とともに椒柏酒を頂いたわけだが、前日までの疲労からか姜維の酔いは酷く、翌日は丸一日寝込むはめになったのだ。
「いただきます」
声を合わせて、二人で合掌する。
大匙で湯円を掬い、食器によそう。
そして今度は子匙で大粒の湯円を掬うと、そのまま口に運んだ。
ぷりっとした白玉の食感と、中の餡から溢れる肉汁が絶妙で、堪らなく美味しい。
「美味しいな」
これならいくらでも入りそうだ。
だがここで調子に乗って速度を上げて食べれば、あとで痛い目を見る。いかにしてこの量をおいしく平らげれるか、が姜維の目標なのである。
次々と白玉を平らげる姜維の姿に、真意を知らぬは満足そうに微笑んだ。
「よかった。作った甲斐がありました」
肉餡に飽きれば甘い餡に移り、魚の煮付けを食べ、酢の物で口をさっぱりさせる。
姜維もも口数少なく、もりもりと食事を進めていった。
その昔、諸葛夫妻と姜維、で元宵節を祝ったことがある。
その時も同じように大鍋に湯円を用意して、四人で食べた。
男性二人が早々に根を上げる中、月英とは「美味しい」と言ってもくもくと食べ続けていた。 その光景を見ながら、男性陣は湯呑みを握りしめていた。
その夜、四人で街路にある提灯を見に行った。
街一面の灯火に、感嘆の息が漏れた。
諸葛夫妻が並んで先を歩くため、姜維とは自然と二人横並びになった。
はまだ自覚してはいなかったが、姜維は出会ってからすぐにに惚れていた。
降将として肩身の狭い姜維を気遣い、諸葛夫妻はささやかな宴席を開いた。その場で初めて、に出会った。師とその妻に囲まれ、緊張から酔いの回った姜維を介抱したのがであり、それがきっかけで姜維はを意識するようになったのだ。
そして諸葛夫妻と交流を重ねるたびにとも会う機会が増え、そしていま、高鳴る胸を押さえながら、姜維はの隣を歩いている。
諸葛夫妻は少し前を歩いている。これはと接触できる良い機会ではないのか、いや、いきなりだと引かれるかと逡巡しながらも、期待した目付きで隣を見た。
隣にの姿はない。
思わず二度見する。やはりいない。
驚いて振り返ると、はいつのまにか立ち止まって、じっと一つの提灯を眺めていた。
「殿?」
思わず駆け寄ると、姜維はぎょっとした。
の輪郭を照らすように、一筋の滴が彼女の白い頬をなぞっていた。
泣いている。姜維が再び声を掛けようとすると、はゆっくりとこちらを振り向いて、微笑んだ。そして一つの提灯を指し示した。
「愛おしい」
の掠れた声とその言葉に、姜維の時が止まった。
「これを愛おしいというのですね。私、いままで気付かなかった」
その提灯の側面である紙には、たどたどしい字で一言、こう書かれていた。
『みんな幸せであるように』
遠くから、月英のこちらを呼ぶ声がする。
が「行きましょう」と、姜維の手を取った。姜維はに手を引かれるまま、その場を後にしたのであった。
「あー、お腹いっぱい」
満足そうに微笑むに対し、姜維は机に突っ伏している。
机上の皿は全て空となり、残したものは一つとしてない。
全ておいしく頂いた。目標は達成した、やりました丞相、と姜維は心の中で呟いていた。
「そろそろお風呂の用意してきますね。あと片付け片付け」
食後の余韻もなく早々と立ち去るを、姜維は少し恨めしく思ったのであった。
- continue -
2016-02-01