二人で入る風呂は気恥ずかしくて、夫婦となった今でも慣れなかった。
お互いに髪を洗い、身体を清めあう。
久方ぶりに見るのその白さに、姜維はごくりと唾を飲み込んだ。
は顔を赤らめて目をそらしていた。
背中合わせで、湯槽に浸かる。
感じる人肌の柔らかさに、お互い無性にたまらなくなった。
鼓動が早まる。
どちらからともなく見つめあって、唇を重ねた。
揺れた身体から、湯槽に波紋が広がった。
風呂から上がると、それぞれ身体を拭き、お互いに髪を乾かしあう。
「伯約の髪はいつもさらさらね」
「そうかな。貴女の方が綺麗だ」
寝台に座して、姜維の髪を布で優しく拭う。
二人して髪が長いので、完全に乾くまでに時間が掛かる。
もし半乾きで寝て翌日寝癖にでもなっていたら、城内で笑われてしまう。そうならないためにもは丁寧に姜維の髪を拭った。
「、代わろう」
動かしていた手を姜維に掴まれ、選手交替である。
今度は姜維の手が、の髪を拭っていく。
(綺麗だな)
濡れて艶やかなの髪へ、姜維は愛おしそうに唇を寄せた。
「きゃ、なに?」
気配を察してが思わず後ろを振り返る。
姜維はぱっと唇を離し、平然としてみせた。
「いや、なんでもない」
「うそ。なにかしたでしょう」
「それは貴女の気のせいだ」
そう言って、姜維は引き続き髪を拭ってやる。
女性の濡れた髪は、なんとも色っぽい。
堪え性がないと、姜維は心の中で苦笑した。
そこでふと見えたの首もとの赤い痕に、姜維の欲が再び鎌首をもたげ始めた。
「そういえば」
の声に、少し現実に戻される。
「明日着る物の用意がまだだったわ。棚から出しておかないと」
とどめをさされるが如く、その言葉で一気に現実に戻された。
沈黙する夫の真意を知らず、は不思議そうに首をかしげている。
「……一日が早い」
「そうですね、早いですよ。あっという間です」
「終わらなくてもいいのにな」
「私もそう思います」
でも、だめですよ。
「終わってくれないと、次の楽しいことが出来なくなるじゃないですか」
髪を拭う姜維の手が、止まる。
「それは、どんなことだ?」
「色んなことですよ。今日みたいにあなたと一緒に季節のものを楽しむとか、新しい出来事にうきうきしてみたりだとか」
姜維は、との間に微かな壁を感じた。
その事実に喪失感を抱いた。同時に羨ましさと嫉妬を抱いた。
「……はいいな。前向きで」
私はずっと、進めないでいる。
拠り所をなくし、目標をなくし、苦しくも愛おしい重責をなくして、どうすることもできず、立ち止まっている。
国や人を失ってから、ずっとそうだった。
皆、自分を置いていく。呆気ないほど簡単に終わりは訪れ、虚しさだけが身体に残る。
それでもだけは失いたくなかった。
だけはずっと、諸葛亮が亡くなったときから守り続けてきた。手離しくたくなかった。
己が抱く痛みを、苦しみを、も同じように味わって欲しいなどとは思わない。自分は救われなくたっていい。がらしく健やかに生きてくれれば、自分は一生苦しんだって構わない。
(でも、違うんだ、本当は)
には、自分を置いていって欲しくない。
ずっとずっと、一緒にいた。
これからもずっと一緒に居て欲しい。
どこにも行くなと、時が止まったままの私を置いていかないでくれと、すがりつきたい。
例え自分が愚か者になろうと、狂ってしまったとしても、にだけは傍にいて欲しい。
時間が止まった私の傍から、離れないでくれ。
を失ってしまったら、今度こそ自分は何も持たなくなる。狂ってしまうだろう。
「伯約、こっちを見て」
の声に導かれ、ゆっくりと目を合わす。
姜維の頬に、の両手が添えられる。
こつんと、お互いの額が重なった。
「元宵節に、また帰ってきて」
意外なの言葉に、姜維は驚いた。
「今度は夜に、街を出歩こう? 昔みたいに、提灯がともる街路を見に行こうよ」
は言葉を続ける。
「すごく綺麗だよ。露店も出るだろうし、賑やかで、でも幻想的で。きっと素敵だよ」
「……ああ」
「一緒に手を繋いで、歩いて、見て回って。二人で夜に外出するなんて、何年ぶりだろうね」
「うん」
「どう? 帰れそうかな」
懇願するようなの声に、姜維は動揺する。
多忙な時期ゆえ、仕事が積もっているからだ。
「……行きたいのは私も同じだ。だが忙しいから、休みの許可が取れるかどうか」
「まあ! 祝日なのに休みを取らせないなんて、なんてひどい国!」
「そんなこと」とむっとした姜維は、そこではっとした。
ひどい国と言われてむっとした自分自身に、ひどく動揺した。
蜀を滅ぼしたこの国を、自分は――
「さ、髪も乾いたことだし、寝支度に入りましょう。明日の服も出さないと」
固まった姜維をそのままに、は何着かの着物を取りだし、彼の身体に合わせていく。
以前は深緑色のものが多かったが、今はお国柄、水色の着物を纏うことが多かった。
黙したままの姜維の異変に、は敢えて気付かないふりをした。
それがの、出来ることなのだ。
「帯は、何色にしますか?」
決まったらしい着物を姜維の身体に合わせながら、は不意に尋ねてきた。
先日の休みも、同じやり取りをした。
姜維はいつも緑色だと即答した。
それなのに、今日は――
「……あなたに任せる」
答えが出なかったことに、姜維の心は波のようにひどく揺れた。
まだ眠くないからとを先に寝台に横たわらせ、姜維は一人白湯を飲みながら、暫くぼうとしていた。
なぜは、元宵節に帰ってこいといったのか。
なぜ自分は、この国をひどいといわれて、腹を立てたのか。
なぜ自分は、帯の色を答えられなかったのか。
自分の中で変わっていく何かが恐ろしく、目を背けたくなった。
(誰も教えてなどくれない。丞相も、劉禅様も、先人たちも、でさえも)
最後まで戦い抜いたことに後悔はない。
あるとすれば、大志を成し遂げられなかったということだけだ。
その想いの行く末を、誰も教えてなどくれない。答えは皆、胸に仕舞って去っていった。
次に繋いで、繋いで、繋ぎたかった想いを、途切れさせてしまった。
自分が、終わらせてしまった。
その想いの行く末を、誰も教えてくれない。
(変わることが、おそろしい)
寝台から、の寝息が聞こえる。
明日も早い。いい加減眠ろうと、姜維は席を立った。
室内の蝋の灯りを、一つずつ消していく。
床に膝をつき、昼間姜維が作った天灯の灯りも消そうとした。
その時だった。天灯の紙に書かれた文字の存在に、姜維が気が付いたのは。
いつの間に、と姜維は驚く。
思わず口に出して、一文字一文字、その言葉を呟いた。
『伯約とずっと一緒にいれますように』
昔、元宵節に提灯を見に行ったとき、が涙を溢したことを、姜維は今でも忘れることが出来ないでいる。
提灯に書かれた名も知らぬ人の、ささやかな願い事。
それになぜは涙を溢して、微笑んでいたのか。
なぜはそれを「愛おしい」と言ったのか。
今この瞬間、本当の意味での気持ちを理解できた気がした。
(。貴女は変わらないんだな、ずっと)
はどんな気持ちで、天灯に文字を書いたのか。
そんなものに書いたって誰が気付くわけでもない。現に姜維だって目を凝らさなければ気付きもしなかった。日にちが立てばどうせ捨ててしまうような、そんなつまらない消耗品だ。
それでもいいと思って、は書いたのだ。
苦手な筆を手に取り、姜維がいない時を見計らってこっそりと、書いた。
気付かれなくてもいい。誇示したいわけでもない。ささやかな愛おしい願い。
それが彼女の、本心なのだ。
「尊いな」
寝台に横たわり、の横顔をそっとなぞる。
その気持ちごと守りたい。
傍にいたいと、強く姜維は心のなかで願った。
変わらないものと、変わっていくものがある。
姜維はその夜も、を抱き締めて眠った。
- continue -
2016-02-01