傷を負った凱旋だった。
「荀ケ様。出立の準備、整いました」
主である荀ケ様にそう告げると、彼は少し不安げな表情を浮かべた。
「。あなたは傷を負っているのですから、無理はしないようにとあれほど」
「それは皆、同じです。私だけ特別というわけにはいきませんから」
そうですか、と荀ケ様は思案顔で呟く。
そうですよと、私は笑みを浮かべて答える。
背に残る、傷を負った。
でもそのお陰で好いた人を守れたことも、それを恐れ多くも気にかけてもらえることも嬉しくて。
傷の痛みさえ愛おしくなるほど、それは幸せなことだった。
荀ケ様のことが、好きだった。
それは部下としての気持ちではなく、異性としてのものだ。
気持ちを打ち明けたことはない。伝わらなくていいと思っている。
ずっとこうやって傍で、お守りすることができればいい。それだけで、いい。
殿と話しにと、荀ケ様は陣地を出ていった。
その背を眺めながら私は踵を返す。振り向くと、郭嘉様がそこにいた。
いつからいたんだろう。
内心動揺しながらも、柔和な笑みを浮かべる彼に一礼をした。やあと返事がかえってくる。
相変わらず心のうちが読めない人だと、一人ごちた。
「郭嘉様、如何されましたか」
「うん。荀ケ殿と少し話があってね、用件はもう済ませたのだけど」
ならば自分の陣に戻ればいいのに。
そうですかと口早に返事をする。
腹のうちが読めないこの人が、私は苦手だった。
「傷を負ったそうだね」
その言葉に、私は思わず郭嘉様を見上げる。
色の白く、恐ろしく整った顔をしていた。
「傷は痛むのかな?」
なぜ一介の副官でしかない私の、傷のことを知っているの。
郭嘉様のその視線は全てを見透かしているかのように鋭く、自分の心まで読まれているように感じてぞっとした。
いえと、小声で否定をした。
「そう」
ふ、と郭嘉様は笑う。
一歩、私に近付く。思わず体に力が入る。
彼は小腰を屈めて、私の耳元でそう囁いた。
「あなたはとても、愚かだね」
すぐ傍にいる郭嘉様を見つめた。
風で、色素の薄い彼の髪が揺れる。
彼は少しだけ笑って、それ以上なにも言わずに陣を立ち去って行った。
そんなこと、もうとっくに。
郭嘉様の背を眺めながら、私はひとり拳を握りしめていた。
それは嵐の来そうな夜だった。
降り続ける雨のむっとした空気に一度咳き込み、窓から見える憎らしい空を眺める。
咳き込んだせいか、背中の傷がぴりぴりと傷んだ。
ここ数日はひどい痛みも薄まってきたというのに、雨のせいで治りかけの傷口が疼いた。
(いやな、季節)
空は黒く、雨は止むことをしらない。
おまけに風も強くなってきており、これは早く帰らないと足止めをくらうなと、隣に座する荀ケ様に声をかけた。
「荀ケ様、いかがいたしましょう」
祝杯でいつもより多く酒を注がれたせいか、荀ケ様の頬はうっすら赤らんでいる。
荀ケ様は持っていた盃を置くと、そうですねと腰を上げた。
「殿に挨拶をしてくるから、下がる用意をしなさい」
そう言って、荀ケ様は上座へ向かった。
戦勝祝いの酒宴。
室にいるものは殆どが出来上がっており、既に何人かは抜けている。ここで私たちが抜けても問題ないだろう。
言われた通り身支度を整えていると、荀ケ様の席に影がさした。荀ケ様が戻ってこられたのだと思って見上げたら、そこには郭嘉様がいた。
思わず閉口する。
「やあ。まだ宴は終わっていないよ」
そう言って、自席から持ってきたらしい盃を傾ける。酒を流し込む白い喉元に、思わず目を逸らした。
「も、もう帰ります」
先日の件があったせいか、喋りたくない相手である。
あんなことを言っておいて声を掛けてくるだなんて、相変わらず腹の読めない人だと私はこっそり眉をしかめた。
「帰るってどこに?」
「や、屋敷です」
「誰の屋敷なのかな」
「自分のです」
「誰の屋敷、なのかな」
知っているくせに、なんて意地の悪い言い方をするのだろう。
「荀ケ様の屋敷に、戻ります」
うんと、郭嘉様はなぜか嬉しそうに頷く。
私は孤児であり、飢餓で親に捨てられた。
そこを荀ケ様の父君に拾われ、侍女となり、燻っていた才を荀ケ様に見出だされ、彼の副官となるまで育ててもらった。
外では副官として、内では侍女として仕える私は、荀ケ様と過ごす時間も長い。
荀ケ様の表情も、癖も、考えも、全てを見てきたつもりだ。
「あなたは少し、荀ケ殿を知らないね」
え、と思わず郭嘉様に振り返る。
郭嘉様は酒を継ぎ足すと、それを一気に煽いだ。
「どういうこと、ですか」
急に降ってわいたその言葉に、心を見透かされた気がした。
そしてそれ以上なにも言わない郭嘉様に、少し苛立った。
いや。なにも言わないことより、そう言われたことに腹を立てたのだ。
にじりよる私の肩に、誰かの手が乗る。
振り向くと荀ケ様だった。
「、帰りましょう」
先程まで抱いていた苛立ちが、すっと消える。
その言葉にひどく安堵した。現金なものだと、自分でも思う。
郭嘉様の言葉が気になるが、本人も帰ってきたいま、続きを聞くことは難しいだろう。
はいと、荀ケ様に小声で返す。
郭嘉様はそんな私を見て、くすりと笑った。
それに気が付いたのか、荀ケ様は郭嘉様を見て少し目を細める。
「郭嘉、いたのですか」
「ずいぶんとお早い帰りのようだね。まだ宴は始まったばかりだよ」
「あなたにとっては始まったばかりでも、私たちにとってはいい時間なのです。それに私には残務がありますから、今日中に終わらせてしまいたいのです」
え、と思わず口から漏れる。
仕事は既に終わらせてから、この宴会に参加したはずだ。
「ならば、私も手伝いを」
私がそう口にすると、荀ケ様は首を左右に振った。
「。あなたはまだ傷が癒えないのですから、先に戻って休みなさい」
「でも……!」
「」
前もって知っていれば、手伝いをしたり、処理することが出来たのに。
把握していなかった自分が情けなく、思わず唇を噛み締めた。
それでも、ここで我が儘を言って困らせたら更に情けない。それに荀ケ様は、私のことを考えてそう言って下さっているのだから。
「……分かりました。先に戻っています」
「じゃあ私も帰ろうかな」
え。
思わず声の方へ振り返る。
「私も思ったより戦の疲れがあるようだ。今日は飲んでも酔えそうにないよ」
うんと頷く郭嘉様は、わざと下手な演技をしているようだった。
戦の疲れは酒で癒すような人が、なにを言っているのだろう。
「そうですか。あなたの身体を思えばいいことです、郭嘉」
そのまま信じちゃったよ、荀ケ様。思わず目を大きく開かせ、荀ケ様を振り返る。
「うん、そうだね。殿と共に私も屋敷へ戻ろうかな」
「え」
「でしたら途中まで送ってやってくれませんか。外も荒れていますし、傷のこともありますので」
この流れは、よくない。
首を左右に振る私を余所に、二人の話は進む。
「いいけど、随分と私を信頼しているようだね? いいの、屋敷に戻らないかもしれないよ」
「言葉の通り、あなたを信頼しています」
「そう言われたら、なにも出来ないな」
「ちょっと待って下さい!」
二人の視線が私に向く。
自分を落ち着かせるために一度息を吐き、二人を見上げる。
「お気遣い、感謝します。ですがお気持ちだけで十分です。私ひとりで平気ですので送って頂くのは結構です」
「私が、平気ではありません」
荀ケ様のその言葉に、私は折れるしかなかった。
その言葉を喜べばいいのか、悲しめばいいのか。
はい、としおらしく項垂れる私を、郭嘉様が面白そうに眺めていた。
風が強く吹き、それに応じて髪が靡く。
雨も止まず、激しさは増すばかりであった。
足下には池のような水溜まりが出来ており、沓に染み込む水気が気持ち悪かった。
末端から冷えていく感覚に、背の傷がずきずきと痛み出す。
遠すぎず、近すぎずの間合いで、郭嘉様の後ろを歩く。
夜道のために足下も前も見えづらい。先が見えない恐怖から足を進めるのがいつもより遅くなった。
足下から郭嘉様の方へ、視線を移す。
暗闇の中を迷うことなく歩く郭嘉様は、城を出てから話しかけてくることはない。
ただ黙々と、歩を進めるだけ。
それに心のどこかでほっとする私がいた。
ふと、郭嘉様が足を止める。
私もそれに倣うと、郭嘉様がくるりとこちらを振り返り、進行方向を指差した。
「これ以上は進めそうにないね。引き返そうか」
その先を見遣ると、屋敷へと続く道を封鎖するように、橋が川に浸りかけていた。
そのまま渡ってしまえば、足下をすくわれて川に流されてしまいそうだった。
ぞっとした。
雨が激しくて、現在地を把握することも、溢れそうな川の音にも気付かなかったのだ。
思った以上に現状は深刻であり、もし自分ひとりで戻っていたら、荀ケ様の心配は杞憂ではなくなっていたかもしれない。
「そうですね。無理して帰るより、城に戻った方がいいかもしれませんね」
「城までの道のりも、もう怪しいよ」
「だったら、どうすれば」
「ここは、雨宿りをするしかないようだね」
思わず一歩、片足を引く。
その反動で沓のなかに冷たい水が入ってしまい、私は眉を顰めた。
「そんなに嫌そうな顔をしなくても」
「いえ、これは違」
「あなたの嫌がることはしないよ。それに私は」
荀ケ殿に頼まれただけだから。
その言葉に、私はぞっとした。
「さあ、確かこの近くに宿があったはずだよ。そこで避難しよう。雨が止むまで、ね」
そう言って、手を伸ばす。
私は反射的にこくりと頷いた。
やけに熱い背の傷が、疼いた。
- continue -
2015-06-01