June 2015


通り過ぎてゆく刹那にさよなら with 郭嘉


 傷を負った凱旋だった。

「荀ケ様。出立の準備、整いました」

 主である荀ケ様にそう告げると、彼は少し不安げな表情を浮かべた。

。あなたは傷を負っているのですから、無理はしないようにとあれほど」
「それは皆、同じです。私だけ特別というわけにはいきませんから」

 そうですか、と荀ケ様は思案顔で呟く。
 そうですよと、私は笑みを浮かべて答える。

 背に残る、傷を負った。
 でもそのお陰で好いた人を守れたことも、それを恐れ多くも気にかけてもらえることも嬉しくて。
 傷の痛みさえ愛おしくなるほど、それは幸せなことだった。

 荀ケ様のことが、好きだった。
 それは部下としての気持ちではなく、異性としてのものだ。
 気持ちを打ち明けたことはない。伝わらなくていいと思っている。
 ずっとこうやって傍で、お守りすることができればいい。それだけで、いい。

 殿と話しにと、荀ケ様は陣地を出ていった。
 その背を眺めながら私は踵を返す。振り向くと、郭嘉様がそこにいた。
 いつからいたんだろう。
 内心動揺しながらも、柔和な笑みを浮かべる彼に一礼をした。やあと返事がかえってくる。
 相変わらず心のうちが読めない人だと、一人ごちた。

「郭嘉様、如何されましたか」
「うん。荀ケ殿と少し話があってね、用件はもう済ませたのだけど」

 ならば自分の陣に戻ればいいのに。
 そうですかと口早に返事をする。
 腹のうちが読めないこの人が、私は苦手だった。

「傷を負ったそうだね」

 その言葉に、私は思わず郭嘉様を見上げる。
 色の白く、恐ろしく整った顔をしていた。

「傷は痛むのかな?」

 なぜ一介の副官でしかない私の、傷のことを知っているの。
 郭嘉様のその視線は全てを見透かしているかのように鋭く、自分の心まで読まれているように感じてぞっとした。

 いえと、小声で否定をした。

「そう」

 ふ、と郭嘉様は笑う。
 一歩、私に近付く。思わず体に力が入る。
 彼は小腰を屈めて、私の耳元でそう囁いた。

「あなたはとても、愚かだね」

 すぐ傍にいる郭嘉様を見つめた。
 風で、色素の薄い彼の髪が揺れる。
 彼は少しだけ笑って、それ以上なにも言わずに陣を立ち去って行った。

 そんなこと、もうとっくに。
 郭嘉様の背を眺めながら、私はひとり拳を握りしめていた。




 それは嵐の来そうな夜だった。
 降り続ける雨のむっとした空気に一度咳き込み、窓から見える憎らしい空を眺める。

 咳き込んだせいか、背中の傷がぴりぴりと傷んだ。
 ここ数日はひどい痛みも薄まってきたというのに、雨のせいで治りかけの傷口が疼いた。

(いやな、季節)

 空は黒く、雨は止むことをしらない。
 おまけに風も強くなってきており、これは早く帰らないと足止めをくらうなと、隣に座する荀ケ様に声をかけた。

「荀ケ様、いかがいたしましょう」

 祝杯でいつもより多く酒を注がれたせいか、荀ケ様の頬はうっすら赤らんでいる。
 荀ケ様は持っていた盃を置くと、そうですねと腰を上げた。

「殿に挨拶をしてくるから、下がる用意をしなさい」

 そう言って、荀ケ様は上座へ向かった。

 戦勝祝いの酒宴。
 室にいるものは殆どが出来上がっており、既に何人かは抜けている。ここで私たちが抜けても問題ないだろう。
 言われた通り身支度を整えていると、荀ケ様の席に影がさした。荀ケ様が戻ってこられたのだと思って見上げたら、そこには郭嘉様がいた。
 思わず閉口する。

「やあ。まだ宴は終わっていないよ」

 そう言って、自席から持ってきたらしい盃を傾ける。酒を流し込む白い喉元に、思わず目を逸らした。

「も、もう帰ります」

 先日の件があったせいか、喋りたくない相手である。
 あんなことを言っておいて声を掛けてくるだなんて、相変わらず腹の読めない人だと私はこっそり眉をしかめた。

「帰るってどこに?」
「や、屋敷です」
「誰の屋敷なのかな」
「自分のです」
「誰の屋敷、なのかな」

 知っているくせに、なんて意地の悪い言い方をするのだろう。

「荀ケ様の屋敷に、戻ります」

 うんと、郭嘉様はなぜか嬉しそうに頷く。

 私は孤児であり、飢餓で親に捨てられた。
 そこを荀ケ様の父君に拾われ、侍女となり、燻っていた才を荀ケ様に見出だされ、彼の副官となるまで育ててもらった。
 外では副官として、内では侍女として仕える私は、荀ケ様と過ごす時間も長い。
 荀ケ様の表情も、癖も、考えも、全てを見てきたつもりだ。

「あなたは少し、荀ケ殿を知らないね」

 え、と思わず郭嘉様に振り返る。
 郭嘉様は酒を継ぎ足すと、それを一気に煽いだ。

「どういうこと、ですか」

 急に降ってわいたその言葉に、心を見透かされた気がした。
 そしてそれ以上なにも言わない郭嘉様に、少し苛立った。
 いや。なにも言わないことより、そう言われたことに腹を立てたのだ。
 にじりよる私の肩に、誰かの手が乗る。
 振り向くと荀ケ様だった。

、帰りましょう」

 先程まで抱いていた苛立ちが、すっと消える。
 その言葉にひどく安堵した。現金なものだと、自分でも思う。
 郭嘉様の言葉が気になるが、本人も帰ってきたいま、続きを聞くことは難しいだろう。
 はいと、荀ケ様に小声で返す。
 郭嘉様はそんな私を見て、くすりと笑った。
 それに気が付いたのか、荀ケ様は郭嘉様を見て少し目を細める。

「郭嘉、いたのですか」
「ずいぶんとお早い帰りのようだね。まだ宴は始まったばかりだよ」
「あなたにとっては始まったばかりでも、私たちにとってはいい時間なのです。それに私には残務がありますから、今日中に終わらせてしまいたいのです」

 え、と思わず口から漏れる。
 仕事は既に終わらせてから、この宴会に参加したはずだ。

「ならば、私も手伝いを」

 私がそう口にすると、荀ケ様は首を左右に振った。

。あなたはまだ傷が癒えないのですから、先に戻って休みなさい」
「でも……!」


 前もって知っていれば、手伝いをしたり、処理することが出来たのに。
 把握していなかった自分が情けなく、思わず唇を噛み締めた。
 それでも、ここで我が儘を言って困らせたら更に情けない。それに荀ケ様は、私のことを考えてそう言って下さっているのだから。

「……分かりました。先に戻っています」
「じゃあ私も帰ろうかな」

 え。
 思わず声の方へ振り返る。

「私も思ったより戦の疲れがあるようだ。今日は飲んでも酔えそうにないよ」

 うんと頷く郭嘉様は、わざと下手な演技をしているようだった。
 戦の疲れは酒で癒すような人が、なにを言っているのだろう。

「そうですか。あなたの身体を思えばいいことです、郭嘉」

 そのまま信じちゃったよ、荀ケ様。思わず目を大きく開かせ、荀ケ様を振り返る。

「うん、そうだね。殿と共に私も屋敷へ戻ろうかな」
「え」
「でしたら途中まで送ってやってくれませんか。外も荒れていますし、傷のこともありますので」

 この流れは、よくない。
 首を左右に振る私を余所に、二人の話は進む。

「いいけど、随分と私を信頼しているようだね? いいの、屋敷に戻らないかもしれないよ」
「言葉の通り、あなたを信頼しています」
「そう言われたら、なにも出来ないな」
「ちょっと待って下さい!」

 二人の視線が私に向く。
 自分を落ち着かせるために一度息を吐き、二人を見上げる。

「お気遣い、感謝します。ですがお気持ちだけで十分です。私ひとりで平気ですので送って頂くのは結構です」
「私が、平気ではありません」

 荀ケ様のその言葉に、私は折れるしかなかった。
 その言葉を喜べばいいのか、悲しめばいいのか。
 はい、としおらしく項垂れる私を、郭嘉様が面白そうに眺めていた。




 風が強く吹き、それに応じて髪が靡く。
 雨も止まず、激しさは増すばかりであった。
 足下には池のような水溜まりが出来ており、沓に染み込む水気が気持ち悪かった。
 末端から冷えていく感覚に、背の傷がずきずきと痛み出す。
 遠すぎず、近すぎずの間合いで、郭嘉様の後ろを歩く。
 夜道のために足下も前も見えづらい。先が見えない恐怖から足を進めるのがいつもより遅くなった。
 足下から郭嘉様の方へ、視線を移す。
 暗闇の中を迷うことなく歩く郭嘉様は、城を出てから話しかけてくることはない。
 ただ黙々と、歩を進めるだけ。
 それに心のどこかでほっとする私がいた。

 ふと、郭嘉様が足を止める。
 私もそれに倣うと、郭嘉様がくるりとこちらを振り返り、進行方向を指差した。

「これ以上は進めそうにないね。引き返そうか」

 その先を見遣ると、屋敷へと続く道を封鎖するように、橋が川に浸りかけていた。
 そのまま渡ってしまえば、足下をすくわれて川に流されてしまいそうだった。
 ぞっとした。
 雨が激しくて、現在地を把握することも、溢れそうな川の音にも気付かなかったのだ。
 思った以上に現状は深刻であり、もし自分ひとりで戻っていたら、荀ケ様の心配は杞憂ではなくなっていたかもしれない。

「そうですね。無理して帰るより、城に戻った方がいいかもしれませんね」
「城までの道のりも、もう怪しいよ」
「だったら、どうすれば」
「ここは、雨宿りをするしかないようだね」

 思わず一歩、片足を引く。
 その反動で沓のなかに冷たい水が入ってしまい、私は眉を顰めた。

「そんなに嫌そうな顔をしなくても」
「いえ、これは違」
「あなたの嫌がることはしないよ。それに私は」

 荀ケ殿に頼まれただけだから。

 その言葉に、私はぞっとした。

「さあ、確かこの近くに宿があったはずだよ。そこで避難しよう。雨が止むまで、ね」

 そう言って、手を伸ばす。
 私は反射的にこくりと頷いた。
 やけに熱い背の傷が、疼いた。

- continue -

2015-06-01