小さな宿で、しかも客が多いときた。
こんな日だから私たちの他にも避難客がいるのだろう。
だからって、こんなのないわ。
私はよごれた足を湯に浸けながら、強く足指を揉んだ。
身体の末端だけ温めているのに、身体の芯から温まっていくようで、ほっと息をついた。
「湯加減はどう?」
狭い室内の出口を振り返ると、茶器を手に持った郭嘉様がそこにいた。
「……はい、心地いいです」
あなたさえいなければ。
差し出された茶器を受け取る。白湯が入っており、その気遣いに涙が出そうだった。
色んな意味で。
私たちが宿に着いたとき、部屋は一室しか空いておらず、心から拒否する私をよそに郭嘉様は半ば無理矢理、同室の手筈を整えた。
着替えるから先に行くよう言われ、ひとり室に向かったはいいが、扉を開いて早々目についた一つしかない寝台を前に私の膝は折れていた。
ありえない、二人きりなんて、ありえない。
そうぶつぶつ呟きながら、宿主から借りた薄い寝まぎに素早く着替え、濡れた髪を拭い、宿主から桶と湯をもらい足湯をしていた。
郭嘉様も戻ったことだし、温まったし、もう十分だろ。桶から足を引き上げて布で水気を取る。
なんだか、見られている気がする。
感じたくない視線を斜め後ろから感じ、思いきって私は後ろを振り返った。
「あの、明日の朝には止むでしょうか」
「どうだろうね」
郭嘉様は茶器に口をつけながら、案の定こちらを見ていた。素足を見られていたことが急に恥ずかしくなり、さっと足下を隠す。
「恥ずかしがならなくていいのに」
「み、見ないで下さい」
なんなんだこの会話は。
ひとり赤くなる私をよそに、郭嘉様は面白そうにくつくつと笑った。
「私は蜀の臥竜ではないから、天候まで読むことは出来ないよ。今はこうやって二人、雨が止むのを待つしかないんじゃないかな」
「それでは、遅いんです」
荀ケ様には、屋敷に戻ると言っている。
屋敷の皆も戻らないことに心配しているだろうし、夜が明けて橋が通れるようなら、明日の朝にでも戻っておきたい。
「私がいないと、心配するだろうから」
「誰がかな」
私の言葉に被せるように、郭嘉様がたずねてくる。
「屋敷の皆が……」
「皆が、ね」
ふと、郭嘉様を見る。
いつものように柔和な笑みを浮かべている。ただそれだけなのに、どこか恐ろしく感じた。
「なるほど。一介の副官を夜通し心配するほど、荀ケ殿の屋敷では価値のある存在であると認識されているんだね」
とげのような言葉が刺さってくる。
「そんなこと」
あるわけがないと、心の中で自嘲する。
確かに幼い頃から面倒を見てもらった恩もあるが、屋敷の中での私の扱いは所詮側仕えである。
荀ケ様と釣り合いがとれる存在などでは、到底ない。あるわけがない。
「そうでなければ、傲慢だよ」
そんなこと、分かっている。
分かっているのに。
拳を握り締めると、背の傷がじんじんと痛んだ。その痛みが愛おしくて、心強くて、そして苦しい。
私は、馬鹿だ。
そのまま一言も交わさずに、どちらともなく眠りにつく。
先に郭嘉様が床に腰をつけたため、私はそのまま一声も掛けず寝台に腰を降ろした。
壁に向かって横になり、布を被る。
なにも聞きたくないし、なにも考えたくない。
早く朝が来て、雨が止んでくれることを私は心底願った。
だが無情にも、雨は降り続ける。
深夜を過ぎて、背の傷がひどく痛み始めた。身体は熱を持ち始め、息が荒くなる。
頭が痛く、身体が怠い。
水を飲もうと身体を起こした瞬間、身体の重心を失った。
あぶない。
そう頭に過ったとき、身体を支えられた。
郭嘉様だった。
「水かな?」
先ほどとは違う、声色。
そこ声にどこかほっとして、私は素直に頷いた。
蝋の消えた室内は暗く、郭嘉様の表情は窺えない。
そのまま身体を横にして寝かせられ、次いで額に冷たいものを乗せられる。反射的にそれに手を被せると、彼の手のひらだったことに気が付いた。
「熱が、あるね。背の傷からかな」
たぶんそうだろう。
こくりと頷いた。
郭嘉様はそれ以上なにも言わず、室を出ていった。
一人残された私は、触れた郭嘉様の手の冷たさを朦朧とした頭で思い出していた。
「水と、熱冷ましの薬だよ」
暫くして戻ってきた郭嘉様は、手に茶器と袋を携えていた。
身体をゆっくりと起こされ、茶器を持たされる。
ちびちびと口にする。冷たい水が喉を伝い、生き返ったような感じがした。
「薬も飲んで」
渡された粉薬は、一体どこから手に入れたものなんだろう。
宿主の持ち物なんだろうかとぼうとした頭で考えながら、一気に薬を飲み込んだ。舌をえぐる苦さに思わず眉を顰める。
ふと、肩を叩かる。隣に寄り添う郭嘉様をぼんやりと見上げた。
「背中の具合を見せてもらっても構わないかな」
回らない頭で考えて、頭を左右に振る。
「わがままはいけないよ」
そう言って、着物の紐をほどかれる。
手慣れた指先が着衣を剥ぎ取っていく様を、どこか他人事のようにぼうと私は眺めていた。
郭嘉様に背を向ける。
傷を覆っていたさらしも、下着も、いつの間にか外されていた。
腰元まで肌を露出しているせいか、室内の冷たさが火照った肌に気持ちいい。
男のひとに、肌を見せたことはない。
普段の自分なら抵抗するはずなのに、身体の熱とひどい倦怠感から、抵抗する力などわいてくるはずもなく。
早くこの苦しみから逃れたい一心で、身体を預けるしかなかった。
「うん。傷口は開いていないようだね」
郭嘉様のことが、よく分からない。
「汗を掻いているようだから、軽く拭おう」
水に濡れた冷たい布が、ぴたりと背中に張り付く感触がした。
肩に手を置かれ、もう片方の手で優しく背中を拭われる。心地よい感覚に私は目を瞑った。
ふと、肩を叩かれる。
閉じていた瞼を開けると、こちらを向くようにと声が掛かった。
それはつまり背中だけでなく胸元も晒すということだ。
さすがにそれはと静かに頭を左右に振るが、郭嘉様は「そういう意味はないよ」と言うだけだった。
麻痺する頭で考える。
なんだかもう、どうでもよくなった。
ざあざあと、雨は降り続ける。
薄暗い室の寝台に、向かい合う二つの影。
布越しに感じる手の感触が思った以上に心地よくて、そんな自分がひたすら気持ち悪かった。
それでも不思議と、目を瞑ろうとは思わなかった。
身体を這う手のひらを逸らすことなく見つめる。逸らすということは、自分の愚かさに目を瞑ることになる気がして嫌だった。
そっと郭嘉様の顔を見る。
黙々と作業をする郭嘉様の顔には、常に浮かべる笑みはない。はじめて見る無表情だった。
「私のこと、お嫌いですか」
口から出た言葉に、自分自身で驚いた。
「私のこと、愚かだって、傲慢だって、そう言うくせに、こうやって優しくするのは、なぜですか」
身体を這う手に、指をかける。
「私のこと、放っておいて下さい。嫌いなら捨ておけばいいじゃないですか。お願いだから、私の中に入ってこないで」
かけていた指を、逆に取られた。
「だめだよ」
強く握られた指に、私は眉を顰めた。
目の前の彼は、笑うでも、怒るでもなく。
「あなたはこれ以上、荀ケ殿のそばにいたら死んでしまうからね」
優しくて甘い声で、突き落とす。
憂わしげな表情を浮かべて。
労るように丁寧に、傷口にさらしを巻かれる。
元あったように着物をきせられ、寝台に横たわらせられる。
ぼうとした頭で、傷の痛みがいつの間にか薄れてきていることに、私は気が付いた。
荀ケ殿に婚約者ができたとき、私は全てを呪いたくなった。
いつかはそんな日が来ると、分かっていたつもりだった。
それでも、それまではと想い続けて、寄り添って、ひた隠しにして。私がずっと欲しかったものを。どうやっても手に入れられなくて、それでもいいと、傍にいれるならと、温めてきたものを。
こんなにもあっさりと、奪われた。
いつかそうなると分かっていたのに衝撃を受けた。身体の中心に大きな穴が空いたような気分だった。
寄り添う二人を見て、胸が苦しんだ。それでも、離れたくなかった。離れるつもりはなかった。
私は荀ケ様から、離れなかった。
私には居場所がなかった。子どもの頃に捨てられた私は、荀ケ様たちに拾われた。
ここしかないのだ。捨てられたくないと、捨てたくないと、ここが私の居場所なのだと思って、子どもの頃からずっとすがり付いて生きてきた。
こわかった。右にも左にも、前にも後ろにもすがれない。そんな人生はこわくて、おそろしくて、どうやって生きればいいのだ。
だから私は、離れなかった。
そして甘い夢を見ながら、冷めた現実を味わう。
愚かな私にはそれで十分だった。
「」
頬を叩かれて、目を覚ます。
名前を呼ぶのは、あの人だけ。
「荀ケ様……」
手を伸ばすと、強く捕まれた。
郭嘉様だった。
「魘されていたよ」
手を離され、そのまま音を立てて寝台に落とす。景気の良い音がした。
「申し訳、ありません」
それは名を間違えたことに対してなのか、魘されていたことに対してなのか。
ちらと窓を見遣ると、空はうっすら明るくなっていた。
いつの間にか眠りにつき、朝になっていたのだろう。それでもなお降り続ける雨に、私は辟易した。
- continue -
2015-06-01