それは、ずぶ濡れで震える子兎のようで
親とはぐれて、途方に暮れる迷子のようで
拾い上げたのは、命の本能に近かった
未来(さき)のことを考えない行動は、あれ一度きり
屋敷の一角にある離れに入って、更に奥へ進む。
地上に建てられた中にあって、しかもまだ日が高いというのに足元が心許ない。薄暗い回廊を歩くたびに、郭嘉は大きなため息を吐きたくなる。
「こればかりは何度後悔しても足りないね・・」
艶めいた憂い顔に騒ぐ女官もいないので、過去へ思いを馳せる。
珍しいおねだり、しかも目に入れても惜しくない可愛い妹の嘆願を断れなかった。一回りは年の離れた少女を溺愛しているといってもいい。
有象無象の視線に晒すくらいなら、こうして籠っていた方がいい。
「? 入るよ」
「わ、だめ! まだ入らないで、兄さまっ」
少女の声は、どすんばたんと慌てる物音にかき消される。
「!?」
思わず踏み出そうとした郭嘉の頬を掠め、何かが壁に突き刺さった。
物騒な調度品で埋め尽くされた部屋の中央で、立ち尽くす少女。真っ青になって震える腕には、華奢な造りの武器が固定されていた。
知らない人間が見れば、殺害未遂を疑う場面だ。
「・・」
「ご、ごめんなさい。でも、入らないでって言ったのに聞いてくれない兄さまも悪いのよ」
しゅんと肩を落としながらも、恨めしそうな上目遣い。
これだけで郭嘉はすっかり許してしまいたくなるのだが、じくりと痛む頬が理性を繋ぎとめる。もう少しズレていたら、取り返しのつかないことになっていただろう。
たとえ、少女が意図的に起こした行動でなかったとしても。
「試し打ちは部屋の中ではしない、と約束したはずだね?」
「う・・」
「見たところ、連弩を限りなく小型化したもののようだ。小さいからといって、威力も弱いとは限らない。それは君が一番よく知っていると思うけれど」
「・・・・ごめんなさい」
「さあ、その物騒なものは外して。兄さまに、その愛らしい顔を見せてくれないか」
「で、でもね! 兄さま、この・・・・あっ」
金具を動かして武器を外す。
丁寧に腕から離して、手近な棚へ置いた。それを追いかけていた視線を戻し、少女が不思議そうに栗色の目を瞬いた。
「兄さま、すごい。初めて見るはずなのに、あっさり外しちゃった」
「ふふ、の一番の理解者は私でありたいからね。当然のことだよ」
そう言って、待ち焦がれたぬくもりを腕の中に閉じ込める。
少女も素直に身を預け、猫のようにすり寄ってきた。瞳と同じ色の髪はややぼさぼさで、梳いていくうちに時々ひっかかる。日に当たらないために肌は白く、痩せた体は年齢よりも幼く見せる。
それでも全幅の信頼を寄せてくれる「妹」が、何よりも愛おしい。
趣味に没頭するあまりに寝食を忘れがちな彼女のため、朝晩の訪問は欠かせない。最初のうちは傍仕えの侍女に任せていたのだが、結局全員が辞めていった。
直接の理由は違っていても、少女の趣味が原因である。
「兄さま、大好き! お父様もお母様も、屋敷の皆もダメっていうのに兄さまだけは分かってくださるもの。女だけが家に残って、子供を産む役目に縛られるのはおかしいわ。わたしは戦う術を持たないけれど、わたしの作った子たちが代わりに戦ってくれる。国のために役立つことができるんだもの。そうよね、兄さま」
「もちろんさ。でも、これだけは忘れないでおくれ。油にまみれても、血にまみれる姿だけは見たくない。どんな小さな傷でも、君が怪我をするのは耐えられない」
「・・すり傷なら、すぐ治るわ」
「怪我を厭わないなら、この部屋は閉鎖しないとね」
「兄さま!?」
ぴったり寄り添っていた半身を起こして、真ん丸の瞳が見上げてきた。
間近で顔を見合わせる度、厳然たる事実が小さな痛みを生む。両親にも郭嘉にも全く似ていない顔立ちが、十年近く前の過ちを思い出させる。
武具製造に興味を示したのも、年頃の少女にあるまじきことだ。
兵法や勉学に好奇心を向けてくれた方がまだ良かった。年端もいかない子供にできるはずもないと、要らぬ知恵を誰ぞ植えつけてくれたものだと恨めしく思っていた。
だが彼女は木の枝だけで、弓を作ってみせたのだ。
『兄さま、見てて!』
いつものように無邪気に、愛らしく、幼子は郭嘉に笑いかけた。
手にしているのは身丈の半分もあろうかという木弓だ。庭で遊ぶだけなら危険もなかろうと思っていたのに、どこでそんなものを拾って来たのか。
呆然とする郭嘉の前で、彼女は矢を放った。
熟れた木の実を狙ったようだが、やや外れた。枝を貫通し、折れた部分から落下する。
『危ないっ』
裂けた枝は、たやすく柔らかな肌を傷つけるだろう。
身を挺して守ろうと覆いかぶさる郭嘉の背から、小さな手が天へと伸びる。まるで吸い寄せられるように枝が収まり、ふるんと実が揺れた。
(今でも、はっきりと思い出せる)
初めて目が合った時には、庇護されるべき弱い存在であったのに。
天を掴む手が、頬を上気させて笑う顔が、少年の心に強く刻まれたのだ。両親を説得し、武具製造のための離れを作らせた。郭嘉は本気で、少女の能力を信じていたわけではない。だが、もしかしたらという気持ちも確かにあった。
そして、可能性は現実のものとなる。
十年かけて一人前とされる仕事を、たった数年で実用可能な武具の完成まで至った。誰の助けも必要とせず、膨大な資料と見聞だけで辿りついた。
今では知る人ぞ知る名工の一人に数えられている。
年頃の少女が造っていると知れば、どれだけ有益な武具でもガラクタ扱いされてしまう。ゆえに偽名を使い、郭家お抱えの鍛冶師ということにしてあった。
名前以外分からないため、郭嘉への探りは日に日に増すばかりだ。
辞めていった侍女たちにも固く口止めしている。今ではほとんど離れへ寄り付かないので、屋敷の者たちは「人嫌いの箱入り姫」だと思っている。人見知りの気があるのは確かでも、少女の趣味を理解されないがための防衛本能だ。一旦気を許してしまえば、誰よりも触れ合いを好む。
「・・兄さま、兄さま、ごめんなさい。やっぱり怒っているのね・・」
「」
傷つけた頬を撫で、ぽろぽろと涙をこぼす。
「もうやめる。何も作らない。兄さまを傷つける武器なんて、いらないっ」
「落ち着きなさい、。大丈夫、もう痛くないから」
「部屋で試し打ちをするなって言われていたのに、約束を破ったわ! 兄さまだけが分かってくれるのに、そんな兄さまを・・・・わたし・・っ」
「泣かないで、可愛い君。目が溶けてしまうよ」
「もう、溶けるわけないじゃない。兄さま、嘘を吐くのが下手・・」
「そう・・だ、ね」
郭嘉はそっと息を吐く。
君主たる曹操に智略を認められ、軍師として腕を振るう日々だ。敵は内外にも潜み、本音だけでは渡り合えない。どれほどの嘘を吐き、心にもない美辞麗句や詭弁で翻弄してきたか分からない。美しい女性と美味い酒、それさえあればいいと嘯きながらも、心は屋敷で待つ妹へと飛んでいく。
だから、これは罰なのかもしれない。
「兄さま・・?」
「いや、何でもないよ」
笑おうとして、失敗した。息が詰まる。咽喉の奥からせり上がる何かを止められない。
ぐっと濁った音がして、咄嗟に口を覆った。
「兄さま!? いやあっ」
「だ、いじょうぶ・・だから」
心配させまいとする心に反して、体が悲鳴を続ける。
崩れ落ちていく体を、少女が細い腕で支えようとするのが分かった。その片方に、さっきまで優美な形が覆っていたのだ。最初に作ってみせたのも弓、なんとも嫌な符合だ。
まるで、彼女自身が戦場へ出ることを覚悟していたような――。
「兄さま、兄さま!! お願い、目を開けて・・っ」
まだ逝かない。己の体だ、郭嘉には分かっている。
溢れる涙を止めたくて、手を伸ばそうとした。その手が赤く濡れていて、顔が歪む。
幻だ。
瞬きをすれば消えて、見慣れた手のひらが視界に映る。だが、目に見えなくなっただけだ。戦で多くの敵兵を死なせてきた。手だけではない。この身は血で汚れている。純粋で無垢な彼女に触れる資格は、とうに失っていたのかもしれない。
(ああ、それでも)
それでも彼女から触れてくるのなら、赦されるだろうか。
- continue -
2015-05-01