October 2015


Una piena luna. with 馬超


 馬の前脚が、黄色に色づいた落ち葉を踏む。
 まるで敷物のように広がる黄葉の地面を、馬超は煩わしそうに爪先で蹴った。

「若、聞いてるの? 俺がいないからって、仕事を放っちゃだめだよ?」

 うるさい、と馬超は口早に応える。
 馬上の馬岱は肩を竦めた。

「わがまま言って家人を困らせたらだめだよ?」
「分かっている」
「それと、俺がいないからって女の子を屋敷に入れたらだめだからね」
「お前は俺の母親か」
「だって若ってば、全てに前科があるから」
「うるさい。早く行け!」

 くすくすと笑いながら、馬岱は馬の腹を蹴って屋敷を出ていった。
 馬岱はこれから成都を離れ、防衛戦の一軍の指揮に向かうのだ。
 ふん、と馬超は鼻で息を吐き、馬岱の背を見送ってから踵を返す。
 馬超と馬岱は同じ戦に布陣することが多いが、この度の防衛戦では馬岱だけの出陣である。理由は、先の戦で馬超は肩を負傷したからだ。
 大事には至らなかったものの、戦のすぐ後の防衛戦ということもあり、用心して馬超は成都の守りを任されていた。
 それが馬超にとっては、たまらなく辛抱ならないことである。

「なにが前科がある、だ」

 ぶつぶつ呟きながら、外套を纏う。
 心当たりがないとは言わないが、それをいちいち掘り返す馬岱に珍しく腹が立った。
 主の外出を察した家人が駆け寄ると、馬超は鋭い視線で制す。

「今から城下の視察に出る。俺を訪ねる者があれば、火急の件以外は後日にしろと伝えてくれ」

 投げつけるようにそれだけ言うと、足早に厩舎に向かい、馬に跨がる。
 そして誰とも目を合わせることもなく、屋敷から出ていったのであった。
 家人たちはその様子をいつものことだと眺めつつも、馬岱の早い帰還を願うのであった。


 久方ぶりの城下は、以前と変わらない賑わいを見せている。
 信頼できる厩舎に馬を預け、商店の並ぶ道を歩く。
 ひとたび歩けば、「錦馬超」と人々の感嘆の息が漏れる。
 それが嫌だとも煩わしいとも思うわけでもなく、馬超は周囲の視線を集めながらも堂々と街を巡るのであった。

 そこで馬超はふと、己の後ろに張り付く気配に気が付く。
 このような街中でいい度胸だと、馬超は内心笑う。
 だがその気配に、少しの違和感があった。
 殺意も好奇も、感じないのだ。
 暗殺とあらば多少の殺意は感じるし、興味や好奇心とあらばそれ特有の気配もする。それなのに、この者からはそういったものを一切感じない。
 違和感を抱きながらも、馬超は誘導するように人通りの少ない道を選んでわざと進む。
 奥へ奥へと進み、その気配が自分を追ってきていることを足音で確認すると、馬超は後ろを振り返った。そして俊敏な動きで物陰に隠れるその人の腕を掴み、壁に押し付ける。

 細い腕、己より遥かに小さく華奢な身体、大きな瞳、長い髪。
 女であったことにも驚いたが、それ以上の衝撃が馬超を襲った。

……?」

 馬超がその名を呼ぶと、女はびくりと驚いたように肩を揺らした。
 瞠目した彼女の顔は、昔と変わらない。
 かつて同じときを過ごし、同じ気持ちを共有した相手である。
 別離して暫く経つが、彼女の表情や声を、忘れたことなど一度もなかった。
 馬超の震える手が、女の肩に掛かる。

、お前、生きていたのか」

 馬超の声が、揺れる。
 だが女――と呼ばれた女は、首を横に振って、馬超をまっすぐと見上げた。

「ちがいます」

 はっきりとした口調で、が応える。
 そしてのしなやかな指が、馬超の顎に掛かった。

「わたしは、天女です」

 花のように綻ぶの表情に、馬超は身体を固まらせた。


   【 Una piena luna. 】


 それは馬超がまだ少年であった頃。
 父親達と共に集まった西涼での会合で、馬超はそれを初めて目にしたのである。
 笛の音色に合わせて、一人の少女が舞っていた。

 人々はそれを囲み、息を呑むようにしてじっと見つめている。
 少女の腕が動く度に、軽やかに羽衣が浮く。
 少女の指が空をなぞるように動き、しなやかな足は裳を払う。
 少女の顔は色白で、恐ろしいほどに整った美しい顔をしている。悠然と舞いながら、少女は朱に染めたその唇の端をそっと上げた。
 ほうと人々の感嘆の息が漏れる。
 緋色の装束に身を通し、羽衣を纏うその姿は正しく書物で読んだ『天女』そのものであった。

「なんなのだ、あれは」

 あれは人に見せる舞ではない。
 美しいとは思ったが、直感的に馬超が感じたのは違和感であった。傍にいた従者がこそりと馬超に耳打ちをする。

「あれは、雨乞いの舞です」

 そして彼女は、天女として唯一扱われている少女ですよ。
 その言葉に、馬超は顔を顰めた。
 確かにここのところ雨が降らず、日照りが続いていると聞く。確かに降って貰わねば生きていくのに困るが、こうまでしないと降らないものなのか。
 天を信じないわけではないが、それに頼り、すがりきる人間を馬超は好ましく思わないからだった。
 馬超は少女を一瞥して、踵を返した。
 少女は誰に媚びるわけでもなく舞っている。
 笛の音色は、その場を離れても暫く耳に残っていた。

 その数日後、雨が降った。
 人々は恵みの雨だと喜んだが、馬超は不機嫌な表情を浮かべていた。それは楽しみにしていた遠乗りが取り止めになったからだ。馬超は雨の中でも行くと言ったが、乳母に止められた。大事な若様の身なのだからと諭され、馬超は仕方なく鐙を収めた。
 苛立ちを誤魔化すように、愛馬の世話をする。

「なにが天女だ。なにが雨乞いなのだ」

 全てはあの女が悪い。
 あの女が雨さえ降らさなければ、今頃愛馬に跨がり大地を駆け抜けていたのだ。
 愛馬を撫でる手に、思わず力が入る。
 ひひんと不満をを漏らす愛馬に、馬超は嘆息を漏らす。柄にもないと呆れたのだった。

「きゃ」

 か細い声が聞こえたと同時に、倒れる音が聞こえた。驚いた馬超が音の方を振り向くと、思わず目を見張った。

「お、驚きました……」

 驚いたのはこっちの台詞だ。
 目の前にはなぜか、あの時の少女がいる。
 舞っていた時の装束ではなく平服で、そして尻餅をついてこちらを見上げていた。

「なぜそこにいるのだ、お前は」

 冷ややかな声で馬超が問いただすと、その少女はびくりと肩を震わせた。その様子が更に苛立った。

「不法侵入か。此処は馬家の敷地だ。なぜお前のような者がここにいる。捕らえられたいのか」
「わたしは、あの」
「なんだ、はっきりと言え」
「天女では、ありません」

 不安そうに震えた声で、少女は答える。
 どういう答えなのだと、馬超は顔を顰めた。
 その表情に少女は再び慌てる。そして事の経緯をようやっと語ったのだった。

 一つは少女の主人が、馬超の父に用向きがあったこと。少女はそれに同行していたが、途中ではぐれたため迷子になったのだ。
 二つは少女がたまたま紛れ込んだ厩舎で、馬超が愛馬の世話をしながら独り言を呟いたのを聞いてしまったこと。
 三つは馬の鳴き声に驚いて尻餅をついてしまったこと。
 それを全て聞いた馬超は、嘆息を漏らした。

「お前は本当に、あの時の天女なのか」

 ただの小娘にしか見えない。
 思わず本音が漏れるが、小声だったため少女には聞こえなかったようだ。
 少女はゆっくり立ち上がると、よたよたと馬超の元に近寄った。

「ごめんなさい。雨を降らせて」

 舞をまっていたときの、あの凛とした表情とは真逆の表情をしている。

「謝るな」
「でも、何か不都合があったんですよね」
「うるさい。それがお前の仕事なんだろう」

 それに。

「天女がそんな顔をして、人に謝るな。ただの馬鹿な小娘にしか見えなくなるだろう」

 そう言ってから暫くして、馬超はしまったと思う。
 これは言ってはいけないことではないのか。
 彼女はこれで周囲から崇められ、それを職として生きているのだろう。
 彼女のお陰で全てというわけではなかろうが、雨を降らし、人心を集めて慰めてきたのは事実だ。その恩恵を受けている一人の、しかもこの西凉を纏める一族の長男たる者がそういったことを軽々しく口に出していいものなのか。
 いや、よくない。
 でも言ってしまったものは言ってしまったし、本心ではそう思っていた。天女という不透明な存在を厭うていたのも事実だ。否定するのも癪だった。
 さあどうすると馬超が少女を見下ろすと、少女はぼろぼろと涙を溢して泣いていた。馬超の顔から血の気が引く。声を掛けようとするが、上手い言葉が見付からない。
 自身の不器用さに、馬超の歯がゆさは増した。
 少女はゆっくりと首を横に振ると、顔を手のひらで覆って泣いた。

「わたしは天女ではありません。天女なんかじゃ、ないんです」

 それは、最初の台詞と同じだった。
 馬超は戸惑った。

「じゃあお前は、なんなのだ」
、わたしはっていいます」
「天女ではないとは? 嫌なのか」
「舞ができるからそう呼ばれてるだけ。わたしは人間になりたい。みんなと同じ人間に。わたしだけが特別なんて、もう、嫌なんです」

 人間になりたい。
 そう呟く少女は、どこからどう見ても天女の姿とは程遠かった。
 確かにあの舞をするときの少女だけを見れば、誰しもが天女だと思うだろう。だがいま目の前にいる彼女は、ただの年頃の娘だ。よく知らないが気弱そうで泣いてばかりいる人間の小娘だ。
 その事実にどうしてこの少女自身は気付いていないのだと、馬超は思った。

「人間だろう」

 少女が顔を上げる。
 赤く泣き腫らした顔は、人間らしくてとても綺麗だった。

「どこからどう見ても、人間だ」

 馬超のその言葉に、少女の瞳から再び大粒の涙が溢れる。
 ぎょっとした馬超をよそに、少女――は、声を上げて泣くのであった。
 そしてこの日を境に、二人の交流は始まるのであった。




「わたしは、天女です」

 目の前の女――は、確かにそう応えた。
 あれから数年が経ち身体つきや雰囲気は多少変わってはいるが、声や話し方、容姿は昔と変わらないままだ。
 だが、のその一言に激しい違和感を覚える。
 が涙して嫌がっていたあの言葉を、なぜ今の彼女はこうも受け入れているのだ。

 別離したあの日から、一体何があったというのだ。
 そも目の前にいる女は本当になのかと、馬超の手に力が籠る。

、お前は……」
「わたしの名を、ご存知なのですね」

 馬超が思わず固まる。

「なんだと?」
「あなたに会えたら何かが分かるだろうって、ずっと探していたんです。よかった、うれしい」
「待て、どういうことだ」

 話が噛み合わない。
 苛立つ馬超をよそに、は飄々と喋り続ける。

「わたしは天女です。探しものを見付けに、地上へ降りました。手懸かりもなくさ迷う中で、馬超さま、あなたを見付けたのです」

 あなたの姿を見て、確信しました。
 あなたとともにあれば、わたしの探しものは見付かるのだと。

「だからあなたにこうやって、近寄ったのです」

 の指が、馬超の腕に掛かる。
 そして甘えるように婀娜っぽく見上げるの視線から、馬超は思わず目を反らしたくなった。

 天女。探しもの。地上。
 普段聞かないような単語を不意に出され、うまく頭が働かない。
 秋晴れした空の下で、打ち付けるように頭がかんかんと痛み出す。
 それはまるで、警笛のようだ。

「お前は――」
「媽ー。あれって馬超様ぁ?」
「こら、見るんじゃありません!」

 路地の入口から聞こえる声に、馬超は思いきり顔を顰める。
 そのまま何も言わずの手を取ると、足早に馬超は屋敷へ戻るのであった。

- continue -

2015-10-06