屋敷に戻るなり家人に「室に近付くな」と言いつけると、馬超はを連れてそのまま勢いよく自室の扉を締めた。
家人たちは何事だと思いつつも、いつものことかと察し、また各々の作業に戻るのであった。
室に入るなり、馬超はを抱き締めた。
腕を背に回し、強く抱く。からふわりと甘い花の匂いがした。
はぽかんとした表情で、瞼を閉じたままの馬超の顔を見つめていた。
暫くしてから、馬超が身体を離す。
「お前に何があったのか知らぬが、再び会えたことを嬉しく思う」
曹操に一族を滅ぼされたとき、馬超の元に残ったのは馬岱ただ一人であった。というかけがえのない者でさえ守れなかったのだと知ったとき、馬超は絶望の淵に叩き付けられた。
そのが、経緯はどうであれ生きている。
記憶を失っていようが、はだ。
「。お前の身に何が起こったのか、聞かせてくれないか」
熱い視線に戸惑っているのか、は恐る恐る口を開く。
「あなたのことを、存じ上げません」
「それ以外で構わない。お前のことを全て話してくれ」
「分かりました……」
それでよろしければと、が口を開く。
それは、予想していた以上に難解な出来事であった。
結論から言うと、まずには地上にいた頃の記憶が全くない。
無論馬超と出会い、別れるまでの全てを忘れている。
信じがたい話だが、は地上で人間として死んだあと、天女として生まれ変わったのだという。
「お前は、死んだのか」
馬超は愕然とした。
目の前にいるは、人ではないのだという。
「はい。わたしは人ではありません」
あっさりと即答するに、馬超は複雑な思いにかられる。
双方生きての再会を喜んだと思ったら、実際は違っていた。
だが目の前には、転生したがいる。それのなんと面妖で複雑怪奇なことであるか。
突き付けられた現実に、馬超は言葉を失う。それに構わず、は話を続けた。
生まれ変わったは、天帝の元、他の天女とともに奉仕すべく日常を送っていたのだそうだ。
そんな日々の中、の胸を蝕むものがあった。
「何かがわたしに足りない、そんな気がして。仕方がなかったのです」
どこにいても何をしていても虚無感がつきまとう。
なにかが自分に足りない。何かを取り戻さなければならない。
気が付けばそれについて考えてばかりで、まともに日常を送れなくなっていた。
まるで胸に穴でも空いたかのように身を苛まれ、いよいよ耐えきれなくなったは決心したのであった。
「わたしに足りない何かを探すために、わたしは地上に降りました」
だが天女は天界で暮らすもの。
地上にいては長い間生きていけないため、降りる際にお上から期限を設けられたのであった。
「満月の夜から、その次の満月までの期限。それを過ぎればわたしはここでは生きられない。わたしはその間に、どうしても探しものを見つけなくてはならないのです」
地上に降りてさ迷う中で、ふと馬超の名前を耳にした。雷に打たれるような衝撃を受けた。
この人に会えば、わたしの探しものが見付かるかもしれない。
は名前を頼りに、全てを掛けて馬超に会いに来たのであった。
「これでわたしの話は終わりです」
向かいに座していたが、軽く一礼をする。
短い時間の話であるのに、どっと疲れが出た。
額に手を当て沈思黙考する馬超に、は不思議そうに首を傾げる。
「その、なんだ」
「はい」
「まず、天女というものが分からん」
「はい?」
分からないというより、受け付けないという方が正しいかもしれない。
迷信や幽鬼の類いを信じないため、天女だの天界だのいきなり言われても、反応に戸惑うのが当然であった。
また馬超は見知らぬ相手に対して、特に警戒心が強い。
再会したを見たときに間者かと疑ったがそれ特有の気配は感じず、を抱き締めたときも武器らしきものを持ってはいなかった。
何よりこのトロそうな女にそんなことができるかと、馬超はその考えを一蹴した。
だが不信感は募るばかりである。
「お前が天女であるというなら、何か証拠を見せてくれ」
賭けだったかもしれない。
これでなにも出来なければ人間であるし、立証できれば天女だと信じることができる。
さあどうするとを見ると、はきょとんとした表情をしていた。
「そんなことですか?」
「そんなことだとか言うな。俺にとっては大問題だ」
「分かりました。それでは、あなたの傷を癒しましょう」
なにをと馬超が瞠目した瞬間、唇に柔らかいものが当たった。
時が、止まる。
これはの唇だと分かったのは、数秒してからだった。頬を両手で固定され、その柔らかい唇を押し当てられている。
の顔が近い。
色白の顔、長い睫毛、伏せた瞼。柔らかく湿った唇、触れる吐息、漂う甘い花の匂い。
何の拷問だと馬超が顔を顰めたと同時に、の顔がそっと遠退いた。
はにこりと笑う。
「これで、あなたの肩の傷を癒せます」
「……なぜお前が、それを知っている」
肩の傷は、先の戦で負ったものだ。
手当ても十分にしたためすぐ治るかと思っていたが、治るのに存外時間が掛かっている。
時折肩の痛みに苦しむ馬超を考慮して、この度の防衛戦から外されたのであった。
側近含めてのごく一部の兵は肩の傷を知っているが、他の者は知りえない情報である。
なぜが知っている。怪訝に思ったが、は微笑むだけであった。
「わたしは、天女ですから」
いわく、今すぐに傷が治るというわけではないという。だが直に効果は出るためそれまでは安静にするのが一番なのだそうだ。
こいつは本当に、なのか。
以前のなら、男に口付けるなど到底出来るような女ではなかった。まして、よもやこういう形での唇に触れることになるとは思いもしなかった。
じっとを見つめていると、にこりと微笑まれて思わず馬超は視線を反らす。
再会してから思っていたが、の蠱惑的な振る舞いは『らしからぬ』であった。
「……それにしても、効き目が暫くしてからでは確めようがないな」
「それならわたしが時折顔を出します。そのときに見させて下さい」
「そういえば、お前はいまどこで暮らしているのだ」
「その時々です」
馬超は愕然とした。
「なんだ、それは」
「わたしは旅人のようなもの。お金や宿も持たないので、ある日は野宿をしたり」
「野宿」
「ある日は優しい方にお部屋をお借りしたり」
「優しい」
「その時々で寝泊まりしていました」
「俺の屋敷に住め」
いいのですか?と手を合わせて喜ぶに、「寧ろそうしろ」と馬超が溢す。
わあいと無邪気に喜ぶ表情は昔のと同じであり、なぜだかほっとした。
家人を呼びつけると、茶との部屋の用意をするよう指示をした。
茶が来るまでの間、馬超は気になっていたことをに尋ねる。
「探しものとは一体何なのだ」
話を聞く限りだと、の生前の記憶を取り戻さなければ、その探しものが何かを知ることは出来なさそうだ。
もしかしたら、の記憶自体そのものが『探しもの』の可能性だってある。
「分かりません。でもきっと探しものを見付ければ、この胸の穴を満たすことができるんです」
空白感を埋めたものが、探しものである。
ならば、馬超の存在はどうだったのだ。
「馬超さまの名を聞いた瞬間は驚きましたが、胸の穴は空いたままでした。全然足りないんだと思います。苦しくて苦しくて、このままだと、わたしはわたしでいられなくなってしまう」
の表情は切実であった。
嘘をついているようには到底思えない。
(俺は、を今度こそ救いたい)
目の前の女は本当になのか、まだ全てを信じたわけではない。
天女だ、探しものだと、浮世離したこの女を、信じたわけではない。
「……分かった。協力しよう」
それでも、信じられずにはいられない。
あの日からずっと、を求めていたのだから。
という存在を、突き放すことなど出来はしないのだから。
馬超はという存在を、どんな形であれもう一度手放すことをしたくなかったのだ。
次の満月の夜まで、あと一月。
馬超との『探しもの』が始まるのであった。
- continue -
2015-10-06