October 2015


Una piena luna. with 馬超




 それから、二人の関係は変化を見せていた。
 馬超はを『昔の』と重ねることをやめ、『今の』だけを見ることにした。

 再会したあの日、馬超は『昔の』と『今の』は同じものだと思っていた。
 だがそれは時が経つにつれ、違うものだと思い知ることとなる。
 はっきり言えば、馬超は昔救えずにいた『昔の』を救いたかった。だから探しものを手伝おうと思った。だが『今の』に接するうちに『昔の』との言動の差に苛々するようになり、どうしようもない複雑な思いに駆られることとなった。
 だがあの時にの心情を知って、これではいけないと馬超は気付いた。
 『今の』を救わなければ、『昔の』を救うことなどできない。
 その為には『今の』と向き合わなければならないことを、馬超はようやっと気付いた。
 そして馬超は、『今の』と向き合った。
 は今まで単独行動だった探しものを、馬超と行動を共にするようになった。

 一日一日を過ごしていく。
 今のはなにも知らない。昔の出会ったばかりの頃と変わらない、世間知らずののままであった。だからあの時と同じように世界を見せてやりたいと、馬超は思った。そしてそれが探しもののきっかけに繋がっているのかもしれないと、半信半疑になりながらも、馬超は進んで接した。
 字の書き方を教えた。墨をぶちまけて二人して衣装を汚した。
 書を読んで聞かせた。はいつの間にか寝ていた。
 散乱していた竹簡を二人で片付けた。雪崩が起きて大事な竹簡を見失った。
 馬の世話の仕方を教えた。はまた髪の毛を食べられていた。
 馬にも再び乗せた。相変わらず涙目になっていた。
 屋敷の庭では花を摘んでいた。馬超はその傍らで鍛練していた。
 色んな物を食べさせた。制止するまで食べ続けていた。
 そして今まで無表情だったに、喜怒哀楽の感情が出てきた。
 少しずつだが進んでいることに実感を覚え、馬超は安堵していた。

 満ちていた月が、日に日に欠けていく。
 気が付けば早いもので、もう少しで新月なのだ。
 夜空を見上げて帰路につく馬超は、ふとその事に気付く。
 の『探しもの』とやらは、まだ見付かっていない。だが日に日に笑顔が増えていくに、進んでいる道は間違ってはいないだろうと馬超は思っていた。

 屋敷に戻ると、真っ先にの部屋へ向かう。
 扉を叩いて返事を待たずに入ると、そこには机に向かうの後ろ姿があった。


「きゃっ!」

 背中を向けていたの肩が、びくりと揺れる。その反動で握っていた筆を思わず落とし、床に墨を溢した。

「あわわわ」

 そう言って口をもごつかせるの姿に、馬超は笑いを抑えきれなかった。

「なんで笑うんですか、もうっ」

 ぷりぷりしながら怒るに、悪かったといって馬超も片付けを手伝う。
 馬超から教わった文字の練習をしているのであろう、机には竹簡に練習の跡が見える。
 次の満月に帰るのだから教えたって意味がない、とは思わない。
 まだまだ教えていないものがある。
 探しものの合間でいい、もっとに教えてやりたいと切に馬超は思うのであった。
 不意に、が咳き込む。

「最近、多いな」

 咳き込んだり、微熱があったりと、は暫く体調を崩している。
 そのせいか遠出は出来ず、屋敷の近辺か室内で出来ることを教えている。

「だいじょうぶ、です。気にしないで」
「ここのところ多いだろう。いい加減医者に診てもらうぞ」
「だいじょうぶです!」

 声を張り上げるに、馬超が閉口する。
 ははっとしたように、もごもごと言葉を続けた。

「その、天女の身体を調べても、何も分からないと思います。しっかり食べて寝てれば、治るから、だいじょうぶです」

 そう言って笑顔を見せるは明らかに無理をしていた。
 なにか隠しているのかと馬超は勘繰るが、今は聞かないことにする。

「……悪くなるようなら、人間の医者でもいいから診てもらうぞ」

 はいと頷くに、馬超は怪訝な表情を浮かべる。
 それからの身体は、どんどん悪くなっていった。


 の体調は依然、不安定なままである。
 ここのところは寝台に臥せる日々が続いていた。
 そんなある日のこと。
 寝台から身を起こしているの姿に、驚いた馬超が声を掛ける。

「起きていて平気なのか」

 頬を赤く染めたが、こくりと頷いた。

「今日は調子、良いです。わたし、起きます」

 そう言ってが起き上がろうとするが、咄嗟にそれを馬超が制する。手のひらでの額を触ると、じんわりとした熱が皮膚を伝った。

「おい、熱があるぞ」
「だいじょうぶです」
「良いわけがあるか」

 休めと身体を寝台に寝かしつけようとすると、が慌てて首を横に振った。

「だめです、眠ってももう意味がないんです」

 ぴくりと、馬超の手の動きが止まる。

「意味がない、だと?」

 の顔に憂愁の影が差す。

「……本当は、言いたくありませんでした」

 いわく、今の身体は『気』の枯渇状態にあるのだという。
 新月が近いため、天女としての『気』が弱まっているらしい。

 元々は天界で暮らしていたのだから、地上の『気』がどうやっても合わない。
 それを補うように月が出ている内は月から『気』を補い、天女としての力を保っていた。また地上の食事を摂取して身体を慣らし、睡眠を多く取って体力を維持してきた。
 それが新月が近付くにつれて、『気』の供給が極端に減ってくる。
 少ない月の気と、地上の食物、睡眠だけでは天女として身体が持たない。それに追い打ちを掛けるようにして得体の知れない『喪失感』がを襲う。
 このままでは、次の満月までが地上で暮らすことは困難となる。だから早く探しものを見付けて、欠落したものを埋めたい。気を満たしたいのだ。

「わたし、街に行きたいです」

 の言葉に、馬超は驚いた。

「あの舞をもう一度見たい。もしかしたら何か分かるかもしれません。わたしの探しものが見つかるかもしれません!」

 悲痛な表情を浮かべるは、再会したときの彼女からは想像できないほど、人間らしく、人としての生気に満ち溢れていた。

 いま無理をして動けば更に身体が悪化するかもしれない。今は新月だが直に月は出てくる。そうすれば『気』を補えるのだ。落ち着いた頃に探しものをすればいいのではないのか。
 だがも言ったように、月から『気』を補えるまでに日数はかかる。それに追い打ちをかけるように喪失感がを襲っている。このままじっとしていても現状は悪化し、もしかしたら最悪の事態となるかもしれない。
 だが馬超は、の生気溢れる眼差しを見て迷うことなどなかった。

「行くぞ。正し、悪化すれば即座に連れ帰るからな」

 馬超は両方を選んだ。
 の『探しもの』も『身体』も。
 馬超は迷うことなどなかった。


 馬を走らせ、街に到着する。
 辛うじて歩けるに寄り添いながら、街中を歩く。目当ては以前見かけた『舞』だ。
 だが、どこを探しても見つからない。笛の音色も聞こえない。
 馬超の腕を握るの手に、力がこもる。
 見かねた馬超は、『舞』のあった広場で露店をする者にそのことを尋ねた。
 あの者たちは『舞』を生業にした旅人で、数日前に街から立ち去ったのだと言う。
 もう戻ってこないだろうねえと顎に手を掛ける店主に、馬超は行き先を尋ねるが、分からないと答えられる。
 諦めきれずその後も何人かに尋ねるが、みな同じ事を言っていた。

 馬超は苛立った。
 己の腕に寄り添うを見ると、は口元を手で覆っていた。

「おい、どうした」
「人ごみに、酔って……」

 色白の顔を更に白くさせ震えるを、馬超は抱えあげる。
 驚いた表情のをそのままに、周囲の好奇な視線を受けながら、馬超は街の外を目指した。


 街の門から一歩出れば、平原が広がっている。
 黄色の葉をつける木の根元に、を寄りかからせる。
 喧騒から離れたお陰だろう、の顔色も少し良くなったように思える。
 一先ずここなら落ち着くだろうと馬超はひとりごち、次いで馬を連れに街に戻ろうとすると、の指が馬超の袂を掴んだ。

「ごめんなさい」

 の口から出たのは謝罪であった。

「せっかく連れてきてくれたのに、ごめんなさい。わたしのために色々としてくれたのに、舞の人たちは見付からないし、身体は言うこときかないし」

 そう言いながら、はぼろぼろと涙を溢す。

「迷惑かけて、ごめんなさい」

 咄嗟に馬超の腕はを抱き締めていた。

「謝るな」

 だが言葉はどこまでも不器用であった。

「迷惑ならば最初から突き放している。迷惑などではない。いいか、二度とそういったことを言うな。分かったか」
「でも、だって!」
「ああもう、うるさいぞ」

 唇が重なる。
 は驚き、目を見開いたままそれを受けていた。
 そして馬超は身を引くと、そのまま足音荒く馬を連れに戻っていった。
 はただ、触れた唇を指でなぞっていた。

 その時だった。
 何処からともなく、の耳に笛の音色が聞こえてきたのだ。


 馬超がの元に戻ると、は姿を消していた。
 馬超の背筋をぞっとしたものがかけ上がる。
 何かあったのか。
 手綱を捨てて辺りを探す。だがどこにも見当たらない。
 街の外には平原があるだけで、隠れるようなところは無い。少し奥に進めば森があるが、あの体力のないが向かうとはとても思えない。
 やはり一人にさせるべきではなかったと、馬超は歯を噛み締める。

 するとどこかからか、微かに歌が聞こえてきた。
 それは聞き覚えのある音色だった。
 導かれるように馬超はその音の方へ向かう。
 平原を少し進むと、小高い丘にぽつりと一本の木がそびえていた。
 それに寄り掛かるようにして、が立っていた。昔よく歌っていた、歌を口ずさみながら。

「馬超さま」

 気が付いたのか、が馬超の方を振り返る。
 その顔には、喜びとも悲しみとも言い切れない複雑な表情を浮かべていた。

「わたし、思い出しました。わたしは舞姫でした」

 声が震えていた。

「雨を降らせるために舞をして、歌をうたって、周囲から期待されて、天女って呼ばれてて。なぜわたしは忘れていたのでしょうか。あんなに悩んでいたのに、あんなに苦しかったのに、それでもあんなに……好きだったのに」

 は顔を覆って、泣いた。
 馬超は一歩一歩近寄ると、を強く胸に引き寄せた。
 は躊躇った様子を見せたが、すぐにその胸にすがって泣いた。
 二人には、言葉もなにもない。
 夕陽だけが二人を照らしていた。


 は『舞姫』としての記憶を取り戻した。
 生い立ちから舞姫として活躍していた時のことを思い出したのだという。

(これで一歩前進だろう)

 泣きつかれたを屋敷の寝台に寝かしつけ、頬を撫でる。
 先ほどの様子から、が取り戻した記憶は『探しもの』に近いことは間違いないだろう。虚無感が少しでも埋まればいいと、馬超は願った。
 だが一つ、気になったことがあった。
 は、馬超のことを思い出せないという。
 舞姫として苦慮していた時代に出会い、少なからずに影響を与えたのは馬超だ。
 その馬超を覚えていないということは、一体どういうことなのだろう。

(まるで嫉妬だな)

 馬超は自嘲する。
 の苦しみを取り除けるなら覚えていなくてもいいとそう断言できないのが、馬超の馬超たる所以であった。
 の額を撫でる。朝あった熱はすっかり下がっていた。
 これでもう身体は大丈夫なのだろうと、馬超は安堵する。
 色白の顔、伏せた長い睫。整った目元に、ふっくらとした血色のよい唇。
 天女とはよく言ったものだと馬超は失笑し、静かに馬超は自室へと戻っていった。
 そしてゆっくりと、の瞼が開く。

- continue -

2015-10-06