October 2015


Una piena luna. with 馬超


 いつだって、希望と絶望は表裏一体なのだ。
 希望を抱いた瞬間に絶望に叩き落とされる。
 その衝撃はあまりにも大きく、立っていた脚は碎け、心は粉々になる。
 そしてまたその瞬間に、別の何かを失くしている。もう立ち上がりたくないと心が弱りだす。
 自分の足で立ち上がらなければならないのだ。それのなんと苦しく億劫なことであるか。


 新月が終わり、天上に月が姿を現す。
 の容態はよくなると思われた。だが実際は違った。
 の身体の具合は、以前より悪化している。
 なぜなのか理由は分かる。
 『探しもの』がまだ見付かっていないからだ。

 息を荒くしたが、寝台で悶える。顔を赤く染めて苦痛に顔を歪めていた。
 月から受ける微かな『気』と、地上の食事では、もうどうにも間に合わないという。
 は喪失感を嘆いた。

「探さなきゃ、早く、探して、探さなきゃ」


 胡乱なの表情は痛々しく、伸ばされた手は寝台に縫い付けるしかなかった。
 あの時にが取り戻した記憶は、『探しもの』ではなかった。
 だったら何だというのだ。何がの心を埋めるのだ。
 馬超は歯がゆさを覚えた。

 その頃は眠ることが殆どで、起きていることが少なかった。
 起きていたとしても食事をするか、寝台の上で苦しみ喘ぐぐらいで、話すこともままならなかった。
 医者を呼ぶべきか、それとも仙術に詳しいという丞相に話を聞くべきか。
 息の荒いの手を握りながら、馬超が逡巡していた。
 その時であった。
 が伏せていた瞼をばっと開けたかと思うと、強い力で馬超の胸元を引き寄せた。
 呆気に取られた馬超は、そのままからの口付けを受ける。
 唇から漏れる吐息は熱く、荒いものであった。

「ごめんなさい」

 悲痛な表情のが、涙を溢している。
 そして目をそらさずに、お互いの吐息を感じる距離で馬超を見つめている。

「もうこうするしか、ないんです」

 もう一度、の唇が重なる。
 それはまるで貪るようで、愛し合うための口付けではなかった。
 そこで馬超は気が付いた。
 こうすることでの『気』を満たすことが出来るのだ。
 それならば、何を躊躇うのだろうか。
 今更何を躊躇う。

 馬超はそれに応えるように、自身から唇を重ねた。
 そのままの腰ひもをほどき、肩から着物をずらす。
 そのまま寝台に押し倒して、更に唇を重ねた。
 二人の衣服が床に重なる。



 苦痛に歪むの瞼が、ゆっくり開く。

「お前が好きだ」

 ぱくぱくと、の口が動く。
 声にはならなかったが、馬超にはっきりと伝わった。

 わたしもすきです。
 そう言って、はまた泣いていた。




 それから、の容態は安定していた。
 以前より少しぼうとすることが増えたぐらいで、身体自体は問題なく、歩くことも出来るほど回復した。
 月も段々と姿を表し、そこから『気』を補充する。このまま行けば再び『探しもの』をすることができるであろう。
 だが時間は有限である。月が満ちるということは次の満月まで時間がないということである。
 休んでばかりいてはいられないのだ。

 だが、新たな『気』の補充を得てから、の馬超への態度は変わった。
 その日も馬超がの室を訪れると、は馬超の顔を見るなり、さっと顔を横に反らした。その耳が赤いことに馬超は気付いていない。

「なんなのだ、お前は」

 良くなったらこれかと馬超が呆れる中、は口元をもごもごさせながら言い返した。

「な、なんでもないです」
「ならば顔を反らすな。俺を見ろ」

 ずんずんとのいる寝台に近寄る馬超に、は言葉にならない悲鳴を上げて蒲団にくるまった。
 の変わりぶりはどうであれ、身体の具合が良ければそれでよい。
 一時はどうなるかと思って肝を冷やしたが、『気』の補充が男女の交接で補えるのであれば躊躇うことなどなかった。

 日中はこんな調子のであるが、夜になるとどちらからともなく求め合う。
 よもやこんな形で繋がるとは思わなかったが、それを嫌だと思わなかった。
 馬超はを好いており、も馬超を好いている。
 だからこの行為は単なる『気』の補充ではなく、愛し合うための行為なのだ。
 そう思い込めるように、馬超はを優しく抱く。
 そうしなければ、を救えない気がした。

 その日の夜も同じように、寝台を共にした。

「傷、良くなりましたね」

 馬超の肩の傷跡を、そっとが撫でる。
 今では遠い昔に感じるが、に治療と称して二回口付けられたことを思い出して、馬超は苦笑した。
 傷はすっかり完治していた。

「この傷を受けた時からお前に会うまで、この傷は一生治らないと思っていた」

 その馬超の言葉に、が驚く。

「なぜですか?」
「これは、俺を恨んで斬りつけた者の傷だ」

 斬りつけられたその日から熱が下がることがなく、悪夢に何度も魘された。
 医者も手を尽くしたが回復が見られず、一生この傷と付き合うことになるのかと思っていた。

「自業自得だ。俺も復讐に燃えていたのだから」

 その者は馬超に身内を殺されたのだという。
 その馬超もまた、身内を殺されていた。だから復讐した。だから復讐された。
 分かっていた。だけれど止めることなど出来はしなかった。
 大切なものを奪われた悲しみが、深すぎたのだ。
 だが、今は違う。
 そっと馬超の手がの頬を撫でる。

「お前は覚えていないだろうが、お前と俺は確かに西涼の地で出会った。お前とくだらないことをして毎日を過ごしていた。だがある時曹操の命で、お前はお前の一族と、俺の一族と共に都へ向かうこととなった。俺は涼州を任されて残された。それがお前との別れだった。その後にお前自身がどうなったか、わからない。だが言えるのは、俺の一族とお前の一族は例外なく皆殺されたということだ」

 馬超は復讐に走った。曹操の兵を悉く屠った。
 馬超は一族を失った。居場所を失った。
 を、失した。

「だが今はこうやって、俺の目の前にお前がいる。俺はそれで十分なのだ」

 復讐も、傷付けられた心も身体も。
 いまこうやってがいる。
 現状が酷であれ、と共にあることで心が満たされる。
 それで十分だという馬超に、の手がそっと馬超の手に重なった。

「わたしは舞姫でした。でも何のために舞うのか、わたしは分からないままでした。人々の暮らしのために舞うのか、自分が生きていくために舞うのか、ただ惰性で舞うのか。段々と舞うことが事務的になっていって、それが嫌で、苦しくて、悲しくて、でもある時、わたしは誰かに向かってこう言ったんです」

 『あなた』のために舞います、と。

 その言葉は、馬超の記憶の片隅にもあるものであった。


 西涼にいた頃、出陣した馬超は足に傷を負って帰還した事があった。
 負傷してなお戦い続ける姿に、人々はいたく感心し、賞賛の声を浴びせた。
 苛烈な戦場であり、多くの者が死に絶えた。馬超自身もよく生きて帰れたと思ったぐらいだ。

「馬超さまの戦う意味はなんですか」

 久しぶりに会ったは、傷ついた馬超を見上げて涙を溢した。

「戦う理由か。俺にとって、みなにとって、生きるためだ」

 戦うことは、生きること。
 生きるために、戦うのだ。

「それが俺の役目であり、この地を守るためにある」
「死んじゃいやです」

 は首を横に振る。
 こどものようだと、馬超は笑う。

「それは保証できぬ」
「どうか死なないで。わたしを一人にしないで」
「ならば、お前の舞で俺の無事を祈ってくれ」

 馬超は基本的に、そういったことは信じない。
 今でも半信半疑な部分が多いが、が祈ってくれるなら悪くないと、そう思えた。
 は涙を拭うと、ゆっくりと頷いた。

「いくらでも」

 あなたのために、舞います。
 それはまるで、愛の告白のようであった。




 そうなのだ。
 は、なのだ。
 あのときと同じ言葉が聞けるなど、馬超は夢にも思っていなかった。

「わたしは、その言葉をきっとあなたに対して言ったんですね。なんでそんな大事なこと、忘れてたんでしょう。思い出すだけでこんなにも、胸が苦しくて、愛おしいのに」

 いつの間にか、馬超はを抱き寄せていた。
 馬超のあたたかい胸が、の涙で濡れる。
 どくんどくんと、皮膚越しにお互いの心音が聞こえた。その音に、二人はひどく安堵した。

「探しものを、続けるのか」

 の肩に顔を埋めながら、馬超が呟く。
 はいと、が小声で返した。
 その声は震えている。

「見付かれば、お前は天へ帰ってしまうのだろう」

 は沈黙する。肯定だ。

「帰るな」

 の息が止まる。

「もうどこにも行くな。俺の傍にいろ。『気』など俺が与えてやる。お前に全て、くれてやる」

 だからどこにも行くな。
 馬超の腕が、の背を強く抱く。

「だめです」

 の声はか細く、とても震えている。

「そんなことをしたら、あなたは死んでしまう。わたしは人ではないのだから、あなたの『気』をもらえばもらうほど、あなたは弱ってしまう。そうしたら、あなたは武人ではなくなってしまう」
「愛している者さえ守れない者が、どうして国を守れるのか」

 そんなこと、とは首を振る。
 馬超は構わずを強く抱き締めた。

 満月まで、残すは数日。
 満ちつつある月は、二人を見て何を思うのか。

- continue -

2015-10-06