October 2015


Una piena luna. with 馬超


 少女は夢を見る。
 天女として過ごしたあの日々を。
 天界での日々は平和で穏やかであった。
 少女はまだ未熟な天女であるから、手慣れた上席の天女が少女を導いていた。
 天女は少女に言う。
「貴女は天女になりなさい」
 少女は天女に言う。
「わたしは天女になりたくない」
 天女は少女に言う。
「駄目よ。それが貴女の××なのだから」


 ふと、の目が覚める。
 何度か瞬きを繰り返して、重たい目蓋を擦る。
 そして目を細めて部屋の中を見渡した。
 ここは馬超の屋敷で、に宛がわれた部屋だ。
 まだ暗い室内に、眠りについてからさほど時間が経過していないことに気付く。
 先程まで馬超と共に眠っていたはずなのに、その彼が隣にいない。
 急に冷たく感じる蒲団に、は心細さを感じた。
 どこに行ったのだろう。
 のそのそと寝台から降りて、裸足で室内を歩く。
 小窓から見える月は眩しくて、は思わず目を反らした。
 ふと、何処からか声が聞こえる。扉の外からだった。馬超さまの声だ、とは扉に向かう。
 扉に手を掛けた瞬間、聞こえた言葉には固まった。

「そうか。曹魏を返り討ちにしたか」
「ええ、我が軍の勝利です。何でも数千の首級を挙げたとか。馬岱殿も直に戻られるかと」
「それはいかん、馬岱に文でも出さねばな。女を連れ込んでと叱れるのが目に見える」
「私も同じ風景を思い浮かべました」

 それは何でもない戦勝報告の会話であった。
 それなのに、の身体は震えが止まらない。
 一歩、片足が勝手に後ろへ動く。
 の両腕は無意識に、震える身体を抱き締めていた。
 胸の内を蝕む『違和感』が、を惑乱させる。
 こわい、知りたくない。
 こつんと、何かが膝の裏に当たる。
 いつの間にか後退していたらしい。
 恐る恐る、が振り返る。
 そこには寝台と、窓から覗く月があった。
 ぷつんと、頭の中で何かが切れた音がした。
 その音を聞くと同時に、の身体は地面へ落ちていった。


 馬超が室に戻ると、は寝台に腰掛けて月を眺めていた。
 薄明かりに照らされたの楚楚たる風情に、思わず馬超は息を呑む。

「起きていたのか」

 馬超が声を掛けると、はこちらを向いて微笑んだ。

「はい。目が覚めてしまいました」

 随分と機嫌の良さそうなに、馬超は「いい夢でも見たのか」と問い掛けた。
 は笑う。

「はい、とてもいい夢でした。あなたもいい夢、見れましたか?」
「夢ではないが、戦勝の伝令があった。お陰でいい夢が見れそうな気がする」
「そうですか。いい夢、見れるといいですね」

 そう言って、二人して寝台に入る。
 同じ布団にくるまり、は馬超の腕で眠る。
 そのまま眠るかと思いきや、馬超の唇にちゅと、柔らかいものが重なった。

「どうか、いい夢を」

 優しい囁きとともにもう一度、唇が重なる。
 寝かせてくれないのかと馬超が笑いかけた瞬間、飲み込んだ異物感に馬超は目を見張った。
 思わず起き上がろうとするが、その時には既に身体が言うことを聞かなかった。
 一体、何を。
 薄れゆく景色の中で、最後に目にしたのはの生気のない表情であった。


 微睡みの中、馬超は西涼の頃の夢を見る。
 それはある日の夜の出来事。
 と二人、夜の遠乗りに出掛けていた。

「すごい、きれいです!」

 目を大きくさせたが、辺りを見渡す。
 満天の星空。平原にある小高い丘まで来ると、を馬から降ろした。
 一面の草原、鳴く鈴虫、そして空には煌々と輝く満月がある。涼しくて心地よい風が吹き、の髪をさらりと揺らした。

「こんな場所ってあるんですね。本当に広い、先が見えないです。それにここは、天が近い!」

 小高い丘に立ったが、満月に向かって手を伸ばす。月明かりに照らされたその光景は、とても神聖なものに思えた。

「でもやっぱり掴めませんね!」
「当たり前だろう」

 くすくすと笑うに、馬超は肩を竦める。
 連れてきてよかったと、素直に馬超は思った。
 此処は馬超のお気に入りの場所であった。
 なにか悩むこと、考えたいこと、苦しいことがあれば、一人で此処に来た。
 ただただ広い平原と、どこまでも続く限りない空を見れば、己の悩みなどちっぽけなものでどうでもよくなった。
 そんな特別な場所にがいることが不思議であり、だがそれに対し嫌な気持ちは一切しなかった。

「ありがとうございます。連れてきて下さって」

 が清々しく笑う。

「わたし、こんな場所があるなんて知らなかった。わたしは何も知らない。あなたに出会うまで何も知らなかった。あなたに会えて、色んなことを知ることができた。色んなものを見ることができた、色んなことを感じた!」

 自分は人間ではないと、泣きぐずっていたあの頃のは、もういない。

「わたしはこの場所を守りたい。わたしの好きなものを、守りたい。西凉を守りたい。主さまたちを守りたい。あなたを、守りたい」

 だからそのために、わたしは舞います。

「そんな単純な理由で、良かったんですよね。わたし、なにも知らなかった。ただ与えられたものをこなしていくだけでした。ただ舞っていればご飯が食べれる、生活できる。それだけで生きてきた。そこに理由も意味も何もなかった。もちろん舞の必要性は分かってました。でも本質は理解できてなかった、気持ちなんてどこにも入ってなかった。そんな舞なんて、やっても意味はないんだって。そんなものはただの、動く人形なんだっと。わたしはあなたに出会えて、やっと気付けました」

 ありがとうございます。
 わたしを、人間にしてくれて。

「俺もお前を守ろう。この場所を。西凉の地を。お前を、守ろう」

 は目を細めて、笑った。

「約束、です。また一緒にこの満月を見ましょう」

 ああと、馬超が応える。
 二人の視線が絡まる。
 口にせずとも、お互いの存在が愛おしいと通じた。確かに二人は、両想いだった。

 それは遠くない約束だと思っていた。
 だがその約束は、叶うことなく終わってしまう。これが二人の、最期に交わした言葉だった。




 そしてゆっくりと、馬超が目蓋を開ける。
 ぼんやりと意識に靄がかかったように気だるく、身体も重たい。
 何が起こったのかと頭を働かすが、上手く回らない。
 ただあのとき目の前にがいて、口付けをしてくれたという記憶しか残っていない。
 は、どこにいった。重たい首を横に向けると、その方向にがいた。
 寝台近くの椅子に座して、馬超をじっと見つめていた。目と目が、合う。

「すごい、動けるんですね」

 すごいすごい。
 普通だったら目も覚まさないのに。
 は口ではそう言いながらも、驚いた様子はない。
 その姿は異常であり、普段の面影もないような人間味のない表情をしている。
 このは、なんだ。
 まるで初めて会うような気分にさせられる。
 『昔の』でも『再会した』でもない、似ても似つかぬこの女は誰だ。

「俺に、何を、した」

 飲み込んだ異物感から、痺れ薬か何かなのだろう。
 朦朧とする中で睨み付けるが、に臆した様子は見られない。相変わらず無表情でこちらを見つめている。

「何をされたかより、何をされるかの方が気になりませんか」
「ふざけるな。誰だ、お前は」
「わたしは天女です」
「……ふざけるな」
「ふざけてなどいません」

 椅子から立ち上がり、寝台の上にあがる。
 馬超の上を膝をついて跨ぐと、馬超の顔の横に手を着いた。

「わたしは、天女ですよ」

 まるで壊れたように繰り返すその言葉に、馬超は顔を歪めた。

「なぜこのようなことを」
「あなたの首級を持って帰る。それがわたしの使命」

 ひやりとした指が、馬超の首に絡み付く。
 の瞳はもはや正気ではない。
 は顔を近付けると、馬超の耳元でそっと囁いた。

「さようなら。いい夢を」

 ぐ、と強い力で首を締められる。
 薬のせいか身体に力が入らず、ろくに抵抗が出来ない。
 無意味な言葉と息だけが喉から漏れるだけだ。
 振りほどかなければ、間違いなく殺される。

(俺はこの細腕に殺されるのか)

 辛うじて動いた片手で、の腕を握る。退けるわけでもなく、ただ腕を握る。
 の力は一切緩まない。揺るがない。
 この女にこんな強い意志があるものかと、馬超は心の中で笑う。
 は、『天界からやってきた天女』などではない。
 天女が痺れ薬を持っているものか。
 天女が首級を持って帰るものか。
 天女が人を、殺すものなのか。
 はほぼ間違いなく間者である。
 ふつふつと、怒りの感情が湧いてきた。

 白む景色の中、ぐっと馬超が歯を噛み締める。
 そして片膝を思いきり突き立てると、その上に股がっていたは容易く寝台から転げ落ちた。
 声なく倒れ込むをよそに、馬超は咳き込む。お陰で意識がはっきりとしてきた。
 ゆっくりと、生気のない顔をしたが立ち上がる。
 馬超も息を整えながら、寝台の下に隠していた剣を手に取った。が目を細める。

「それでわたしを殺しますか」
「お前は殺さない」
「意味が分かりません」

 苛立ったように、が応える。

「天界の天女だというのは嘘か」
「知りません」
「お前が拘っていた『気』はどうした。あんなに弱っていたのに、あれも演技なのか」
「知りません」
「探しものも、満月の期日も、偽りか」
「知りません」
「俺を好きだというのも、今までの日々も、全て嘘だったのかと聞いている!」
「知りません」
「ならば、なぜ」

 お前は泣いているのだ。

「え?」

 は驚いた様子で、自身の頬に触れる。

「なに? これ」

 濡れた頬に目を見張るに、馬超は確信めいたものを感じた。

 生気のない瞳。
 頻りに同じ言葉だけを繰り返す。
 だが目的だけははっきりとしており、貫き通そうとする。
 まるで『誰かに』馬超を殺すように暗示を掛けられているようだ。
 つまりは、何者かに『洗脳』されているのだ。
 実際に見たことはないが、そういった術を操り、集団で暗示を掛けさせて無理矢理戦わせるなど、非道な所業を働く術師がいたと聞いたことがある。
 とても信じられないが、『今の』を見ればそうとしか思えない。
 馬超は、賭けに出た。

「くれてやる」

 馬超は首もとに刃を当てる。
 の顔に、不意打ちにあったような驚愕の色が見えた。

「俺の首が欲しいのだろう。くれてやる。前にも言っただろう。お前に全てをくれてやると」

 刃が薄い皮膚に触れる。
 溢れた赤に、は青ざめた顔をした。
 思わず馬超は苦笑した。

「そんな顔を、するな」

 構わず手に力を込めた。

「――やめて!!!!」

 の声が、室内に響き渡る。
 ぜえぜえと肩で息をして、全身を震わせていた。
 両腕で身体を抱えて、焦点の定まらぬ視線を馬超に向ける。

「ちがう、わたしは殺さなきゃ、はぁ、わたしは、ははは、天女で、天女が、わたしで、はぁ、わたしは、殺さなきゃ、天女が、はは、殺さなきゃ、わたしは」
「お前はだ」

 ばっと、が顔を上げる。
 何とひどい顔だと、馬超は呆れて笑った。

「お前は、人間だろう」

 の顔は顔面蒼白な上に涙で濡れていて、ぐちゃぐちゃ。
 目を吊り上げさせて髪も乱れさせている様は、とても『天女』と呼ぶには相応しくない。
 それでも人間らしくて、愛らしいと馬超は思う。

「戻ってこい、

 は言葉を出せず、息を呑みながら首を横に振る。

「来い、

 剣を捨て、血に濡れた手を馬超が差し出す。
 それを見てまた、は頭を抱えて苦しみだす。

「だってもう、どうしようもないの!!」

 全身で叫んだ言葉が、月明かりに照らされた部屋に響き渡る。
 は一歩二歩と後退して、室を飛び出して行った。
 不味い、と馬超も後を追おうとするがいよいよ限界が来たらしい。
 膝から崩れ落ちていき、馬超の意識が飛んだ。

- continue -

2015-10-06