October 2015


Una piena luna. with 馬超


 わたしは人間にはなれない。
 昔からずっとそう思っていた。
 それでも馬超さまがいたからわたしは一時だけ人間でいられた。
 でも離れてしまって、わたしはまた人間ではなくなってしまった。
 わたしは人間になりたかっただけだ。
 それは我が儘な願いなんだろうか。
 とても叶えられない願いなんだろうか。
 そんなにもいけないことで、否定されないといけないことなのだろうか。
 どうしてわたしは、他の人と同じように生きていけないのだろう。
 わたしはいつまで一人でいればいい。

 それでももう、あきらめるしかないのです。
 わたしはもう、人間にはなれないのだから。


 の悲鳴を聞いた家人が何事かと駆けつけてくれたお陰で、馬超は飛び掛けていた意識を取り戻した。
 泣いて止める家人に無理矢理馬を連れてこさせ、なんとか乗馬する。
 が立ち去ってからどれぐらいが経った。
 女の足だが、何かと『探しもの』とやらに出掛けていたのことだから、意外と健脚ではある。
 馬を走らせて、を探す。
 薬の影響か何度か意識が飛びそうになるが、その度に唇を噛んで堪えた。
 とにかく今はを見付け出す。
 その一心で馬超は走り回った。
 空は段々と明け始めていた。

 平原の小高い丘にそびえ立つ、一本の木。
 その木の下で、を見つけた。
 薄暗い灰色の空に浮かぶ月に、まるで祈るかのように、地面に蹲って顔を伏せていた。
 その場所は、昔約束をした場所と似ていた。
 そして同じくこの場所は、以前が『舞姫』の記憶を取り戻した場所でもある。



 馬から降りた馬超が声を掛けるが、は反応しない。



 一歩一歩、気だるい身体を引きずりながらの元へ近付く。



 手を伸ばせば触れる位置まで近付き、傍らに跪く。の身体は上下しており、息をしていることに内心馬超は安堵していた。

「何でここにきたんですか」

 蹲り顔を伏せたまま、が口を開く。

「もう、すべてが遅いんです。もうどうしようもないんです。なんでそんなときに、あなたはここにきたんですか。なにがしたいんですか」
「お前を取り戻すためだ」

 伏せていた顔を、が上げる。
 それは今まで見たことがない、怒りの表情であった。

「なにも知らないくせにそんなこと言わないで!!」

 子供のようだった。

「わたし思い出してしまった! 西涼であなたと別れたあと、曹魏に一族を殺されたことも、目の前で殺されたことも、でもわたしは天女だからって生きることを許されたことも、卑怯だと言われたことも、そして復讐に利用されて暗示を掛けられたことも!」

 子供のように泣きわめく。

「ねぇ、わたし、人を殺したんですよ。一族の従者だったひとを、殺したんですよ。仲間を殺したんですよ、ねぇ、わたし、わたしはもう」

 天女にも人間にもなれない。
 それならば、わたしは一体何者なのだろう。

 はむくりと立ち上がると、膝を着く馬超を見下ろす。そして可笑しく笑って見せた。

「わたしの今の主は、あなたのその肩の傷を作った張本人なんです。でも主もこの間の戦で負傷してもう起き上がれないから、わたしが代わりに、あなたを殺しにきたんですよ」

 でもそれだけでは楽しくない。
 そう言った主は、の記憶を無くして、偽りの記憶を作り出し『探しもの』をするという名目で蜀へ送り込んだのだ。
 無論『探しもの』とは、馬超の命である。
 記憶を無くす理由は、恐らくその方が『希望から絶望への転落』があって面白いからだ。
 それが主の復讐なのだろう。

 そして何も知らないは、どこか懐かしさを感じる馬超と楽しい日々を過ごす。
 の素性は完璧に消していたから、誰もを知らないし、自身も気付くことはない。

「そして満月を見たらあなたを殺すよう、暗示を掛けられていたんです。でも予想外の出来事が起きたので、中途半端に意識が切り替わりました」

 そのせいで計画が台無しです。
 自嘲するは続ける。

「わたし、魏に捕らえられてからずっと暗示を掛けられてました。わたしは天女で人を殺すことが仕事の小娘だってそう思って生かされてました。でもふとした瞬間にあなたのことを思い出して、正気に戻って、その度に錯乱して頭がおかしくなって。そうしたらまた暗示を掛けられて、もうどっちの記憶が正しいのか分からなくなって、苦しくなって」

 そうして馬超と再会する前に、完全に記憶を消された。
 地図と薬と食料、少しの金を持たされ、一人で放り出された。
 確かにある胸の『喪失感』を感じながら、それでも不思議と足は軽かった。
 これで自由になれると、不思議と思った。

「いま思えばあなたと再会して過ごす日々が、どんなに幸せなものだったんだろうと思います。何も知らないであなたに甘えて、胸に寄りかかっていたのだから」

 いまはもう、そんな日々に戻れない。

「ねぇ、なにか言ってください。わたしの話を聞いて何も感じないことはないでしょう? ねぇ、なにか」

 その時だった。
 は片腕を引かれて、馬超に抱き締められる。
 夜風で冷された身体に温もりを感じて、は眉を潜めた。

「やめてください!」

 離して、と突き放そうとするが馬超は腕の力を緩めることはしない。

「お前はどうしたいんだ」

 は思わず抵抗をやめる。

「魏に戻って屍のように生きるのか。それとも俺の傍にいたいのか。外に出て放浪するのか」
「わたし、あなたを殺しに来たんですよ? 話聞いてましたか?」
「うるさい。お前はどうしたいのかと聞いている」

 今は暗示は解けているはずだろう。
 馬超の声からは怒りの感情がうかがえる。
 は戸惑うように眉を潜めた。

「そんなの、どうしたいかなんて分からない」
「人に選ばせるな。自分で決めろ」

 いやだと首を振るの前に、馬超は立ちはだかる。それは昔から変わらなかった。

「全て起こってしまったことはもう、全て、取り戻せない。事実なんだ」
「分かってる、分かってるよ、そんなこと」
「お前の意思はどこにある。お前はどうしたいのだ」
「苦しいのよ!!」

 馬超の腕の中で、は叫ぶ。

「事実を受け入れられるほど、わたしは強くなんかない! わたしはあなたたちのようになんてなれない、わたしは、わたしはもう、人にはなれな」
「それを言えば本当にそうなるぞ!」

 はびくりと口を閉じた。

「俺も、お前を殺した一人だ」

 馬超はぽつりと語り出す。

「俺は復讐で沢山の人間を殺した。俺は復讐することで一族の恨みが果たせると思っていた。お前を死なせてしまった恨みを、曹魏へぶつけた。だがそれは違っていた」

 それに気付かせてくれたのは、お前が生きていてくれたからだ。
 が唖然とする。

「俺の武は、大切な者を守るためのものだ。復讐のために強くなったわけではない。それを思い出させてくれたのは、お前が生きて、俺に会いに来てくれたからだ」

 再会したときは驚いた。
 本人は変なことばかりを口走っていたが、それでも生きて目の前にいてくれた。
 それのなんと、尊いことか。

「お前の主がそうなってしまったのは俺のせいなのだろう。そうしてお前は復讐の材料にされてしまった。それに俺は、お前を死んだものと扱っていた。お前を殺していたんだ」
「それはちがいます!」

 それは、わたしが弱かったから。
 わたしが暗示に打ち勝てなかったから。
 の声が震える。



 馬超がの名を呼ぶ。
 は否定するように、顔を横に振った。

、生きていてくれて感謝する。例えお前が何者でも構わない。俺はもうお前を二度と失いたくはない。お前のいない世界など考えられない」

 お前は、どうしたい。
 馬超が同じ言葉をもう一度、尋ねた。

「わたしも」

 の手が、馬超の背にすがる。

「わたしも、一緒にいたい。あなたの傍にいたい、離れたくない! 人間だとか天女だとかそんなことはもうどうだっていい、笑っていたい、色んなことをしたい、楽しくて仕方のなかったあの日々に戻りたい、あなたと毎日を過ごしていたい、ただ、ただ、あなたの傍にいたいの!」

 だから離さないでいて。

「もう離すものか」

 二人の視線は交わり、自然と唇を重ねた。

 いつの間にか空は白ずみ、夜は明けていた。
 もうすぐ朝が来るのだ。
 どんな夜でも、朝は来るのだ。

- continue -

2015-10-06