静かな夜だった。
見る度に形を変える月は白銀に輝き、漆黒を更に深い色へと沈めている。大きな屋根に遮られてか、いつになく空が狭く感じた。
虫たちは声を潜めながら、慎ましく鳴いている。
風が揺らす木の葉の音すら、妙なる楽のように思えてくる。
密やかに、そして着実に近づいてくる何か。彼らはそれを待ち焦がれているのだと思わずにはいられない。あるいは、そんな風に考えてしまう自分の方がおかしいのか。
「旦那様、子明様」
「おお、ここだ。ここにい――・・、」
朗らかに出迎えるはずだった顔を、思いっきりしかめた。
さらさらと衣擦れの音を立てて、銀の光を纏った女(ひと)が現れる。肌も髪も、そのまろやかな肢体を包む薄絹ですら、透き通るように儚い。匂い立つ誘いの香に、年甲斐もなく反応してしまうのは如何なものか。
いや、我が妻なればこそ何も問題はない。
心のどこかで嘯いては笑う声がする。本音であり、強がりである思いは奥底に追い込んで、呂蒙は肩に引っ掛けていただけの羽織をふわりと広げた。
「来い」
その一言で、叱られてしょんぼり顔の彼女はぱあっと輝く。
いそいそと傍へやってくるのを羽織りで包めば、今度はむくれた顔がこちらを睨んできた。無口ではないのに、こうして目線や態度で話そうとしてくるのは癖みたいなものだ。
そこにかの男の影を見て、呂蒙はますます渋面になる。
「子明様」
そっと頬に、たおやかな指が触れる。
この髭面がいいと言うから、軽く整えるだけで剃ったためしがない。柔い肌を傷つけかねない強(こわ)い毛を、愛おしげに撫でていく。夢見心地の眼差しに、彼女が本当に惚れ込んでいるのは、この髭なのではないか。
事あるごとに髭へ触れようとするのだから、そう思わずにはいられない。
伏せた睫が揺れて、艶やかな瞳がこちらを見た。
全体的に色素の薄い彼女の唯一、といってもいい強い色。軍人上がりの無骨な感性では表現しきれないが、あえて言うなら「紅」か。感情によって様々に風合いを変える紅を、純粋に美しいと思う。
肩から下へ、更には踝までかかっている銀糸もそうだ。
お前は美しい、と何度告げたか分からない。
他に言葉を知らないから仕方ない。丁奉の真似をして詩吟の一つも詠んでみれば、我が妻は喜んでくれるだろうか。あまりの拙さに笑ってくれるだろうが、それはそれで男としての矜持が傷つく。
「わたしは子明様を呼ばせていただけるのが、本当に嬉しいです」
「」
「旦那様とお呼びするのも、子明様とお呼びするのも、とても嬉しいのです。妻でなくても、あなたをそう呼ぶことはできますが・・・・こうして、子明様のお傍に侍ることができるのは妻だけだと信じていますから」
「そう、だな。ああ、その通りだ」
羽織に包まれた肢体を、ぐっと引き寄せる。
布の合間から零れる白は、見た目ほどに弱くはない。かすった程度なら赤くなるだけで、すぐに本来の色を取り戻す。浅い傷も、たちどころに治ってしまう。
髪や瞳の色だけでなく、そういった所も疎まれる一因となったのだろう。
忌み子として放置されていたを見つけてしまった日から、この存在を忘れたことなどない。まさか名実ともに己のものとしてしまうとは、当時は考えもしなかったが。
親子ほどの年の差だ。
どう頑張っても、呂蒙が先に逝くことになるだろう。軍師として戦に出向くため、屍も戻らない可能性だってある。その時はその時で、を引き取ってくれる男はいる。
だからこそ死ねない。
この愛おしくも美しい女を、誰かに渡したくはない。
溺れきっている自覚はあった。触れてしまえば最後、虜になる予感はしていたのだ。
「お前が嫦娥の娘だと言われたら、信じるかもしれん」
銀の水のような髪を掬い上げ、月の光に捧げる。
この手触りが心地よくて、ついつい頭を撫でていたのだろう。ひやりと冷たく、しっとりと濡れたようでいて、さらさらと指の間から零れていく。
子兎と呼ばれていた彼女は、今でも皆に可愛がられている。
可愛がるの意味が他と違うのは、呂蒙だけに許されたことだ。もう一人だけ、ちょっと違う方向に目覚めてしまった者もいるが――。
「わたしに月へ帰れと仰るのですか」
「痛い痛い、髭を引っ張るな!」
「それとも嫦娥のように嫉妬深い、と諌めておいでですか」
「・・・・ん?」
今、おかしなことを聞いたようだ。
「お前が嫉妬深いものか。陸遜を嫌っているのは、あれが妙にお前を構ってくるからであって」
「あの男が好きなのは、呂蒙様です」
「ばっ、馬鹿なことを言うな! そんな趣味はないっ」
「呂蒙様になくとも、あの男にあるかもしれないではないですか。わざとわたしに構ってみせては、呂蒙様の気を引こうとしているのです。わたしを妻にと望んでいたのも、必然的に呂蒙様が後見になってくれると知っているからです」
「よくもまあ、そこまで曲解できるな。陸遜が哀れに思えてきたぞ」
少年の頃から見目麗しかったが、成長してからますます人気が高い。
そんな男が独り身でいるのは、昔から一途に想っている相手がいるからだと専らの噂だ。あながち根拠のない噂でもなく、主君である孫権がそれとなく嫁探しをしているらしい。
さっさと良縁を結ばなければ、戦場で「うっかり」呂蒙を殺しかねないからだ。
幸いにして、陸遜は本当に呂蒙のことを敬愛している。もちろん、あやしい意味ではない。呂蒙もまた、陸遜とが夫婦になることも考えていた。結局は押し負けてしまったのだから、本気でそう思っていたかも自信がない。
仲睦まじさから「呂蒙の恋女房」と呼ばれているであるが、それこそ人目を憚らずに好き好き攻撃をして勝利を掴み取った経緯がある。
- continue -
2015-09-01