「伊織くんってこんなに人気あるのに、何で今も研究生のままなの?」
 行きつけのヘアサロンでずっと僕の髪をカットしてくれている店長の三崎さんが、僕にそう尋ねてきた。話をしながらも僕の伸びた髪を、ハサミで素早く梳いていく。確かな腕を持つこの人は、2人の子供を持つ父親だ。
「僕の目標は俳優だから、アイドルとしてプロデビューするつもりはないよ」
「え、アイドルの研究生なのに?」
「歌やダンスは誰にも負けてないから、そっちのほうで有名になれば俳優の仕事だって来やすいからね」
 実際、半年くらい前に端役だけど俳優の仕事を貰えたから、僕の考えは間違っていなかった。
 ここは都内の一等地にある、芸能人御用達の店だ。他と比べると料金は高めかもしれないけど、落ち着いた雰囲気の内装や、文句のつけどころがないスタッフの技術や対応が気に入ってずっと通っている。
 素人時代にカットモデルとして僕の写真がこのヘアサロンの広告に載った時、僕についての問い合わせが殺到して、それ以降すごい勢いでお客さんが増えたらしい。これって僕のおかげだよね?
 僕は寺尾プロダクションっていう大手芸能事務所に所属する、アイドルの研究生だ。事務所の方針で、この事務所に所属しているのはプロも研究生も全て、男だけ。
 研究生達が専用の劇場で歌やダンスを披露する公演の他にも、僕はテレビや雑誌のメディア仕事もたくさんしている。特に多いのは僕のルックスを充分に生かせる、雑誌の表紙やグラビアだ。もう写真集だって出てる。
 劇場公演しか仕事のない他の研究生とは違って忙しいから、学校との両立が結構大変だ。通っているのは芸能コースだから、出席日数が足りなくても各科目ごとのレポート提出で補える。
 僕以外の研究生達って、顔はそこそこ良くても何かが足りないんだよね。だからいつまでも公演とレッスンの繰り返しばかりで、知名度も人気もある僕ひとりが広告塔の役割をしてなきゃいけない。
 どこかインパクトのある新人が入ってくれば面白くなるのに。そう思っていた数日後に、あいつは突然僕の前に現れた。社長の寺尾さんが街でスカウトしてきたオーディション免除の特待生、別名「寺尾枠」として。


***


「今日から皆とレッスンを受ける、新しい仲間よ。仲良くしてあげてちょうだいね」
「水無瀬といいます、よろしくお願いします」
 僕達研究生がダンスレッスンを受けているスタジオで、口調も姿もオネエな寺尾さんから紹介された新人を見て僕は目を疑った。僕より4つ年上の19歳。不細工ではないけど、決してイケメンじゃない。つまり見た目はその辺にいるようないかにもド素人って感じの奴だった。これが? こいつが寺尾さんにスカウトされた寺尾枠の特待生?
 もしかすると歌やダンスは凄いのかと思ってレッスンの様子を見たら、どっちもまともな経験がないようで先生に散々しごかれ、常に怒られっぱなしだった。
 寺尾さんはこいつのどこを気に入ってスカウトしたんだか。立場が違いすぎて、今のところ僕の活動には影響ないからどうでもいいけど。そう思っていた僕が甘かった。
 劇場公演で披露する曲は、基本的に僕がセンターを務めている。それは当たり前のことで、誰も文句は言わないし、僕が言わせない。人気も実力も研究生の中では僕が1番だからだ。
 なのに公演曲の中の1曲を、あのド素人の水無瀬がセンターを任されることになった。レッスンの前にそれが発表された時、僕以外の皆も驚いて不満を持った。1曲だけとはいえ、そこは僕の場所だ。いくら運営スタッフが決めたことでも、黙ってはいられない。


***


「何でこの僕が、大してイケメンでもないお前にセンター奪われなきゃいけないんだよ」
 レッスンを終えて着替えた後、ロッカールームを出ようとした水無瀬の前に立ちふさがった僕は睨みをきかせながらそう言った。
 改めて見ると僕より背が高くて、顔は平凡だけど姿勢やスタイルは悪くない。あえて褒められる部分はそれだけだ。
「はあ? そんなの知るか。決めたお偉いさんに言えよ」
 水無瀬は下っ端の新人のくせに僕に対して気を遣うどころか、あからさまな敵意を向けてくる。今まで直接関わったことはないけど、おそらく僕への印象は最初の頃から悪かったみたいだ。まあそれはこっちも同じだけど。
「お前が現れなきゃ、ずっと僕があそこに居られたんだ! 身の程知らず! 辞退しろ!」
 今回の件で劇場公演では不動のセンターだった僕のプライドは傷付き、冷静さを失っていた。売り言葉に買い言葉ってやつで、水無瀬も僕に負けない勢いで畳みかけてくる。
「大してイケメンでもない新人の俺に、お前は負けたんだよ。悔しかったらセンター奪い返してみろ、きゃんきゃん吠えてるだけのクソガキ」
「言ったな! ただじゃおかないからな覚えてろ!」
 運営スタッフのゴリ推し水無瀬の図太さが分かったところで、僕は水無瀬を残してロッカールームを出た。
 皆同じようなタイプの研究生達とは違う、インパクトのある新人を求めていたのは確かに僕だ。でも予想以上にとんでもない奴が来てしまい、僕はすっかり調子を狂わされていた。


***


「俺の勘違いじゃなければ、水無瀬は嫌がらせを受けている」
「ふーん……」
「伊織、君は何か知ってるか?」
 レッスンスタジオのロビーの長椅子に腰掛けた藍川さんが、隣に座る僕に眉間に皺を寄せながら問いかけてきた。
 藍川さんは研究生最年長の23歳で、キャプテンとして皆をまとめている。とにかく情に厚いお人好しなので、センターの件で他の研究生からの反感を買い、レッスン中にねちっこい嫌がらせをされている水無瀬を放っておけないようだ。
「もしかして藍川さん、僕も水無瀬をいじめてると思ってんの?」
 面と向かって水無瀬に言いたいことは言ったけど、それ以外は何もしていない。遠回しな嫌がらせよりも、実力の差を見せつけてやるのが効果的だと思うからだ。
「いや、そうじゃない。少しでも有力な情報が欲しいんだ。俺の目が行き届かないところでも、水無瀬がそういう目に遭っているとしたら、何とかするべきだ。いつまでも悪い雰囲気のままではいけない」
 偽善とか安っぽい正義感じゃなく、純粋に水無瀬を助けてやりたい。言葉にしなくてもそんな想いが、藍川さんから強く伝わってくる。
 僕は皆から慕われて頼りにされているこの人が、正直ちょっと苦手だ。キャプテンとしては認めているし、僕ほどではないけど歌やダンスは上手いし人気もある。でも絵に描いたような善人の藍川さんの考えを聞いていると、自分が俗っぽい人間に思えてくるからだ。
「やっぱり皆を集めて、俺から言うしかないのか」
「何て言うつもり? 新人いじめはやめましょうって? 小学生相手じゃないんだからさあー、勘弁してよね」
「でもこのままじゃ水無瀬は潰されてしまう。せっかく加入したのに」
目を伏せて重いため息をつく藍川さんを見ていられなくて、僕は頭に浮かんだある計画を話した。


***


「今の俺達に欠けているのは、コミュニケーションだと思う。そこで今日はレッスンの前に、研究生同士で意見交換をする時間を取りたい。先輩後輩関係なく、お互いに言いたいことをぶつけ合ってほしい」
 翌日のレッスンスタジオで、藍川さんは研究生達を集めてそう言った。新人いじめはやめましょうではなく、皆が普段から思っていても言えないことを吐き出させるという形にしたのだ。
 さすがに急に言われても戸惑っているのか沈黙が流れる。こうなるだろうと思っていたので、最前列にいる僕が早速手を挙げる。
「はーい、せこい新人イジメをしてくるタマナシ野郎どもに、水無瀬くんが言いたいことがあるそうでーす」
 水無瀬がいる後列を振り返りながら僕が言うと、一斉にざわめきが起こった。嫌がらせの主犯である藤村を始め、数人が水無瀬に険しい顔を向けている。
 肝心の水無瀬は、僕のほうを引きつった顔で見たまま何も言わない。まさか自分がこの場で注目されるとは思わなかったか、明らかに動揺していた。
「何黙ってんだよ、キャプテンも今日は無礼講だって言ってたじゃん。色々されてかなり頭に来てんだろ、全部ここで吐き出しちゃえば」
「あの、確かに俺は入って間もない新人で、1曲とはいえ公演曲のセンターに選ばれるなんて信じられない気持ちでした。先輩方が納得いかずに怒るのも無理はないと思います。これから認めてもらえるように頑張りま……」
 いやいや、ここはそうじゃないだろ。話を聞きながら僕が呆れた直後、水無瀬の言葉を遮るように藤村が声を上げた。
「きれいごと並べてんじゃねーぞ、鏡の前にも出られない下手くその新人が!」
 藤村が言う「鏡」っていうのは、このレッスンスタジオにある鏡張りの壁のことだ。
 僕達研究生はダンスレッスンの時にその壁に向かって踊るんだけど、20人近くいる中で最前列で自分の姿を確認しながら踊れるのは、ダンスの先生に認められた実力者の数人だけだ。僕と藍川さんは当然このメンバーに含まれている。
「いいよな、寺尾枠で入ってきたゴリ推し野郎は。何の苦労もなく美味しいポジションもらって、俺達を従えてステージに立てるんだからな! それにお前、男の客とのハイタッチの時やたらテンション上がってるホモ野郎だってネットに書かれてんぜ」
 調子に乗って口が滑ったらしい藤村の言い方にとうとう頭に来たのか、立ち上がった水無瀬は藤村の前に来ると顔を近づけて迫る。
「男のファン大事にして何が悪い、それに鏡の前に行けねえのはお前も同じだろうが! ネチネチした嫌がらせしかできねえダッセエ野郎が!」
 僕はとっくに知っていたけど、水無瀬が皆の前では隠していた血の気の多さに藤村は一瞬言葉を失うものの、すぐに勢いを取り戻した。
「ああ!? てめー今何つった!」
「それに人前に出る仕事してりゃ、ネットで悪口書かれんのは覚悟の上なんだよ! 人が叩かれてんの見て喜んでる暇があったら、ゴリ推しされるように努力しろっての!」
 それまでの猫かぶり状態から一変した水無瀬が、藤村に向かって声を荒げた。更に掴み合いの喧嘩になりそうだったので、それまでは黙って成り行きを見守っていた藍川さんが止めた。
 この日以来、水無瀬に対する嫌がらせは減っていった。全てが藍川さんの前で明るみに出たことや、大人しいと思われていた水無瀬の激しい本性がバレたこと、色々あるだろうけどとりあえず嫌がらせの件は一段落というわけだ。後から藍川さんに、最初の僕の煽り方は酷過ぎたって注意されたけど。


***


 ずっと待ち望んでいた俳優仕事が入ってきて、僕はかなり浮かれていた。今度は映画出演で、半年前のドラマよりも出番が多い。そして僕にとっては初めてのキスシーンがある。
 出演者やスタッフ同士の顔合わせを終えて、今はリハーサル室で台本の読み合わせに入ったところだ。まだ相手の女の子とは椅子に座ったまま台詞を交わしただけで、絡むのはもう少し先だ。
 実際に唇を重ねるかどうかはまだ分からないけど、それに近いことはやるだろうと思う。問題は僕自身にプライベートでのキスの経験が全くないってこと。恋愛には全く興味がなくて、生まれて15年間ずっと彼女も作らなかった。
 キスってどんな感じなんだろう、こればかりは経験してみないと分からない。でも撮影でするのが初めてだったら、緊張しすぎて上手くできないかも。そんなのかっこ悪いし、俳優を目指す僕にとっては大きなチャンスだ。何としてでも成功させたいんだ。
 固い決意を胸に、僕は映画の仕事と同時進行しなきゃいけない次の公演に向けての自主練をするため、ジャージに着替えてレッスンスタジオの扉を開けた。するとそこには水無瀬が先に来ていて、鏡張りの壁に向かってひとりで踊っていた。CDプレイヤーから流れる、僕の代わりにセンターをやることになった曲に合わせて踊る。動きはまだ荒っぽいけど、振り付け自体はもう頭に入っているようだ。
 鏡に映る真剣な顔つき、飛び散る汗、床と擦れる靴の音。そんな水無瀬の姿を見ているうちに、不思議な気持ちになった。何故かゴリ推しされてるド素人だと思ってたのに、こんなに遅い時間までひとりで残って練習している。水無瀬なりに、他の研究生達に追いつこうと必死で頑張っているのかもしれない。
 この時ふいに思い出したのは、ロッカールームで水無瀬がTシャツを脱いだ時に見えた、きれいに割れた腹筋。やりすぎない程度にしっかりと筋肉がついていて、研究生になる前から身体を鍛えていたのが分かる。
 いつまでもドアの隙間から覗いているわけにもいかないので、僕は一呼吸置いてからドアを開けた。
 ちょうど休憩に入ったらしい水無瀬が、タオルで汗を拭きながらこちらを振り返る。視線が合うと、気まずい空気が流れた。僕達の関係は未だに険悪のままなのだ。
 僕は壁に背を預け、両腕を組んで水無瀬に声をかけた。そうやって少し前までの淡い気持ちを何とか振り払おうとする。
「水無瀬、キスしたことある?」
「はあ? 何言ってんだお前」
「真面目な質問なんだよ、ちゃんと答えてよ」
「じゃあちゃんと答えるぜ、何度もある」
「……ふーん、大してイケメンでもないくせに生意気な奴」
 何度もキスしてるんだ? 水無瀬から聞いた生々しい答えに僕は軽くショックを受けた。意外に遊び人なのか。
「僕さあ、今度映画に出るんだよね。主役ではないけど出番も多くて、キスシーンがあるんだって。でも僕は経験ないから、どんな感じなのか聞いてみようかと思ってさ」
「実際してみりゃ分かるだろ」
「だから相手がいないんだよ。それにしても僕が俳優志望だって知ってるならさ、そっちの仕事もっと持ってきてくれてばいいのに。ずっと歌やグラビアばっかりで、事務所の奴ら全然分かってないよ」
「全然分かってねえのはお前だよ、伊織」
 鞄から台本を取り出して軽くページをめくっていた僕に、水無瀬が固い声でそう言った。
「どういうことだよ」
「アイドルの研究生なんだろ、だったら事務所やファンに求められているのはアイドルとしてのお前なんだよ。俳優の仕事がしたかったら劇団や養成所に入れば良かったんだ、なのに勝手に遠回りしたお前が文句言える立場か」
 水無瀬の言ったことは、悔しいけど正論だった。確かに他に研究生は皆、アイドルになりたくて入ってきている。俳優の仕事を掴むためにアイドルという立場を踏み台にした僕とは違う。でもそれを改めて、面と向かって指摘されるとかなり痛い。
「うるさい! 何だよ偉そうに、この僕にお説教か!?」
「お前の演技観たけどよ、正直ものすごい下手くそで周りから浮いてたぜ。あんな演技晒しておいて、2度目のオファーがあること自体信じられねえ話だ」
 半年前に僕が端役で出演した、麻薬取締官が主役の連続ドラマのことだ。何がきっかけか分からないけど、水無瀬もあれを観たんだ。
 あのドラマ以降、半年間ずっと僕に俳優の仕事は来なくなった。水無瀬の言うとおり、僕以外の出演者はベテラン俳優ばかりだったから、アイドルの研究生でしかない僕が実力不足で浮くのは当然だった。
 ワンシーンだけの出番だったのにNGを何度も何度も出して、ようやく監督からOKが出た頃には僕は疲れ切っていた。体力には自信があったけど、慣れないドラマの撮影現場で精神的に追い詰められていたのだ。
「で、でも監督はあれでいいって」
「もう手の施しようがないって意味じゃねえの。それに俳優志望のお前がやりたくねえ歌やグラビアの仕事だって、1度でも経験してみたい研究生がどれだけいるのか考えてみろよ。公演以外の仕事してんの、研究生でお前だけなんだよな?」
 もうやめてほしい。そう思っている僕に、水無瀬は容赦なく厳しい言葉を浴びせてくる。さっきから震えが止まらなかった。僕はこんなに脆い人間じゃないはずだった。
「別に、やりたくないなんて言ってない……」
「言ってなくても、お前の話から滲み出てんだよ。そういうのが」
 僕に対してうんざりしているらしい水無瀬は、荷物を掴んでスタジオを出て行こうとする。僕の立ち位置を奪った大嫌いな奴なのに、散々なことを言われたのに、何故か僕は水無瀬を追いかけていた。
「っ……僕にとっては、これが最後のチャンスなんだよ! これでも自分の演技の出来くらい分かってる!」
 引き止めるように水無瀬の腕を強く掴んで、僕はそう叫んだ。水無瀬は振り払おうとせずに、黙って僕の様子を見ている。
「今回の映画で成功できなかったら、俳優はもう諦めろって言われたんだ。でも僕はバカにされても怒られても、やりたかったことを諦めたくない!」
 一気に言うと僕の目頭が熱くなっていた。泣きそうだと思った時、僕は壁に背中を押し付けられた。
「キスがどういう感じか、知りたいんだろ。教えてやるよ」
「え……」
「俳優やるなら、男同士のキスシーンってのもあるかもな。練習しとくか俺と」
 低い声で信じられないことを囁かれた後、水無瀬の手が僕の頬に触れて唇を奪われた。これが僕の初めてのキスだった。
 唇の隙間から潜り込んできた水無瀬の舌が、慣れた調子で僕の口内をじっくりと動きまわって、僕の舌に絡みついてくる。僕、男なんだけど……水無瀬はそういうの平気なのかな。素直に受け入れてしまっている僕も、かなりおかしいと思う。いや、おかしくなってるんだ。
 ぞくぞくするような快感が、僕の身体を駆け巡る。水無瀬の背中にしがみつかないと、もう立っていられない。
 舌の動きに応えながら両腕をその広い背中に伸ばそうとして、僕は我に返った。このままキスを続けていたら自分はどうなってしまうのか、それが怖かった。
「台詞、覚えなきゃ!」
 力の入らない手で水無瀬の肩を押し返すと、僕は逃げるようにスタジオを出た。ドラマの台本を置いてきてしまったけど、しばらくは戻れない。
 誰にも会いたくないからトイレの個室に駆けこんで鍵をかけると、水無瀬とのあのキスで股間が硬くなっていることに気付いた。僕は恥ずかしさで頭が混乱して、その場にうずくまった。




2→

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