「今回もし成功できなかったら俳優は諦めなさいって、アタシ言ったわよね?」
「……はい」
「アンタは歌やダンスは完璧だし顔もそれなりにいいんだから、これからは本格的にアイドルやっていきなさい。もう分かったでしょ、アンタに俳優は向いてないのよ」
 朝早く事務所に呼ばれた僕は、撮影が進んでいた映画の役を正式に降ろされたことを、社長の寺尾さんから告げられた。
 昨日は、いよいよクライマックスのキスシーンを撮影する日だった。台詞も動きも全て頭に入っていたから、ここを乗り越えれば上手く行ったも同然のはず……なのに、『もうあなたのことが信じられない、大嫌い』という台詞を相手役の女の子から言われた途端、僕は目の前が真っ暗になった。
 レッスンスタジオで、僕を拒んで大嫌いだと言った水無瀬を思い出してしまったんだ。大事な撮影中だからあの時のことは考えないようにしてきたはずが、まるで更に追いうちをかけられた気がした。
 僕はカメラの前でも自分以外の何者にもなれなかった。覚えたはずの台詞が口から出てこない、表情も作れないし動けない。棒立ち状態の僕に監督からの怒声が飛び、他のスタッフや共演者はざわつき、撮影現場の隅にいたマネージャーがこちらに駆け寄ってきた。
 この短い時間のうちに、頑張って積み上げてきたもの全てが崩れ去ったのだ。
 話が終わって事務所から出た僕は抜け殻になり、勝手に動く足がどこへ向かっているのか自分でも分からなかった。


***


 事務所が入っているビルの、屋上へと続く階段は周囲に人の気配がなく薄暗い。ひとりになるにはちょうどいい場所だった。降板の件はもうテレビでもネットでも流れていて、今は外に出る気にはなれなかった。皆が僕を責めて、バカにする。そんな想像が頭から離れない。
 本当なら今日も撮影が入っていたけど、降板になって急にスケジュールに穴が開いた。もちろん公演にも出ないから、夜までここにいても問題はない。
 階段に腰掛けてうずくまっていると、下のほうから誰かの足音が聞こえてきた。清掃の人かと思って顔を上げた僕は信じられないものを見た。水無瀬が、そこにいて僕を見上げている。何でここにいるの?
「……大嫌いな奴が落ちぶれたから、笑いに来たのかよ」
「そんなんじゃねえ、気になったんだよ。俺と会った時は普通に撮影に行ってたんだろ? あの後か、降ろされたのは」
「そうだよ、カメラの前で笑えなくなって、台詞も出てこなくて……演技が、できなくなった」
 水無瀬のせいだとは言わないし、思いたくなかった。今回のことは僕自身が俳優として未熟だったのが原因だ。撮影中はどんなことがあっても、役になりきらなきゃいけないんだから。それができなかった僕は、寺尾さんの言う通り俳優には向いてなかったのかもしれない。
「……歌やダンスを踏み台にして、名前を売ろうとしたからバチが当たったんだ」
「なに弱気なこと言ってんだよ、お前らしくねえ」
 そう言いながら水無瀬は階段を上ってきて、僕の隣に腰掛けた。まるで何事もなかったように。
「僕のことなんか何も知らないくせに! こんな姿、水無瀬には見られたくなかったのに……追いかけてくるなんてバカ、無神経」
「俺に見られたくない? 何で」
 囁き声にどきっとして、思わず顔を上げて水無瀬を見てしまった。こちらを見る水無瀬の顔は僕をバカにしにきたんじゃなくて、心配して探してくれたんだと分かる。大嫌いだって言ったくせに、わけがわからない。こんな弱い僕を、水無瀬に知られたくなかった。恥ずかしくなって慌てて目を逸らす。
「き、嫌いならほっといてくれよ! 僕はお前に嫌われてるんだろう!?」
「それ、そんなに気にしてたのか」
「当たり前じゃないか、僕は今までずっと誰にも、あんなこと言われなかったから……他の研究生の奴らだってそうだ、僕にむかついてるくせに何も言ってこない。どうせ陰で悪口言いまくってるんだ」
「ああ言わねえと、お前をめちゃくちゃにしそうだったから」
 ……今の言葉、本当に水無瀬が言ったの? 信じられなかったけど、ここには水無瀬と僕しかいないんだから当たり前だった。僕のこと大嫌いだって手を振り払ったのは、本心じゃなかったってこと? もしかして水無瀬も僕と同じ気持ちだった?
「しても良かったのに……」
「……お前、本気か」
 驚いた顔をする水無瀬に、僕は自分からキスをした。まだ慣れてないから唇を軽く重ねるのが精一杯だ。
 この時に僕は、水無瀬のことが好きだってはっきり自覚した。めちゃくちゃにしてほしいよ。


***


 ビルを出た後で向かったのは、水無瀬がひとりで住んでいるワンルームのアパートだった。
 ここに来るまでに通りすがりの人達が僕を見て何か言ってたけど、水無瀬がずっと手を握っていてくれたから怖くなかった。
 昼公演が終わったばかりの水無瀬は汗をかいていたから、一緒にシャワーを浴びた。やっぱり身体つきが男らしい水無瀬とは違って、僕はあまり筋肉がついていなくて細い。顔もよく女の子みたいだって言われる。
 シャワーを止めると、水無瀬は僕の下半身に手を伸ばした。まだ勃っていない性器を握られるのかと思ったけど、その手は僕の陰毛に触れる。
「あんまり生えていないんだな、薄い」
「何だよ、バカにしてんの?」
「いや、興奮する」
 ちょっと変態っぽいことを言うのが意外だった。今まで勝手に思っていた水無瀬のイメージとは違う。
 身体をタオルで拭いた僕達はベッドの上で膝立ちになって、水無瀬が導くままにお互いの性器を擦り合せた。こんなの初めてで、何だか変な気分だった。
 そのうち完全に勃起した2人の性器から先走りがあふれて、擦れるたびにくちくちと濡れた音が立つ。身体が密着させて唇を貪り合い、飲み込めなかった唾液が口の端から流れ落ちていく。それくらい濃厚で激しいキスだった。
 唇を離した水無瀬は熱い息を吐きながら僕の性器を握って、尿道口を指先で抉ってくる。
「な、に……やだ、それ……っ、あ……!」
「嫌なのに、こんなに濡らしてんのか」
「だめ、いっ、いっちゃう……」
「見ててやるから、いけよ」
「ひとりじゃ、やだっ、あ!」
 間もなく射精した僕は、水無瀬の下腹を精液で汚してしまった。追い詰められたとはいえ申し訳なくて、ティッシュで拭かなきゃと思ってるうちに、水無瀬に抱き締められてベッドに倒れ込んだ。
「気にすんなよ、いいから」
 怒るどころか水無瀬が見せた顔は優しくて、僕は胸が熱くなった。好きだって一言を飲み込みながら、水無瀬の背中に両腕を回してしがみつく。
 水無瀬は僕のことどう思ってるのかな。めちゃくちゃにしたいって言ってたけど……もしそれが恋愛感情じゃなくても、僕は構わなかった。あの階段でひとりきりのままだったら、今頃僕はまだ抜け殻で立ち直れずにいた。
 僕を気にした水無瀬が探しに来てくれた、それだけで救われた。
「抱き合うだけで、何でこんなに気持ちいいんだろ」
「人間の身体って、そういうふうに出来てるらしいぜ」
「そっか……そうかも」
 しばらくして水無瀬は身体を起こすと、僕の両足をそっと開いて後ろの穴に触れた。男同士でどうやってエッチするのか、何となくだけどそこを使うって分かっている。僕は緊張して身体を硬くしてしまう。
「最後までしても、いいのか」
「うん、いいよ……してほしい」
「……いや、お前に話しておきたいことがある。長くなるけど」
 急にそう言った水無瀬の話を聞くために、僕も起き上がって向かい側に座った。
「俺は高校を出た後、北海道からこっちに上京してきたんだ。親には芸能人になるためだって言ってきたけど、本当は違う」
 水無瀬はベッドから降りるとその下に入っていた箱の中から何かを取り出して、僕に手渡した。それはDVDのケースで、ジャケットは『濃厚雄汁まみれのド変態ゲイセックス10連発』という口には出しにくいタイトルと共に、全裸の逞しい男がお尻をこちらに突き出している写真。
「何人かいるタチ役に紛れてあんまり映ってねえけど、それが俺のデビュー作。研究生になる前、俺はゲイビデオの男優やってたんだよ。東京に出てきたのも、それが目的だった。でも早漏の上にフェラは下手だし、この先売れる見込みもないってことでいきなりクビになった」
 それを聞いた僕は確かにびっくりしたけど、心の片隅では「ああ、やっぱり」と納得していた。
 色々と心当たりはある。前に地元のテレビ局が僕達研究生を取材しに来た時、皆が緊張している中で新人の水無瀬は平然とインタビューに答えて、ステージでは普段通りに歌とダンスを披露した。僕から見ても、水無瀬は明らかにカメラに撮られることには慣れている様子だった。
 それにゲイビデオの男優なら裸を晒すのは当然だから、無駄な贅肉なんかついてなくて、腹筋もきれいに割れている。普段から身体を鍛えていた証拠だ。
 そしてためらいなく、男の僕に深いキスをした。これらを全部繋げれば想像できてしまう。
「クビになった日に、街で寺尾さんに声をかけられてアイドルの研究生になった。最初はとにかく生活費を稼ぐためにやってたけど、そのうち本気で取り組むようになっていた」
「……僕のポジションを2日で覚えなきゃいけなかった時は、もう本気になってたの?」
「本気だった。ある人に言われたんだ、『アイドルやるなら、トップ目指せよ』って。だからお前の代わりを頼まれた時、これはいいきっかけだと思った」
「誰に言われたの?」
「俺のセフレだった、6つ年上の人。もちろん男だよ、今はもう別れたけど」
 ゲイビデオの男優という過去に加えて、大人のセフレまでいた水無瀬。顔は平凡だけど、経歴は強烈だ。
「どうして別れたかって、聞いてもいい?」
「寺尾さんは俺がゲイで、そっちの男優だったことも全部知った上で俺を誘ったけど、もしそれが世間にバレたらクビにするってさ。だからセフレだったあの人は、俺に気を遣って身を引いたんだよ」
 水無瀬の声が震えて、急に目が潤んだ。恋人じゃなくてセフレって言ってるけど、水無瀬はもしかしてその人のこと、好きだったのかな。そうじゃなきゃこんなに悲しそうな顔はしないはずだ。
 どういうつもりなのか知らないけど寺尾さんも、自分からスカウトしたくせにゲイがばれたら解雇だなんて身勝手すぎるよ。
「俺はあの人と別れてから、歌とダンスの練習で気を紛らわせて、あとは自分で抜いて処理しながら過ごした。別れたからって違う相手とセックスしたら、あの人の気遣いを無駄にすることになる。だからお前が身体くっつけてきた時は……やばかった」
「あっ……」
 エッチする相手がいなくなって我慢していた水無瀬に、僕が何も知らずに迫ってしまった。あの時の水無瀬はもう限界だったんだ。だから僕を嫌いだって言って、突き放した。
「俺は最低だよ。落ち込んでるお前を放っておけなくて、何とか楽にしてやりたいからだって自分に言い訳しながら、本当は我慢できなくてセックスしたいだけだった」
「そんなことないよ!」
 僕がそう叫ぶと、暗い顔で俯いていた水無瀬が驚いてこっちを見た。
「水無瀬が僕を気にしてくれて、こうやって家に連れてきてくれて、僕は嬉しかった。自信なくしてもうだめだって思ってたけど、救われたんだよ。あのまま最後までいっても僕は水無瀬を恨まなかったけど、その前に自分のことを僕に知ってほしくて、色々話してくれたんだよね?」
「……伊織」
「そんなに自分を責めないで。水無瀬は最低な奴なんかじゃないよ」
 僕達は結局この日は最後まですることなく、僕は家に帰った。本当はしたかったけど……水無瀬を大切に想ってくれた元セフレの人や、水無瀬自身の決意を無駄にしてしまう。そんなことはできない。
 エッチなことができなくたってやっぱり僕は、水無瀬が好きだよ。


***


 数日後に全国で発売された週刊誌は、寺尾プロダクションやその研究生達、そしてファンに大きな衝撃を与えた。
『あの有名事務所のアイドル研究生に衝撃過去!』という見出しの記事に載っている何枚かの白黒写真には、目の部分に黒線が入った全裸の男が写っていて、ベッドの上で男相手に後ろから挿入したり、股間に顔を埋めて性器を舐めていた。
 名前は伏せられているけど、僕達関係者から見ればその男が水無瀬だということは明らかだった。
 もちろんマスコミにリークしたのは僕じゃない。誰かは分からないけど、記事の内容を読んだ限りでは過去の水無瀬をよく知っている人物だと思う。男優時代の事務所とか、ゲイビデオの撮影スタッフとか。
「あの記事の写真、やっぱり水無瀬だよな」
「今、寺尾さんに呼ばれて事務所行ってるって」
「加入前とはいえ、あれはやばいだろ……男同士でセックスとか、きもすぎ」
 レッスン前にスタジオに集まっていた研究生達が、そんな噂話をずっとしている。こいつら、水無瀬のこと何も知らないくせに。
 そんな時、少し遅れて藍川さんがスタジオに入ってきた。普段は穏やかな藍川さんが珍しく険しい顔をしていて、それを見た研究生達が驚いて一斉に噂話をやめた。
「明日の夜に行う俺の卒業公演、水無瀬のポジションに小林が入る。例の記事の件で、寺尾さんの指示があるまで謹慎になるそうだ」
 静まり返る中で、藍川さんは皆に向かって更に話を続ける。
「例えどんな過去があっても、水無瀬は大切な仲間だという事実は変わらない。俺はキャプテンとして、水無瀬を何とかしてやりたいと思う。絶対に、このままにはしない」
「何か、いい考えがあるんですか」
 沈黙していた研究生の中で、藤村が藍川さんに問いかける。藤村は最初に水無瀬に嫌がらせをしていたグループの主犯だったけど、僕のポジションの振り付け10曲を全部覚えてリハーサルに来た水無瀬を見直したらしく、最近では普通に会話をしていた。
「あることはあるが、寺尾さんの許可を貰わないといけない」
 そう言う藍川さんの不安そうな表情からして、許可を貰える可能性は低いんだろう。
 こんな状況の中でも僕は、藍川さんと水無瀬って似ていると思った。どんな相手でも、窮地に立たされていたらとにかく放っておけないってところが。




4→

back