あれから、誰かが呼んでくれた救急車に乗せられた寺尾は数分後に突然目を覚まし、付添で同乗していた俺にガバッと抱きついてきた。少し前まで車道に倒れて、動けなかったのが嘘のようだ。
「アタシはまだまだ死ねないわ、やることがたくさんあるもの! アンタはアタシが見つけたダイヤの原石なのよ、誰にも渡さないわ!」
 俺達以外にも救急隊員が乗っている中でこの熱い告白。車内が何とも言えない生温い空気になり、俺はひとりでいたたまれない気分だった。
 病院での検査の結果、寺尾は大きな怪我もなく無事だったが、車に衝突した時に腰を痛めたので数日間入院することになった。
 そもそも事故に遭った原因は、俺が贈ったストールが風に飛ばされてそれを追っているうちに車道に出てしまったという。命に関わる状態にはならなかったとはいえ、帰り道にそれを思い出しながら俺は密かに泣いた。


***


 研究生が公演を行う専用劇場のロビーでは、設置されたモニターの画面で公演の様子をリアルタイムで観ることができる。
 今日の公演は伊織が出るためか、抽選に漏れてしまった女性ファンがロビーでモニター越しに声援を送っていた。
 その様子をロビーの隅で眺めていた俺の隣に、誰かが来て立ち止まった。
「やあ、どうも。久し振り」
 スーツを着た小太りのおっさんが、右手を軽く上げて俺に声をかける。
 約1ヶ月振りに再会したこの人物は、公演曲の全てを手掛けている夏本タダシというプロデューサーだ。決して俺のセフレではない。
 スカウトされた数日後に訪れた事務所で夏本と初めて顔を合わせ、そのまま面接を受けた。普通なら研究生になるためには歌やダンスを含めたオーディションを受けるのだが、俺の場合はそれは免除された。
 寺尾に直接声をかけられた場合のみ「最終面接」として履歴書の提出と、夏本との顔合わせを終えれば合格となるのだ。これには前例があり、俺を含めて3人目らしい。前の2人は今、研究生の活動を終えてソロの歌手としてメジャーデビューしている。しかも大きなライブ会場を満員にするほどの人気ぶりだ。
 夏本はモニターに映っている伊織を無言で見つめた後、
「水無瀬くん、伊織をどう思う? 正直な感想を聞かせてほしい」
「伊織? 生意気で口は悪いけど、歌やダンスは凄いと思います。まだ研究生やってんのが不思議なくらいに」
 劇場公演しか仕事のない研究生にしては珍しく、テレビや雑誌にもよく出ている。そっちの仕事のほうが忙しく、伊織が公演に出ること自体がレアな状態だ。
「伊織はね、俳優志望なんだよ」
「俳優!?」
「オーディションの時も、『歌とダンスは自信があるので、あとはこちらの研究生として知名度を上げて、俳優の仕事に繋げたい』と言い切ってたね」
 てっきりトップアイドルを目指しているのかと思っていたので、まさかの事実に心底驚いた。俺はあいつの演技を1度も見たことがない。
「みんなアイドル目指して来る子ばかりだから、伊織みたいなケースは初めてだったよ。でも僕は、ああいう飛び抜けた野心を持っている子は他の研究生へのいい刺激になると思ったんだ」
 でもそれならアイドルの研究生になるよりも、俳優の養成所に行ったほうが良かったんじゃないのか。
 そんな俺の疑問を感じ取ったのか、夏本は更に続けた。
「伊織は俳優志望としてゼロの状態から登っていくよりも、得意な分野で目立って知名度を上げたほうが効率がいいと考えたんだろうね。有名になれば、色々な仕事も来やすくなるし」
「夏本さんは、あいつの演技って見たことあります?」
「うん、まあ、うーん……事務所に行けば伊織が出たドラマのDVDがあるから、君の目で確かめてみるといいよ」
 それまでは饒舌だった夏本が急に口ごもったのが気になるが、とりあえず後で事務所に寄ることにした。


***


 家に帰ってから早速DVDを再生して、俺は開いた口が塞がらなくなった。
 伊織が出ていたのは連続ドラマのワンシーンだけだったが、短い台詞すら棒読みで酷い演技だった。出番は少ないのに悪目立ちしている。公演の時の圧倒的なパフォーマンスからは想像できない。
 アイドルを目指すならすぐにでも研究生の活動を終えてデビューさせてもいい、と夏本は言っていた。しかし伊織本人は俳優志望の意思を頑なに曲げないので、今も研究生のままだ。
 俺の感想としては、あの演技力だと次の俳優仕事に繋げるのは難しいと思う。半年以上前に放送されたらしい、さっきのドラマ以外に出演作品がひとつもないというのが、それを証明している。
 伊織の出番は全て終わったようなので、次はお気に入りのゲイDVDでも観て寝るか。


***


 いつもダンスのレッスンが行われるスタジオには今、自分以外は誰もいない。鏡張りの壁に向かって1時間踊り続けた後、タオルで汗を拭きながら床に座り込んだ。
 研究生が全員集まったレッスンの時、この鏡の前で踊れるメンバーは限られている。常に最前列ド真ん中のポジションにいる伊織を含め、振り付けの先生にダンスの実力を認められた数人だけ。
 研究生の中にも「序列」は確かに存在している。俺はまだ、鏡から離れた後列でレッスンを受けていた。当然ながら他の研究生の背中に隠れて、自分の姿は鏡に映らない。
 最初は生活費目当てで飛び込んだこの世界で、いつの間にか心から熱意を持って取り組んでいる自分がいる。
 寺尾が言っていた通り、アイドルとして光り輝く日がいつかは俺にも……。
 やがてドアが開き、レッスン用のジャージを着た伊織が入ってくる。嫌いな奴と行動パターンが重なるこの不思議な現象、どうなっているのか誰か説明してほしい。
 伊織は壁に背を預け、偉そうに腕組みをしながら俺に問いかけてきた。
「水無瀬、キスしたことある?」
「はあ? 何言ってんだお前」
「真面目な質問なんだよ、ちゃんと答えろよ」
「じゃあちゃんと答えるぜ、何度もある」
「……ふーん、大してイケメンでもないくせに生意気な奴」
 予想していた答えと違っていたのか、伊織は急に不満そうな顔をする。無視して再び練習を始めようとしたが、
「僕さあ、今度映画に出るんだよね。主役ではないけど出番も多くて、キスシーンがあるんだって。でも僕は経験ないから、どんな感じなのか聞いてみようかと思ってさ」
「実際してみりゃ分かるだろ」
「だから相手がいないんだよ、まさかファンの子に手を出すわけにはいかないしね」
 中身はともかく、顔はそれなりに整っているこいつなら選び放題だと思っていたので意外だった。
「それにしても僕が俳優志望だって知ってるならさ、そっちの仕事もっと持ってきてくれてばいいのに。ずっと歌やグラビアばっかりで、事務所の奴ら全然分かってないよ」
「全然分かってねえのはお前だよ、伊織」
 鞄から取り出した台本らしきものを流し読みしていた伊織は、俺の言葉に顔を上げた。
「どういうことだよ」
「アイドルの研究生なんだろ、だったら事務所やファンに求められているのはアイドルとしてのお前なんだよ。俳優の仕事がしたかったら劇団や養成所に入れば良かったんだ、なのに勝手に遠回りしたお前が文句言える立場か」
「うるさい! 何だよ偉そうに、この僕にお説教か!?」
「お前の演技観たけどよ、正直ものすごい下手くそで周りから浮いてたぜ。あんな演技晒しておいて、2度目のオファーがあること自体信じられねえ話だ」
 今まで積み重なってきた伊織への苛立ちが限界を超えていたのか、俺は抑えていた本音を口に出した。
 すると思ったより酷い言葉が出てきて、伊織は怒るどころか青ざめて涙目になった。
「で、でも監督はあれでいいって」
「もう手の施しようがないって意味じゃねえの。それに俳優志望のお前がやりたくねえ歌やグラビアの仕事だって、1度でも経験してみたい研究生がどれだけいるのか考えてみろよ。公演以外の外仕事してんの、研究生でお前だけなんだろ」
 前から新聞の番組欄に『話題の研究生がバラードを熱唱!』だの、『あのスーパー研究生がダンスを披露!』などと書かれていたのは、全て伊織のことだった。寺尾にスカウトされるまで俺はアイドルに興味がなく、伊織の存在すら知らなかった。
「別に、やりたくないなんて言ってない……」
「言ってなくても、お前の話から滲み出てんだよ。そういうのが」
 練習の続きをする気も失せて、俺は立ち上がると荷物を持って出入り口のドアを開ける。少なくとも俺は、伊織を理解してやるのは不可能だと分かった。元々気も合わなかったし、こうなる予感はあったのだ。
「っ……僕にとっては、これが最後のチャンスなんだよ! これでも自分の演技の出来くらい分かってる!」
 振り返ると伊織が追いかけてきて、俺を引き止めるように腕を掴んだ。細い見た目からは想像できないほどの強い力で。
「今回の映画で成功できなかったら、俳優はもう諦めろって言われたんだ。でも僕はバカにされても怒られても、やりたかったことを諦めたくない!」
 その瞬間、俺の脳裏に過去の出来事がよみがえった。ゲイ男優をクビになった時の、あの絶望と屈辱。
『お前この仕事向いてないよ、早漏だし下手くそだし。絡んだやつみんなお前が相手じゃイケねーってさ。使い物にならないから今日で契約は終わりね』
 事務所の人間が俺に言い放った言葉が今でも忘れられずに、頭の隅に引っかかったままだ。あの仕事を続けたくても許されなかった。俺も諦めなければ良かったのか?
 何もかも分からない、もう考えたくない。俺は伊織の背中を壁に押し付けて、顔を近づける。
「キスがどういう感じか、知りたいんだろ。教えてやるよ」
「え……」
「俳優やるなら、男同士のキスシーンってのもあるかもな。練習しとくか俺と」
 多分そっちの性癖はない伊織に嫌がられるのを分かっていながらも、俺は伊織の耳に唇を寄せて囁いた。めちゃくちゃなことをして、あの出来事を忘れたい。
 少し様子を見ても抵抗しないので、伊織の頬に触れて唇を奪う。こいつにとってのファーストキスだろうが、この際どうでもいい。
 伊織は女みたいな顔をしているので、直前で微妙な気分になったが。 薄く開いた唇の隙間から舌を滑り込ませると、あっけなく迎え入れられた。強引に舌先を絡ませ、湿った音を立てながら伊織を追い詰めていく。
「ふ、あ……っ」
 甘い声の混じった息が、伊織の唇から漏れる。潤んだ目と視線が重なった途端、伊織は我に返ったように俺の肩を押して離れた。
「台詞、覚えなきゃ!」
 そう言って慌てたように出て行った伊織だが、俺の足元にはまさに台詞を覚えるために必要な台本が落ちていた。めくってみるといくつかのページに付箋が貼られていて、そこの伊織の台詞らしき部分が蛍光マーカーで塗られている。
 今更追いかけてもどこへ行ったのか分からないので、戻ってくるのを待つしかないのか。
 ようやく冷静になった俺は、ため息をつくとジャージの袖で唇を拭った。




4→

back