電話を受けたその日から俺は研究生全体の通常レッスンに加えて、スタジオが空く時は鏡張りの壁に向かってセンターの振り付けを練習した。
 先生がついて教えてくれるのはレッスンの時間だけなので、自主練の時は伊織がセンターを務めている日の公演DVDを観て、動きを頭と身体に叩きこんでいく。
 改めて公演中の伊織を見ていると、周りで踊っている研究生達とは存在感が全く違う。長い時間踊り続けても疲れを見せない、鋭くキレのあるダンス。そして半端ない声量。
 ここの研究生になる前は、どこかのダンススクールにでも通っていたのだろうか。高校を出た後は歌にもダンスにも無縁の仕事をしていた俺とはレベルが違いすぎる。
 それでも立ち止まってはいられない。とにかく振り付けを覚えなくては、ステージでのリハーサルにも入れないのだ。伊織の代わりにセンターに立つ俺が下手な動きをすれば、公演全体が壊れてしまう。
 4曲続けて踊った後、急に疲れが出て俺は床に座り込んだ。
 持ってきたタオルはすでに大量の汗を吸いこんでいる。濡れたTシャツが肌にはりついていて気持ち悪い。
「頑張るのもいいが、少し休めよ」
 背後から声がかけられ、振り向くとキャプテンの藍川がいた。俺のそばに来て、スポーツドリンクのペットボトルをこちらに差し出す。
「調子はどうだ」
「振り付けを覚えるのも大変ですけど、それ以上に伊織のダンスが凄すぎて……とても追いつけないです」
 受け取った冷たいペットボトルを額に当てながら、俺は深く息をついた。
 藍川は俺の隣に腰を下ろし、流しっぱなしだったDVDの映像を眺める。今流れているのは藍川が参加している、少人数のユニット曲の映像だ。
「確かに伊織のダンスは圧倒的だ、技術もスタミナも研究生の中では飛び抜けている。だが、欠けているものがある」
「何がですか?」
「自分が常に1番であろうとする、それゆえの協調性」
 確かに伊織が、研究生の誰かと親しく話しているのを見たことがない。藍川には自分から話しかけているようだが、それ以外は大抵ひとりだ。
 更に覚えが悪い研究生に対しては容赦なく、藍川やダンスの先生の前でも構わずきつい言葉で責める。皆は伊織の人気や実力を分かっているためか、強く反論できないようだ。
 しかし伊織がいない時に陰で愚痴っているのを何度も見かけた。直接の衝突はなくても、決して良い関係とは言えない。
 藍川がいなくなったら、誰が伊織や他の研究生をまとめるのか想像できない。そんな大役、一体誰が引き継ぐのだろう。
「水無瀬は、伊織と仲がいいのか」
「っ、はっ!? 何でですか!」
「最近あいつから、君の話をよく聞くんだ。気にしているんじゃないかな」
 仲が良いどころか、キスまでしている。でもそれは別に好きとかそういう意味じゃなくて、あいつが演技に必要だとか言って強引に迫ってきたのだ。
 あんなところを見られたら、俺を気遣ってくれた矢野との別れが無意味なものになってしまう。もう二度とやりたくない。
「伊織と同じように踊ろうとしなくていい、君のやり方で表現すればいいんだ」
 立ち上がった藍川は、次に流れた公演曲に合わせて踊り始めた。それはセンターの振り付けだったが、見ているうちに伊織とは雰囲気が違うことに気付いた。しなやかで美しい、表情まで色気のある動き。藍川もレッスン中に鏡の前に行ける、数少ないメンバーだ。
 何かあればいつでも相談に乗ると言い残して、藍川はスタジオを出て行った。
 伊織とは違う、俺のやり方。練習しているうちにそれが掴めるのか。スポーツドリンクを半分ほど一気に飲み、俺は自主練を再開した。


***


「お前、もしかしてここで寝てたの?」
 聞こえてきた物音と、呆れたような声で目が覚めた。
 窓の外はいつの間にか明るくなっている。俺は結局家に帰らず一晩中このスタジオで練習をして、少し休憩を挟んだ最中に眠ってしまったようだ。
 シャワーも浴びていないので、身体中が汗でべたついている。
 声の主は伊織で、映画の撮影の合間にここを訪れたらしい。顔を見たのが何だか久し振りに感じた。
「どっかの誰かが出られなくなった公演で、センターやるために練習してたんだよ」
「そうみたいだね。ま、その誰かはお前と違って忙しいから仕方ないよね」
「……ほんっと、憎たらしい奴。まじで」
 一旦家に帰って汗を流したい。それからまた、明日に向けての練習だ。振り付け自体は何となく覚えた程度なので、後で会うダンスの先生にもアドバイスを貰おう。
 俺をじっと見ている伊織の視線が妙に気になって、それを振り切るように背を向ける。
「お前目当てで来るはずだった客が来なくなったり、公演でミスったら野次が飛ぶかもしれねえ。でも俺はそれよりも、お前に軽蔑されるようなパフォーマンスを晒すほうが怖いんだ」
 伊織に比べたら、今の俺は未熟でどうしようもない。だから明日の夜公演ぎりぎりまで足掻いて、ステージの上で全力を出し切るしかないのだ。
 急に身体が重くなった。何かと思えば、後ろにいた伊織が俺の背中にしがみついている。ちょっとよく理解できない状況に俺の頭が混乱した。ますます疲れさせやがって。
「ああ、汗くさい……朝から最悪」
「自分からくっついてきたくせに、なに文句たれてんだ。離せよ」
「前から思ってたけど水無瀬って、他の奴らと何か違う。普通はさ、男とキスするなんていくら脅されても嫌なものなのに、あんな激しいのするし……」
「俺はそんな、特別な人間なんかじゃねえよ」
 背中にしがみついていた伊織の両手が前に伸びてきて、俺の胸元に触れる。
 矢野と別れて以来、俺は他の男とセックスはしていない。ひたすら踊ることで発散して忘れていたが、決まった相手がいなくなった今、俺の性欲を満たす方法は自慰しかなかった。
 女の子相手だと全く勃たない俺は、ノーマルな恋愛はできないのだ。
 そんな切羽詰まった状況で、むかつく相手とはいえ男の伊織に密着された上に身体を探られ、冷静でいられるわけがない。できるだけ感情を出さないように喋るだけでも精一杯だ。
「水無瀬とのキスを思い出すたびに、身体が疼いて止まらないんだよ。何とかしてよ」
「何とかって、俺にどうしろってんだ」
「キスだけじゃ嫌だ……お前が知ってるもっとすごいの、してよ」
 最後の3文字を耳元で囁かれた途端に、限界が来た。疼いた身体をひとりで慰める伊織を想像してしまい、おかしくなりそうだった。今ここでこいつを犯して、中出ししてやったらどんな顔するだろうか。でもそんなことは出来ないと、頭の中では分かっている。
 俺はしがみついている腕を振り払い、強引に立ち上がって伊織を睨んだ。
「いつまでも調子に乗ってんじゃねえ、俺はお前なんか大嫌いなんだよ! 触るな!」
 伊織の反応を待たずに荷物を掴み、足早にレッスンスタジオを出る。
 背を向ける直前に見てしまった伊織の泣きそうな顔が、いつまでも消えずに俺の胸に残っていた。


***


「水無瀬、サビ前のターン遅れてるぞ!」
「すみません!」
「立ち位置もっと前に出ないと、隣の小林にマイクが当たるんだよ! ちゃんと確認しろ!」
「はい!」
 ステージでのリハーサルに入り、俺は他の出演メンバーと合流したものの、やっぱりひとりで練習していた時とは違う。振り付けを覚えても、周りとの絡みが上手くいかないと公演は成り立たない。
 俺は客席から見ているダンスの先生に怒られっぱなしで、そのたびにリハーサルが中断してしまう。今日の夜には本番が始まるのに、このままじゃまずい。
「なあ、お前まじでセンターの振り付け2日で覚えたのか」
 後ろのポジションにいるメンバーが、小声で俺に話しかけてきた。以前、1曲だけのセンターが決まった時に嫌がらせをしてきた先輩研究生だ。
「振りは覚えました、後はみんなと上手く合わせるだけです」
「やっぱすげえよ……最初はむかついたけど、お前が推されるの当然だわ」
 過去に色々あった因縁の相手だが、少しは認められた気がして嬉しかった。
 リハーサルが再開した時、ダンスの先生のそばにいた寺尾が携帯で誰かと話しながら、慌ててどこかへ走って行く。それを見て、俺は何故か胸騒ぎがした。




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