ホテルのロビーにあるソファに座っていると、やがて向こうからスーツ姿の夏本さんが近づいてきた。小太りで、歩き方も妙にのんびりしているので、遠くから見てもすぐに分かる。 ここは夏本さんが詞を書く時によく利用するホテルだ。余計なものが置かれていないので、気が散ることなく作詞に集中できるらしい。 「お待たせ伊織、今日の件かな?」 「はい、なるべく早く夏本さんにお伝えしようと思いまして」 今日のレッスン中に現れた夏本さんが僕達に質問した、アイドルを強くするものの答えを。 実はあの時すでに僕の中で答えは出ていたけど、他の奴らには聞かせたくなかったから黙っていた。 夏本さんはそういう僕の性格を知っているから、あえて指名しなかったんだと思う。 ファンからの応援だの自信だの、挙句の果てには仲間との絆だの……よくもまあみんな揃って、あれだけ的外れな答えが出てきたものだと、ある意味感心しちゃうね。だからいつまでも公演以外の外仕事が来ないんだよ。 「それじゃ、聞かせてもらおうか。期待してるよ」 向かいのソファに腰掛けた夏本さんが、僕をじっと見つめる。 「……挫折です」 僕の答えに夏本さんが何も言わないままなので、更に続けた。 「心が折れるような辛い経験をして、苦しまないと強くなんかなれません」 「そう、アイドルを強くするものは挫折という泥の味……その中でもがき苦しんだ時間が長いほど、強い力を手に入れる。そして再び浮かび上がるための大きなバネになるんだ」 僕自身、何もないところからこの答えが出たわけじゃない。アイドルの研究生としてずっとトップを走り続けてきた僕が、初めて味わった挫折。それは俳優志望として最後のチャンスだと言われていた、映画の役を降ろされたことだ。理由は誰にも言ってないし今更言うつもりもないけど、カメラの前で突然演技ができなくなった。頭に入っているはずの台詞が全て飛んで、表情すら作れずに立ち突くした瞬間の絶望感。 あの出来事があったからこそ、今の僕がここにいる。それまでは知らなかった自分の弱さと向き合って、昔よりも成長できたと思う。 「その答えにたどり着いた君に、これを贈るよ」 夏本さんはスーツの内ポケットから何かを取り出し、僕に差し出してきた。透明なケースに入った古いカセットテープだ。僕に作ってくれたソロ曲という感じでもないし、ラベルには何も書かれていなかった。 「氷月薫、知ってるよね?」 「……ひづき、かおる」 その名前を呟いた僕の頭に、ある人物が浮かんだ。もちろん知っている。僕が生まれるずっと昔にデビューした、悲劇のアイドルだ。彼は容姿にも才能にも恵まれていたけど、周囲の大人達に利用された末に裏切られ、芸能界から姿を消したという。 かなりマイナーな存在だったみたいで、当時の彼についての情報は、いくら調べてもこれ以上は出て来なかったのだ。 「このテープに入っているのは、氷月薫が作詞作曲の全てを手掛けた未発表の曲だ。これを聴いて、何かを感じ取ることができたら、彼を救ってほしい。伊織」 「僕が、ですか」 「氷月の、芸能界への復讐はとっくに果たされている。後は魂の根っこの部分を癒すだけ。16歳だった氷月が作り上げたこの曲でね」 古いラジカセを使って再生したテープから流れてきたのは、世の中に根付いた理不尽や差別、そして心の叫びを歌詞に押し込めた悲しい曲だった。当時の氷月自身が抱いていた気持ちを、そのまま曲にしたんだと思う。 16歳のアイドルが歌うにはあまりにも重すぎる。未発表ということは、これを披露する機会はとっくに奪われていた。お蔵入りってやつだ。 録音されてから長い年月が経っているせいか、音質はあまり良くない。それでも氷月の痛々しいほど感情のこもった歌声は、僕の心にまっすぐ突き刺さった。 彼も、夏本さんが言っていた泥の味を充分すぎるほど知っている。僕とは比べ物にならないほど苦しんで、這い回り続けた。 次の日、事務所に行った僕は寺尾さんに例のテープに入った曲を聴いてもらった。イントロが流れ始めた途端に現れた眉間の皺が深くなり、明らかに寺尾さんはこの曲に強い反応を示している。 「アンタ、このテープどうしたの」 「昨日、夏本さんからいただきました」 「はあ……やっぱりアンタが選ばれたのね。こうなる予感はしてたわよ」 ここで僕は、このテープが寺尾さんから夏本さんに託されたものだと知った。中に入っている曲を歌いこなせる器量を持つ誰かが現れたら、寺尾さんの名前は伏せてその人に贈ってほしいと。でも残念ながら、全てを知っている僕には伏せた意味はなかった。 レッスンスタジオでのあの質問は、研究生の中からふさわしい人物を探すためだったのかもしれない。そして最後は僕の手に渡った。 曲が終わったのでラジカセの停止ボタンを押してテープを止めると、僕は昨日から考えていた計画を口に出す。 「そういうわけでこの曲、僕が次に出る公演のアンコールで歌わせてもらえますか」 「本気で言ってるの?」 「はい、本気です。寺尾さんにも聴いてもらって、もし納得できなければ途中で幕を閉じても構いません」 「……分かったわよ、アンタがちょっとでもしょぼい歌い方したら、すぐに止めさせるからね」 長い間、世に出ることのなかった渾身の1曲。それを来週の公演で僕が現代に蘇らせる。 悲劇のアイドル・氷月薫は、この数十年で名前と姿を変えて、大手芸能事務所社長・寺尾松子として今を生きている。 有能なアイドルを育てて次々と送り込み、芸能界を裏から支配することが寺尾さんにとっての復讐だった。かつての自分を弄んで潰した、華やかな地獄への復讐。 1週間後の夜公演、アンコール明けに僕は1人でステージに戻った。マイクスタンドと一緒に真ん中に用意された椅子に腰掛け、ギターを抱える。 音源は氷月のボーカルが入った古いテープしかなかったので、公演ではアレンジしてギターでの弾き語りという形にした。ギターは未経験だった僕だけど、テレビでの仕事が縁で知り合ったミュージシャンに、今日までじっくり教わってきたのだ。 「今から皆さんに聴いていただくのは、僕が生まれる前にデビューしたあるアイドルが詞と曲を作り、未発表のまま眠らせていたバラードです」 中途半端な気持ちで歌うことは許されない。テープを託してくれた夏本さんや、ここで歌わせてくれた寺尾さんを裏切る結果にはしたくなかった。 いつも公演で歌っているアイドルソングとは真逆の、重くて辛い歌詞。でも最後は、かすかに希望を感じ取れるものになっている。身も心も打ちのめされた16歳の氷月は、それでも前を向いて生きようとしていたのだ。泥の味を噛み締めながらも。 タイトルを告げた後、僕は演奏を始めた。今日集まっている観客に、そしてどこかで聴いているはずの寺尾さんに向けて。 僕が歌い続けていると静かな客席の中で、何人かが目元を指で拭ったりハンカチを押し当てながら泣いている。そして曲の最後まで、ステージの幕が閉じることはなかった。 公演終了後、静まり返った劇場のロビーに寺尾さんがいた。柱に背を預け、両腕を組みながら立っている。 目の前に現れた僕に気付くと、何故か不機嫌そうな顔でこちらを睨む。 「僕の歌、合格だったみたいですね」 「お金を払って来てくれたお客さんの邪魔しちゃ悪いでしょ」 トゲのある口調で言うと、寺尾さんは僕に背を向けてさっさと劇場を出て行ってしまった。 見間違いかもしれないけど、寺尾さんの目は少し赤くなっていた。 「あれから俺、ずっと考えてたんだよ。アイドルを強くするものは何かってやつ」 最寄りの駅から水無瀬の住むアパートまでは少し遠い。20分くらいは歩くけど、その間も2人で色々な話をするから退屈はしなかった。 それにしても1週間近くも悩んでいたのか、もうとっくに忘れてるかと思ってたよ。 「で、答えは出たの?」 「……出なかった。っていうより、出さなくてもいいかもなって。俺は研究生になってから色々あったし、これからもあるだろうけど、それを乗り越えて前に進むことで強くなると思うんだよ」 それを聞いて僕は衝撃を受けた。 もしかするとあの質問に正しい答えなんか最初から存在していなくて、夏本さんが求めていたものと僕の考えが偶然一致した、ただそれだけのことなのかもしれない。 |