地下へ続く階段を下りた先のドアを開けると、俺の探していた男がいた。カウンターの向こうでバーテンの格好をして、グラスを磨いている。
 男は俺の存在に気付くと、よほど驚いたのか手を止めてこちらを見つめたまま動かない。
「……水無瀬?」
「藤村さん」
 懐かしいその名前を口に出し、俺はカウンターに近づく。この店で藤村が働いているという情報を、先輩研究生から昨日聞いたのだ。明日は俺がセンターとして出る公演を控えているが、我慢できずに訪れた。
 藤村が真鍋達と共に解雇されてから、もう会えないと思っていた。
 まだ酒を飲み慣れていない俺は、あまり強くないカクテルを注文してカウンターの椅子に腰掛ける。平日だからかあまり客は多くないようで、藤村と話をすることができた。
 寺尾の事務所を解雇になった後、夜はこの店でバイトをしながらダンススクールに通っているらしい。前に俺にも語ってくれたプロデビューするという夢は、やはり諦めていないようだ。
「真鍋達との喧嘩のこと、寺尾さんから聞いて……俺は」
「気にすんなよ、俺が勝手にやったことだし。くだらない奴らに潰されて、だめになるお前を見たくなかった」
 俺がキャプテンになる決意をしたきっかけのひとつが、藤村の件だった。研究生のまとめ役なんて無理だと思っていたが、引き受けた今では後悔していない。
「ところでお前と伊織、大変なことになってるみたいだな。センター争奪戦だって?」
「俺のほうから仕掛けました。人気や知名度からして向こうが有利なのは分かってるけど、あいつを越えてトップに行きたいという夢はずっとあったので」
「へえ、お前って意外に野心家なんだな……っていうか、不利なのはむしろ伊織のほうだろ。チケット代がどうのって話じゃなくてさ。あいつがみんなを引っ張っていくのが想像できねえんだ。どうせ暴走するに決まってるからな」
 キャプテンの俺が参加しない公演では、センターの伊織が円陣その他を仕切ることになる。しかし今まで見た通り、伊織は自分だけが目立てればいいという身勝手さで、周りの研究生からの反感を買いやすい。
 初日はともかく、あと4回の公演を伊織は自己主張しすぎずに上手くやっていけるのか。
 最近まともに会話すらしていないこともあり、伊織が今どういう気持ちなのか、ステージの裏ではどうなっているのか知らないままだ。
 気が付くとこうして、勝負する相手を心配している。俺は本当にお人好しだ。


***


 翌日、今度は俺がセンターとしてステージに立つ公演の初日を迎えた。満席になった昨日に対して、今日埋まっている客席は300席中、194席。約3分の2だ。
「み、水無瀬! これくらいの空席なんか気にするなよ、まだ初日だし」
「頑張ろうぜ、な?」
 開演前、ステージの袖から客席を眺める俺に、先輩研究生達が心配そうに声をかけてきた。満席ではなかったので、落ち込んでいると思われたらしい。
「いや、むしろ俺は嬉しいです。194人も来てくれたんですよ? 集まったのが300人でも1人でも、俺は同じように全力を出します」
 今日客席にいる194人は、俺のセンターに期待して来てくれているのだと思う。これから俺がやるべきことは、使ったチケット代や時間を後悔させないように楽しませることだ。


***


 公演中のMCでは、今まであまり目立たなかった中学生メンバー2人を前に出してアピールさせたり、先輩研究生達の見せ場を作った。
 そして篠原にはガールズフェスタのMCでも使った、よくダサいと言われる俺の私服いじりをさせた。俺は自分の私服に問題があるとは思っていないが、元読者モデルの篠原から見ると引くレベルらしい。
 ガールズフェスタでは『私服のダサいキャプテンはこのステージに立たないでください』という、打ち合わせにはなかった毒を吐かれた。
「最近よく篠原と絡む機会が多いんで、さすがに見飽きたんですよね」
「安心してください、俺も水無瀬先輩に興味ないんで。ものすごくどうでもいい存在です」
 篠原の堂々としたいじり方に、客席から笑いが起きた。普段は俺達のチームワークがしっかり取れているからこそ、気まずくならずに成り立つMCだ。今回のセンター争奪戦が発表されてから、篠原からは時々メールや電話が来るようになっていた。
 アンコール明けには予定通り、ガールズフェスタの曲を公演で初めて披露した。突然篠原がセンターに立ったので客席がざわついたが、それはイントロが流れて曲が始まるとすぐに歓声に変わった。
 公演中に俺がセンターだった時より盛り上がったような気もする……別にいいけど。


***


 そんな調子で期間中の公演は回数を重ね、伊織がセンターを務める公演が先ほど4回目を終えた。今週末には全ての結果が発表され、新しい公演のセンターが決まる。
 そろそろ伊織と話をしようとして劇場に向かうと、ちょうど着替えを終えた先輩研究生達と廊下で顔を合わせた。
「お疲れ様です」
「あれ、水無瀬じゃん。どうしたんだよ」
「伊織なんですけど、もう帰りました?」
「ああ……あいつならまだロッカールームだけど、行かないほうがいいぜ。何されるか分かんねえから」
 やけに冷めた表情と口調で、先輩研究生がそう言った。他の皆も同じような反応だった。
 じゃあまた明日、と言い残して先輩達が俺の横を通り過ぎて行く。やがて廊下に1人で残された俺は、妙な胸騒ぎがしてロッカールームへ向かい、ドアを開けた。
 するとそこは、酷い状況になっていた。備品が床に散らばり、ゴミ箱が倒れて中身が半分くらい出ている。そして正面のロッカーに背を預けて座り込んでいるのは、ステージ衣装のままの伊織だった。
「おい伊織、これどうなってんだよ。まさかお前が」
「……今日は、260人」
 低い声で、俯いたままの伊織が呟く。そして急に顔を上げ、
「初日は満席だったのに、あれからどんどん減ってるんだよ! 僕があんなに頑張ってんのに、何でだよ! 僕は悪くない……なのに、何で」
 険しい顔で涙を浮かべる伊織を見てようやく理解した。きっと俺が来る前、伊織は同じようなことを叫びながら他の研究生達の前で暴れたのだ。実際に見ていなくても想像できる。
 今の伊織を見ても、俺は慰める気にはならなかった。
「僕が僕がって言ってるけどよ、お前1人でステージに立ってるわけじゃねえだろ。勘違いすんな」
「お客さんはみんな8000円払って僕を見に来てんだ! それに応えようとして何が悪いんだ!」
「お前がそうやって雰囲気悪くしてっから、見に来る人も減ってるんだよ! MCでも自分ばっかり喋りやがって」
 俺のほうは初日は3分の2くらいしか席が埋まらなかったが、少しずつ増えて昨日は220人になった。満席にはまだ遠くても、誰かを恨んだり悲しんだりはしていない。
 劇場まで来る常連の女性ファンは鋭いので、少しでも研究生達の雰囲気がおかしくなればすぐに気付くからだ。
 むしろ伊織の、あの身勝手なパフォーマンスを見せられてまだ260人も集まるのが不思議なくらいだ。俺とはファンの数が比べものにならないほど多いからかもしれないが、それでも理解できない。


***


 結局あのままロッカールームに伊織を置いて、俺はアパートに帰ってきた。あの状態の伊織には何を言っても通じないと、今までの付き合いでよく分かっている。
 シャワーを浴びるために服を脱ぎかけた時、電話が鳴った。発信者の欄には篠原の名前があった。
『先輩、遅くにすみません。話があって』
「いいよ、話って?」
『伊織先輩、今回はもうダメかもしれません』
 俺のいないリハーサルやステージ裏で、伊織は他の研究生達にかなりきつく当たっているらしい。今日のロッカールームの惨状も、やっぱり伊織が前回より客が減ったことで物を投げながら八つ当たりしていたようだ。減ったと言っても俺の時よりも多いのに。
 それにいくら伊織のファンでも、短期間で何回もあのチケット代を払い続けるのは大変だと思う。今まで公演に行ったことのない新規客には、尚更抵抗のある値段だ。
『俺、ずっと考えていたんですけど。伊織先輩が背負った本当のハンデって、チケットの値段じゃない気がします』
 前に藤村も似たようなことを言っていた。そう思いながら俺は篠原の話の続きを待つ。
『……ステージに水無瀬先輩がいないことが、あの人にとっての大きなハンデだと思います』
 他の研究生達に見捨てられた伊織が、ロッカールームで浮かべた涙を思い出す。その瞬間に俺の心は、どうしようもなく乱れた。




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