事務所の奥にある来客用のソファに、ひとりの女の子が座っていた。
 白いワンピースの上にデニムのジャケットを羽織っている。肩まで伸びた黒髪、色白の肌。揃えた両足の上に手を重ねて、じっと足元あたりに視線を落としていた。
「来たわね、みいちゃん。この子テレビで観たことあるでしょ?」
 透明なローテーブルを挟んで、女の子の向かい側に座っている寺尾が俺に気付いて声をかけてきた。言われた通り、確かによくテレビで見かける。ただの素人じゃない。
「初めまして水無瀬さん、シトラスに所属しているアヤという者です」
 女の子はソファから立ち上がり、俺の正面に来て深く頭を下げた。シトラスとは7人組の女性アイドルグループで、アヤはそこのセンターを務めている。最近になって他のアイドルのことも学ぶようになった俺でも知っている、超人気グループだ。
 明るくテレビで歌っている時とは違い、別人のように淡々とした物静かな雰囲気だった。
 オンとオフでキャラが違う芸能人はよくいるらしいので、これがアヤの本当の姿なのかもしれない。
「アタシの知り合いがやってる事務所の子なんだけどね、今日はもう暗くなってきたし、アンタこの子を駅まで送って行ってよ」
「え、俺が?」
「アンタに送らせるために呼んだのよ、夜公演も終わって暇なんだからいいじゃない」
 女の子の個人的な扱いには全く慣れていない俺が、わざわざ呼ばれたのは何故か。当然寺尾は、俺が男にしか興味がないゲイだと知っているはずなのに。だからこそ、アヤに対して変な気を起こさない俺が選ばれたのか? そういうことなら納得できる。
「お疲れのところ申し訳ありません、よろしくお願いします」
 アヤから差し出された手を握った途端、妙な違和感が全身に走った。いや、さすがにこれは俺の勘違いかもしれないが、これを寺尾に言ったところでバカにされるに決まっている。
 なのでとにかく気のせいだと思うことにして、俺はアヤと一緒に事務所を出た。


***


 夜の街は人通りが多く、ナンパや水商売のキャッチも頻繁に現れる。俺はそういう奴らからアヤを守る役目も兼ねているらしい。サラリーマンの集団にぶつかりそうになったアヤの腕を軽く引くと、小さな声で礼を言われた。
 予想通り、そばを通り過ぎる通行人がアヤを振り返りながら小声で囁き合ったり、思い切りガン見してきたりする。帽子とメガネで素顔をごまかしても分かってしまうらしい。「隣にいるのってあの、ゲイの奴……」、「アヤとどういう関係だ」という声も聞こえてきた。
「なあ〜、もしかして君アヤちゃんじゃない?」
 酔っ払いのおっさんが急に声をかけてきて、前を阻まれた。強烈に酒臭い息に耐えかねたのか、アヤは1歩引いておっさんを避ける。
「おい逃げんなよ、失礼な子だな。せっかく声かけてやったんだからもうちょっと愛想よくしろよなあ。アイドルなんだろ?」
 にやにや笑いながらおっさんがアヤの肩を掴んできたので、俺が引き離そうとした途端に突然アヤの顔が鬼のように険しくなった。その鋭い眼光に気付いたおっさんは、それまでの笑みを消して青ざめていく。
 アヤからの無言の威圧に完全に怯んだおっさんは全力で逃げて行った。あの様子じゃすっかり酔いも醒めただろう。
 アヤは深いため息をつくと、俺のほうを向き直る。
「……変なところをお見せしてしまいましたね」
「あんた、女じゃねえな」
「女じゃなきゃ、何だって言うんです?」
「男だろ?」
 事務所で手を握った時に感じた、あの違和感の正体はそれだ。口には出さなかったが、あれからずっと疑っていたのだ。
 俺達の間に沈黙が流れた後、アヤは穏やかに微笑んだ。話せば長くなるので場所を変えたいと言われて、ふたりで落ち着ける場所へと移動した。


***


「私の本当の名前はアヤではなく、タカヤと言います。望月貴也」
 駅前のベンチに座り、俺の隣でアヤが話し始めた。俺の思っていた通り男だったが、顔も体型も見た目は完全に女だ。本当の性別を見抜ける奴は、ここまで徹底してるとほぼ居ない。
「昔は普通に、男として高校に通っていました。テレビ番組で知った、期間限定でアイドルグループのセンターになれるという企画に応募するまでは。応募資格は16歳から20歳までの、身も心も女の子になりきれる男性。女装してセンターに立つので」
「そのアイドルグループが、シトラスなのか」
「はい、当時はそれほど有名でなくて、思いきった企画で話題を集める目的だったようです。私はそのオーディションを受けて、センターを勝ち取りました。たった3ヶ月の間でしたが、今までにない経験ができてとても楽しかった。ステージで歌やダンスを披露して、みんなに注目してもらえるのが嬉しくてたまらなかった」
 当時の気持ちを思い出しているのか、アヤは恍惚とした表情で夜空を見上げた。
「契約の3ヶ月が経って普通の高校生に戻った私は、急に色褪せた毎日がとても退屈でした。もうあのメンバーと一緒にステージで踊ることはできないと思うたびに、気持ちが重くなって勉強も手に付かなくなって。高校を卒業してしばらく経った時、シトラスの新メンバーを決めるオーディションが開催されると聞きました」
「それってあれか、やっぱり男じゃダメなやつだろ?」
「ダメです。本当のメンバーになれるのは女性だけで、私は男だったから書類を出しても落とされてしまう。でもどうしても諦めたくなくて、性転換のための手術を受けました」
 アヤは淡々と語っているが、俺は驚きを隠せなかった。伊織と同じように元から細くて、化粧や服で上手く女装をしているだけだと想像していたからだ。まさかアイドルになるために、性転換手術までしているとは思わなかった。男子高校生だったアヤは、今は身体まで女になっているのだ。
「あのさ、迷わなかったのか? もし手術までして落とされたらとか……」
「迷うのは、諦めて男として生きるという逃げ道があるからです。後戻りできなくなれば、もう決めた道を進むしかありません。だから私なりの方法で逃げ道を断ちました」
 アイドルになりたいというだけなら、男のままで俺達の事務所に入って研究生になる選択肢もあった。でもアヤは以前に自分がやりがいを感じたシトラスのメンバーになりたくて、男としてのその後の人生を切り捨てたのだ。


***


「あら嫌だ、アンタ知らなかったの? アヤが男の子だったこと」
「昨日知りました」
 翌日事務所に行き、アヤについて寺尾から色々と聞いた。どうやらアヤが性転換をしてシトラスに加入したのは業界では有名な話で、ファンもそれを承知でアヤを応援しているらしい。
「目的はどうあれ、身体を違う性に作り変えるってことは相当な勇気と覚悟がいるのよ。アヤの場合は手術して女になってはい終わり、だけじゃ済まないんだから。術後のケアも大変だし、そのためにたくさんのお金もかかるの」
「……それでも、あいつは女としてシトラスに入りたかった」
「体力的にも負担は大きいはずだから、正直今の活躍がずっと続けられるかどうかは分からないわ」
 そう言うと寺尾は愛用のド派手なハンドバッグから手帳を取り出し、そこに挟んでいた何かを俺に差し出した。
「これ、明後日のシトラスのライブチケット。招待されてたんだけど、この日は急な仕事が入って行けなくなっちゃったの。みいちゃん、アタシの代わりに行ってくれる?」
 明後日はちょうど、昼夜どちらも公演の予定が入っていない。他のアイドルのパフォーマンスやMCは勉強になるし、断る理由はなかった。


***


 シトラスのライブは大盛況で、会場中にアンコールの声が響く。誰もいないステージは薄暗いままで、すでに数分が経っていた。裏で何かあったのか、ここからでは何も分からない。
 やがてメンバー全員がステージに戻ってきたが、アヤはもう体力の限界なのか他メンバーに肩を支えられながら歩いてくる。おぼつかない足取りのアヤはたどり着いたマイクスタンドにしがみつき、その周りをメンバー達が囲むように立つ。
 あんな状態で踊るのは無理だ、動けるわけがない。静まり返った観客が見守る中、曲のイントロが流れ始めた。曲調の変化と共に明るく照らされたステージの上で、それまでは苦しそうに俯いていたアヤが別人のような明るい笑顔で踊り始めた。しかも他メンバーよりもキレのある動きだった。客席の最前列で見たアヤの生パフォーマンスは、無意識に追ってしまうほど印象的だ。それはアヤの事情を知って、男としての人生と引き換えに手に入れたものをこの目でしっかりと確かめたかったのかもしれない。
『これからの人生全てを賭ける覚悟がないなら、アイドルなんてやめるべきだと思います』
 この前そう言い切ったアヤが、疲労なんて一切感じさせないダンスで観客を盛り上がる。
 伊織を越えてプロとしてデビューした後、次に立ちはだかるのはアヤだ。俺はアイドルとして、あいつみたいな強い覚悟はあるんだろうか。もし俺がアヤの立場だったら、自分の性を変えてまでアイドルにはならなかった。
 アヤの激しいダンスも、ハスキーな歌声もその全てが、身体の芯まで燃やし尽くすような熱さを感じた。




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